馬場と猪木~1981-1983 幻の新日プロvs全日プロ全面対抗戦計画と統一コミッション構想【前編】

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馬場と猪木 プロレス
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この有名な写真は、1982(昭和57)年2月7日、東京・赤坂のホテルニューオータニで行われたジャイアント馬場とアントニオ猪木の「極秘会談」の際の1枚とされています。

 

当時、“仁義なき引き抜き合戦“の真っただ中で「絶縁状態」とも思われていた両者は、いったい何が目的で会い、そこで何が話し合われたのか?

 

馬場と猪木

 

今回はこの時、水面下で合意に達していたとされる幻の「新日本プロレスvs全日本プロレス 全面対抗戦計画」と「統一コミッション構想」の真相に迫ります。

 

1981年 “仁義なき引き抜き戦争“

 

この前年、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両雄が率いる全日本プロレスと新日本プロレスは、“仁義なき引き抜き戦争“を繰り広げていました。

 

先手を打ったのは新日本プロレス。長年にわたる馬場の好敵手であるアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、1981(昭和56)年5月8日に新日プロは川崎大会でリングに上げ「IWGPに参戦する」とアピールさせ、「ブッチャー新日移籍」とアントニオ猪木との対決をブチ上げます。

 

ブッチャー、新間寿 ブッチャー新日登場

 

これに怒ったジャイアント馬場は、わずか2か月後の1981年7月、新日プロのトップヒールであるタイガー・ジェット・シンを引き抜き返します。この引き抜きは、シンの代名詞ともいえるサーベルの手配が間に合わず、木刀や竹刀で代替せざるを得ないほどの”電撃作戦”でした。

 

 

これをきっかけに両団体は激しい引き抜き合戦を展開。新日プロが全日プロの常連であるディック・マードック、そしてタイガー戸口(キム・ドク)を引き抜けば、全日プロはシンのパートナーである上田馬之助、藤波の好敵手でJr.の雄 チャボ・ゲレロを引き抜き。

 

しかし、この引き抜き戦争の「勝者」はジャイアント馬場・全日本プロレスでした。

 

馬場はブッチャーが新日マットに登場した翌月、すぐさま全日プロのトップレスラー兼ブッカーであるテリー・ファンクを介して、当時の新日プロのエースガイジンでありアントニオ猪木と幾度となく死闘を繰り広げていた、スタン・ハンセンに接触していたのです。

 

衝撃のハンセン全日マット登場

 

スタン・ハンセンは1981年12月10日、新日本プロレスの「第2回MSGタッグリーグ戦」を終え大阪から東京へ戻ると、翌11日、新日プロ定宿の京王プラザホテルから忽然と姿を消します。新日プロのスタッフが空港へ送るためにホテルに行くと、すでにハンセンはチェックアウト済で、部屋はもぬけの殻。

 

新日プロサイドは「来日経験の豊富なハンセンが独断で帰国したのだろう」と思っていましたが、実はハンセンはこのとき、全日プロの手配した別のホテルに移っていたのです。

 

そして12月12日、ハンセンは全日本プロレスの「‘81世界最強タッグ決定リーグ戦」横須賀総合体育館大会に突如、姿を現します。

 

 

マスコミが騒然とする中、ハンセンはジョー樋口の案内で外国人側の控室に入り、1時間ほどで再び姿を見せると「今日は久しぶりにフランク(ブロディ)と話がしたかっただけだ、大騒ぎしないでくれ、明日予定通りアメリカへ帰る」と“釈明“。しかし試合を終えたブロディ、スヌーカと一緒に、待たせてあった車に乗って会場を後にします。

 

翌12月13日、この日は蔵前国技館で「‘81世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦が行われました。メインイベント、通路からブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組が入場する際、後ろからテンガロンハットを被った私服姿のスタン・ハンセンが現れ、満員の場内は騒然となります。

 

 

ハンセンはブロディのセコンドとしてリング下で戦況を見つめます。しかし試合終盤、遂に場外でテリー・ファンクにウェスタン・ラリアットを一閃。試合に介入します。

 

 

こうしてハンセンはブロディ&スヌーカ組の優勝をアシストしただけでなく、試合後にジャイアント馬場やジャンボ鶴田と大乱闘を繰り広げます。

 

 

これで完全に「ハンセン全日移籍」が既成事実化してしまいました。

 

そしてスタン・ハンセンはこの事件からわずか1か月後の1982年1月15日、全日本プロレスのシリーズに正式参戦。

 

シリーズ最終戦の2月4日にはジャイアント馬場との初の一騎打ちも決定しました。それは奇しくもアントニオ猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャーが行われる1月28日の1週間後、会場も同じ東京体育館なのです。

 

新日プロが停戦を申し入れ

 

この衝撃の「ハンセン全日プロ移籍」は、プロレスマスコミを巻き込んだ大騒動に発展します。

 

ハンセンが全日マットに殴り込んだわずか4日後の12月17日、別冊ゴング1月号の表紙に「ハンセンとブロディが’82揃って日本上陸・新日本プロレスの裏をかいて全日本プロレスへの登場が濃厚」というスクープ記事が掲載されたのです。

 

別冊ゴング

 

これに対しライバル誌の月刊プロレスは1月14日発売の2月号に「ハンセンの引き抜きに関して、一部マスコミが暗躍している」とした新日本プロレス副社長の坂口征二のコメントを掲載。

 

疑いをかけられた月刊ゴングの竹内宏介氏はすぐさま坂口と会談を持ち、取材の経緯を説明。結果として、坂口が竹内氏に誤解だったと謝罪するも、月刊プロレス誌は「竹内氏の関与は間違いない」という姿勢を崩すことはありませんでした。

 

もともと竹内氏は全日本プロレス中継で解説者を務める一方、アントニオ猪木の右腕である新間寿・新日本プロレス営業本部長とも昵懇の仲。こうした騒ぎの最中、竹内氏は新間氏から極秘裏に、ある仲介役を依頼されます。

 

新間寿

 

それはハンセンが全日マットに正式参戦した1982(昭和57)年1月15日。竹内氏は新間氏から電話で「引き抜き合戦の件で馬場御大と直接、話がしたい。猪木との会談をセッティングしてくれないか」というものでした。

 

馬場-猪木 極秘会談が実現

 

1982年2月7日。東京・赤坂のホテルニューオータニの1室で、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両巨頭が極秘で会談を持ちました。

 

新間氏はこの時の様子を、次のように明かします。「引き抜き戦争は新日本の痛手の方が大きかった。結局はガイジンレスラーのギャラが高騰するだけだから、こっちから停戦を申し入れたんだよ」

 

新間氏は最初は部屋に入らず、2人だけで話をしてもらったと言います。「馬場さんの方が年長だから、猪木はまず頭を下げなきゃいけないでしょ。私がいたらやりにくいと思って、敢えて先に2人だけで会ってもらったんだよ。しばらくして部屋に入ると2人ともニコニコしていて、刺々しいものも突っ張り合いもなし。きっと昔の2人はこんな感じだったんだろうな、という雰囲気でしたよ。猪木が馬場さんに『こいつ(新間氏)も言い過ぎるところがありますけど、わかってやってくださいよ』そうしたら馬場さんも『オレもな、あんまり言われるとアタマに来るよ』ってサラっと言うのよ(笑)」

 

馬場と猪木

 

この時、新日側は停戦のガイドラインを提示し、馬場もそれを了承。両団体の引き抜き戦争は終結へと進み始めました。

 

しかし、話はそれだけでは終わらないのです。

 

新日本プロレスvs全日本プロレス 全面対抗戦計画

 

こうして生まれた両団体のホットライン。猪木・新日プロにはさらなる狙いがありました。

 

4月21日、今度はホテル・オークラで馬場-新間会談が実現。この時、新間氏は両団体の全面対抗戦の計画を持ち掛け、馬場もそれを了承した、と言うのです。

 

この計画を持ち掛けた新間氏は、その狙いを次のように話します。「あの頃、猪木は心身共にボロボロだった。糖尿病を患い、『アントン・ハイセル』事業の資金繰り問題もあった。だからハッキリ言えば、お金が欲しかったんだよ。あの状態で全日プロと対抗戦をやれば、大きなお金が生み出せるからね」

 

あの慎重な馬場がこの対抗戦計画に前向きだったのにも、理由があります。それは自団体内での自身の立場がこの時期、危うくなっていたからでした。

 

この1982(昭和57)年、全日本プロレスは日本テレビから出向してきた松根氏が社長に就任。馬場は会長職に棚上げされています。松根氏は2月の月刊プロレス誌インタビューで「馬場さんがいつまでもトップではなく、若いジャンボや天龍を全面に押し出すのが課題。私は馬場さんにトップレスラーの座を降りてプロモーターの仕事に専念してもらうことを勧告したい」と発言。“事実上の引退勧告”を突き付けられていたのです。

 

馬場_松根社長

 

ジャイアント馬場は2月4日のスタン・ハンセンとの初の一騎打ちで久々に強さを示し、“プロレスラー・ジャイアント馬場 完全復活”をアピールすることに成功しますが、かねてからファンの間で“馬場限界説”が根強いことに加えて、やることなすことド派手で、視聴率も稼ぎまくるアントニオ猪木と比べオーソドックスで堅実、そして若手の登用も少ない馬場の経営手腕に不満を抱いていた日本テレビからの圧力は日増しに強まる一方で、危機感を募らせていました。

 

そんな中で持ち掛けられた新日プロとの対抗戦。これが実現すれば、「やっぱり全日プロのかじ取りは馬場じゃなきゃだめだ」と日テレに思い知らせることができます。

 

一方の新日サイドも、そんな馬場の立場に配慮して、「BI対決は行わない」ことを大前提に、提案を持ち掛けます。「基本はタッグマッチ。両団体の選手をAからCランクに分けて、AとCが組んでCが潰されるだけならお互い傷はつかない。あとは勝負させたい選手は勝敗のリスクは度外視して、ぶつけ合いましょう」とする新間氏の提案に、馬場も理解を示したと言います。

 

こうして“基本合意”に達した新日本プロレスvs全日本プロレス 全面対抗戦。
ここから両団体は、実現に向けてさまざまな“仕掛け”を展開していきます。

 

後編に続きます。

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