SWSとは何だったのか?①1990年~天龍全日離脱、旗揚げ戦!

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プロレス
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早いもので、あの「SWS騒動」からもう20年以上が経つのですね…

 

当ブログ「UWFとは何だったのか?」シリーズで取り上げたUWFが「プロレスの格闘技化実験運動」であったのに対し、このSWSは「企業スポンサードプロレス」の実験といえる”大事件”でした。

 

以降、SWSの歩みを可能な限り時系列で振り返りつつ、解説していきます。今回の①は1990年、天龍衝撃の全日プロ離脱から、旗揚げ戦です。

 

 

​イントロダクション~80年代後半の全日本プロレス

 

ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは、1972(昭和47)年の旗揚げ以来、激動のアントニオ猪木・新日本プロレスに比べると、派手さはないものの、マイペースで安定した団体運営を続けているように見えました。

 

アブドーラ・ザ・ブッチャーの流出に端を発した新日本プロレスとの”仁義なき引き抜き合戦”も、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを獲得して事実上勝利し、新日本プロレスの「クーデター騒動」(1983)の余波で、長州力率いるジャパン勢、さらにはタイガーマスクのライセンスまで、棚ボタで獲得に成功。

 

いつしか80年代前半の猪木・新日ブームの裏で激しさを増していた日本テレビからの「馬場降ろし」の風も凪ぎ、80年代後半からは長州が抜けたことに危機感を強くした天龍源一郎が「天龍革命」で決起(1987)。

 

ジャンボ鶴田との「鶴龍抗争」は異様な盛り上がりを見せ、日本武道館を常打ち会場にするまでになっていました。

 

1990 天龍全日離脱、SWS発足

 

4月19日

横浜文化体育館で、鶴田vs天龍の三冠ヘビー級戦がマッチアップ。

 

 

鶴龍対決は実に7度目、戦績は若手時代の2引き分けを除けば3勝3敗でしたたが、この試合は不可解なハンセン乱入で波乱の幕開け。結局12分32秒、 バックドロップホールドで鶴田が勝利し、2度目の防衛に成功。

 

この試合前、天龍は「ジャンボに負けたら(全日を)辞めるよ」と親しいゴング誌小佐野記者に漏らしていたとの報道がなされ、天龍の動向に注目が集まりました。

 

4月23日

天龍は、4月23日に辞表を手に馬場と会談。その席で天龍は馬場に新興団体メガネスーパーから誘われていることを打ち明けますが、その場では結論は出ず、とりあえず馬場が辞表を保留。

 

4月26日

馬場と天龍がキャピタル東急ホテルで再び会談。馬場は押し切られる形で、天龍の辞意を了承する事となりました。

 

この時、天龍はマスコミに対し

「馬場さんとの話し合いで円満に退社を認めてもらいました。これからはメガネスーパーの資金援助を受けて新しく天龍部屋のような物を作り、メガネスーパーさんが用意してくれるリングに上がります」

と胸のつかえが下りたような表情で語り、一方の馬場も

「天龍がメガネスーパーに行く事になりました。天龍とは今日を含め、何回か和やかに話し合ったけど… すべて綺麗な話が出来たと思う。将来は天龍部屋みたいな物と、全日本との間で対抗戦が行われることもあり得る」

と語っています。

 

 

この時点で多くのファンはまだ「天龍の退団(独立?)だけで済んで欲しい」と思いつつも、当然それだけで済むワケもなく。水面下で事態は大きく動き始めていました。

 

4月27日

ジョージ高野、佐野直喜の2選手が大会を欠場、新日本プロレスからの脱退が表面化。「天龍新団体への合流か?」との見方が強まります。

 

5月7日

ジョージ高野が正式にメガネスーパー新団体参加の意向を表明。

 

5月10日

東京・ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」田中八郎メガネスーパー代表取締役社長、富永巽総務部次長、所属選手天龍が出席し、SWSの発足を発表。

 

天龍の「カラッと激しいプロレスを目指したい」という豊富よりも、田中八郎社長の「全体として費用は60~70億円ぐらいかかると思います」とのコメントが、関係者とファンの度肝を抜きました。

 

 

5月14日

東京体育館で、激震に見舞われた全日本プロレスの「スーパーパワーシリーズ」が開幕。川田利明と組み、谷津嘉章&サムソン冬木と対戦した2代目タイガーが自らマスクを脱ぎ、三沢光晴として大声援を浴びました。

 

 

相次ぐ離脱者、部屋制度の発表

 

ここからは連日、SWSが新団体設立に向けて一気に動き出します。

 

5月15日

若松市政の入団と道場主就任を発表

 

6月 5日

ジョージ高野の入団と道場主就任を発表

 

6月27日

横浜仮道場完成披露パーティーにて桜田一男、鶴見五郎、片山明が所属選手として出席

 

7月 2日

全日を退団したサムソン冬木、高野俊二ら5名の入団を発表

 

7月11日

石川敬士の入団を発表

 

7月12/13日

第1回新人オーディション開催 元新日の大矢健一、元全日の平井伸和ら6名が合格

 

8月 7日

ザ・グレート・カブキ、谷津嘉章の入団、米沢良蔵氏の取締役就任を発表

 

8月23日

アメリカから帰国した佐野直喜の入団を正式発表

 

8月29日

維新力の入団と、新倉史祐のフリー参戦が発表

 

8月30日

ホテル・オークラで「SWS事業概要発表会披露パーティー」開催。

 

天龍率いる『レボリューション』、若松率いる『道場「檄」』、高野率いる『パライストラ』の3つの部屋の正式名称と選手の振り分け、9月の旗揚げ戦を発表。

 

激震の全日本&新日本の対応

 

ジャイアント馬場・全日本プロレスは、複数年契約を提示して離脱者の引き留めを行うものの、結果として中堅選手とスタッフまでが大量離脱。

 

特に相次ぐ離脱がひと段落し、一致団結していこうとした最中の谷津とカブキの離脱はショッキングで、一時「崩壊」の噂まで流れました。

 

谷津は離脱の理由を「ウィリアムス戦で負った負傷と、全日が入院治療費を払ってくれなかったから」としましたが、馬場はこれに対し「ウチは領収書なり請求書なりを提出したら、きちんと払っている。契約書にもその旨記載がある」と反論しています。

 

 

カブキはシリーズ前に2年契約で更新、契約金も受け取っていたがサインはせず。7月30日に馬場と会談し、鶴田と保持していた世界タッグ返上と併せて退社の意向を伝えました。

 

理由としては「天龍がいないところでやっていたってしょうがないと(シリーズ終了2日前に離脱を)決めた」と語っている。もう一人の米沢氏は、全日プロの取締役渉外部長でした。

 

一方の新日本プロレスは過去にUWF、ジャパン勢など度々大量離脱に見舞われていた経験を活かし、早急な慰留工作を行い、主力級の離脱を食い止めました。

 

同時にジョージ高野と佐野に関しては法的措置を取り、星野勘太郎などのベテラン選手が道場に泊まり込み、若手を監視していました。

 

 

9・29 プレ旗揚げ戦

 

9月29日

天龍のお膝元である福井市体育館で、SWSプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催

 

 

メインイベントは天龍・石川vs谷津・高木という、元全日勢のみのタッグマッチ(天龍が高木をKO)。

 

目玉の1DAYトーナメントではジョージvs鶴見、佐野vs北原、佐野vs冬木、高野兄弟対決など、SWSならではのカードも組まれました。

 

この模様は福井ローカルテレビ局のみで放送されました。

 

 

 

10・18,19 横浜アリーナ 旗揚げ2連戦『闘会始’90』

 

 

そして10月18日と19日の2日間、遂にSWSの正式な旗揚げ戦が横浜アリーナで開催されました。

 

初日は1DAYタッグトーナメント、高野兄弟組がカブキと組んだ天龍からピンフォール勝ちで優勝。旗揚げ戦でエースが敗れるのは、ある意味定番ではありますね。

 

2日目のメインは天龍vsG高野、天龍が雪辱。

 

この模様は10月21日にテレビ東京で放送され、私はテレビ観戦しました。

 

冒頭から天龍の移籍に対する釈明的なコメントが続き、当時の空気を感じます。肝心な試合はDJ風?の英語混じりの斬新な実況と、不慣れなテレ東のカメラワークに非難轟々だったことしか覚えていません。

 

いま改めて観ると当たり前ですが天龍もジョージも若く、結構盛り上がってますね…

 

しかし当時は、天龍と高野の試合に「ストーリー」がないせいで、激しい試合にも関わらず“なんとも空虚な試合”、に感じた記憶があります。

 

 

10月16日

ドン荒川の入団を発表

 

11月 1日

北尾光司の入団を発表

 

旗揚げ戦後に、一気に不穏さが増すこの2人が加入しました。

 

 

11・10~ 道場マッチ『登竜門』開催

 

11月10日

この日から、新横浜仮道場で、道場マッチ『登竜門』が開催されました(この日含め計5回開催)。

 

この道場マッチ、昼間に500円で観ることができました。私は当時、ここからバイクで10分ほどの所に住んでいたので、1~2度 観に行った記憶があります。

 

横アリから少し離れた場所に、トレードマークのティラノサウルスがシャッターに描かれた、真新しい物流倉庫のような立派な道場があり、北尾と北原がいたような…

 

超至近距離での試合はスパーリングのようなものでしたが、とにかくリングの生音が大迫力で、それなりに楽しめました。

 

 

11・20 SWS、WWFとの2年間の業務提携を発表

 

 

そして11月20日、SWSはWWFとの2年間の業務提携契約を締結したことを発表します。

 

このビッグニュースをもって、激動のSWS旗揚げ1年目は終了しました。

 

② 1991年 につづく

コメント

  1. Kohji Masaki より:

     初めてコメント致します。FacebookのKohji Masaki実名でコメント致したいと思います1975年東京生まれ。 私は全日本時代から天龍ファンでしたが、SWSは私も当時中学3年の時でしたから衝撃でした。天龍さんが離脱したときは、正直私も全日本のファンをやめて天龍さんについていこうと思いましたが、1990年6月8日の武道館大会で三沢選手がジャンボ鶴田さんに勝利したことで、私の心は全日本に戻りました。私は天龍さんの他、グレートカブキさんや谷津嘉章さん(五輪コンビ)、サムソン冬木さんも好きな選手で、全日本に残留した選手で興味のあったのは、ラッシャー木村選手のマイクパフォーマンスか川田さんぐらいでしたけど、それでも全日本の熱い煮えたぎる雰囲氣というのは、中学生でも充分に伝わりました。
    プロレス雑誌も、私は週刊ゴング一筋で週プロは立ち読み程度で、常にゴング誌で全日本新日本SWS・UWFなどを観ていましたけども、SWSの最大の過ちは、馬場さんが天龍離脱後のコメントにもあるように「将来、天龍部屋と全日本が対抗戦をするかもしれない」ということを仰っていたように、天龍さんと他1~2名だけの離脱ならやむを得ないという処に、多くの離脱者が出たことで、完全に全日本と敵対してしまったのが要因だったように感じます。全日本からは天龍さんの他では、高野俊二さん・サムソン冬木さん・仲野信市さん・北原辰巳さん・折原昌夫さんが1990年6月中に退団退社し、鶴見五郎さんはフリーの参戦だったので、郵送にて全日本の次期シリーズには出ないことを告げ、高木功さんは確か3月の契約更改をしなかったので、そのまま自由契約扱い、谷津嘉章さんは7月のシリーズ2戦後に引退退団し、グレートカブキさんは元々最後に全日本を辞める決意だったように記憶しています(当時のゴング誌から)。
    当時(1990年6月~7月)の週刊ゴングを思い出すと、やはり馬場さん、馬場社長は冬木さんと北原さんを引き止めたかったんだな、と感じます。
    冬木さんとは4日間も全日本事務所で話し合いをしたそうですし、北原さんにもかなり強い慰留があったように記事には書かれています。
    でも、その後SWSが崩壊して、WARが出来、そして各団体が群雄割拠の如く自派乱立するなかでも、冬木さんがエンターテインメント路線で華を咲かして、北原さんも格闘技を取り入れて独自の路線を着実に切り開かれている姿を馬場さんも温かいまなざしで見ていたと思います。
    馬場さんは契約を重んじる人でしたけど、その人の人間性まで否定する人ではありませんから、SWSに行った人達のその後については、全て許していたはずです。だから後年1997年頃から鎖国を解いて、他団体対抗戦をしていたのもその表われ、だと私は思うようにしています。
    以上、長々とコメント致しましてすみませんでした。

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