SWSとは何だったのか?②1991年~週プロと対立、WWFとの共闘!

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プロレス
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「SWSとは何だったのか?」シリーズ②、1991年編です。

①はこちら

 

1990年当時のSWS所属選手

 

ここで一旦、SWS所属選手についてまとめます。

 

 

■レボリューション
天龍源一郎(道場主、理事会長、選手会長、取締役、代表取締役社長)
ザ・グレート・カブキ(選手会編成部長、マッチメーカー)
石川敬士(選手会会計、マッチメーカー)
阿修羅・原
サムソン冬木
北原辰巳
北尾光司
ウルティモ・ドラゴン
安良岡裕二
折原昌夫
平井伸和
中原敏之

 

■道場「檄」
将軍KYワカマツ(道場主、選手会管理部長、選手会副会長、取締役)
ケンドー・ナガサキ(選手会編成部長)
谷津嘉章(選手会議長、2代目道場主、2代目選手会長)
鶴見五郎(道場主代行)
仲野信市
高木功
畠中浩
川畑輝
維新力

 

■パライストラ
ジョージ高野(道場主)
高野俊二
ドン荒川
アポロ菅原
新倉史祐
佐野直喜
大矢健一
片山明

 

 

​1991年 週プロとの対立が激化

 

2月14日

SWS、週刊プロレスに対し「取材拒否通達書」を発送

 

 

SWSといえば避けて通れないのが、この週刊プロレスからのバッシング問題です。

 

とにかく天龍の全日離脱発覚直後から、週プロのバッシングは凄まじく、「プロは金であることがはっきりした」など、天龍=SWS=金権=悪、という半ばヒステリックな論調で毎号誌面が埋め尽くされ、これを既成団体からの引き抜きに危機感と嫌悪感を示した当時のプロレスファンの多くが支持しました。

 

ライバル誌の週刊ゴングは天龍と親しく、離脱前から天龍の苦悩を見つめていた小佐野氏が編集長であり、公平な報道に務めますが、センセーショナルな筆致で当時圧倒的な支持を得ていたターザン山本編集長率いる週プロの勢いの前では分が悪く、「週ゴンは天龍寄りで本当の事を書いていない」かのような印象まで持たれていました。

 

そして旗揚げ翌年の2月、遂にSWSは週プロに対して取材拒否、という事態に至ります。きっかけはSWS初となる東京ドーム大会の広告でした。

 

週プロ編集部がレイアウトした際に、天龍の口元の部分に「ドームに夢を見よ」というコピーの「夢」という文字を重ね、「天龍の口に黒いマスクをかぶせたように見える」とSWSがデザイン修正を要求。しかし結果的に誌面には修正前のものが掲載され、これに怒ったSWSが取材拒否を通告した、といわれています。

 

これに対し週プロ側は真っ黒な背景に『2月15日の午後、SWS代表取締役の田中八郎より取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました』と表紙に掲げ対抗。さらにその数週間後に「SWSに関する一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と編集長名入りで宣言、両者の関係は完全に決裂状態となりました。

 

 

2月24日

第2回新人オーディション開催

 

安良岡裕二、中原敏之が合格、オーディションとは別に川畑輝ら2名の入団を発表

 

この時期、剛竜馬の率いるパイオニア戦志が経営難に陥り、丸ごとSWSに1道場として吸収される動きがあり、田中社長から既に支度金も受け取っていたようですが、選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになります。

 

「後にも先にもSの選手会が一つにまとまったのはこの時だけ」という笑い話も。

 

 

3・13 SWS、藤原組と提携

 

3月13日

SWS、「新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)」と業務提携を結んだことを発表

 

分裂したUWFの中で、藤原組は「メガネスーパーワールドスポーツ」の傘下団体でしたので、提携するのは普通の流れです。主義、スタイルの違いというものを除けば…。

 

 

 

3・24 天龍&北尾、レッスルマニア出場

 

3月24日
ロスアンゼルスで開催されたWWF レッスルマニアVIIに天龍、北尾が日本人として初出場

 

デモリッションと対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利

 

すっかり忘れていましたが、これって何気にすごい事ですね。後のWWEの大ブレイク、巨大資本化の前とは言え、当時のSWSマネーの力を感じます。

 

 

3・30 SWS、WWFと共催で東京ドーム大会を開催

 

3月30日
SWS、WWF 東京ドームとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催

 

この大会から、藤原組が初参戦。そしてJBS(WOWOW=日本衛星放送)による放映が開始されます。

 

 

WWFからの参加レスラーはハルク・ホーガン、アルティメット・ウォリアー、テッド・デビアス、ブレット・ハート、ランディ・サベージなど、当時の主力選手を揃えた豪華メンバー。

 

中でもブレット・ハート&Jナイドハートvsジャネッティ&マイケルズ(ザ・ロッカーズ)の直輸入マッチは、アメプロファンを狂喜させました。

 

そのほか、北尾とテンタの第1戦が行われ、テンタの勝ち。

 

 

メインは天龍・ホーガンの夢のコンビが、ロード・ウォリアーズ(リージョン・オブ・ドゥーム)と激突。14分3秒、ホークがホーガンからリングアウト勝ちでした。

 

ちなみにこの時の船木は佐野とシングルマッチ。試合前に若松が藤原組の控え室に乗り込んで「おかしなマネしやがったら刺すぞ」と、藤原と一悶着あったそう。

 

試合後に健闘を讃え合う両者の間に、若松とドン荒川がいるのが不穏です(試合は船木の勝ち)。

 

 

みのるvsアポロ、北尾vsテンタの「W事件」

 

4月1日
兵庫県・神戸ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催

 

この大会は、なんといってもきな臭い「2大事件」が話題になりました。

 

鈴木みのる(藤原組)vsアポロ菅原 不可解な試合放棄事件
https://www.nicovideo.jp/watch/sm12077433

 

後に「先にシュートを仕掛けたのはアポロ」説があったりしますが、改めて見てみるとなんて事はないですね…鈴木のあまりにカタいスタイルに嫌気がさした菅原がなんとかプロレスしようとするも、鈴木はまるで付き合わず、単に噛み合わずに試合にならずに終わっただけ、にしか見えません。

 

鈴木によると「アポロが仕掛けて来てるぞ」やっちまえ、とレフェリーである空中からまでGOサインが出てるのに行けず、試合後にゴッチ&藤原から死ぬほど怒られた、と語っています。

 

そんな状況で試合を続ける方が酷な話であり、やってられるか、とリングを自ら降りて試合を放棄したアポロを責める気持ちにはなれませんが…。ドームからの両陣営の互いへの不信感が暴発した感じですね。

 

テンタ戦で反則負けを喫した北尾の試合後の「八尾長野郎発言」事件
https://www.nicovideo.jp/watch/sm11787557

 

こちらも緊張感という点では面白いものの、結局はショッパイ同士の試合が成立し損なっただけ・・・のお粗末な展開。

 

ドームでの初戦はテンタの勝利で、順番的には北尾が勝つハズ…なのですが、WWFですっかり自信をつけたテンタが拒否しただの、ドン荒川が余計な事を吹き込んだだの(笑)・・・いろいろ言われてますが・・・

 

ともあれ北尾のサミングポーズでの睨み合いなど、香ばしい&きな臭さが好きな人には、面白いのでしょう。

 

4・4 「八百長野郎」発言で北尾解雇

 

4月4日

緊急理事会を開き、北尾の解雇を決議

 

当時、処分の理由として試合後の「八百長」発言が、対戦相手のテンタにだけではなく、観客に向けての侮蔑(「お前らこんな八百長観て面白いのか」)でもあった、という点が、特に問題になっていた記憶があります。

 

もちろん普段からの素行も悪く「もう面倒みきれない」という結論だったのは、長州現場監督と衝突して国籍差別発言からの解雇、という新日時代と同様ですね。

 

天龍はこの件に関し、「皆、いろんな会社や団体でいやな思いをしてこの団体にやってきたんだ。だからこそ意地を示して欲しかった」と語っています。相撲出身、元横綱で新日では活かせなかった素材だけに、なんとかしてやろう、という思いは強かったと思われますが、いかんせん北尾の行動はあらゆる意味で規格外過ぎました(それでも後にWARでまた面倒をみるのが天龍らしいのですが)。

 

6月10日

愛知県体育館大会で、現在の各団体のビッグマッチに欠かせない『一本花道』を日本で初めて採用

 

提携していたWWFの演出方法を参考にしたものですね。当時は敵味方が同じ花道から?と違和感ありましたが、今では当たり前の風景ですね。

 

 

7・19 天龍新社長就任、7・23 阿修羅原 復帰

 

7月19日
田中社長が退任して、オーナーとなり、新社長に天龍が就任

 

この頃には内部の「天龍派」「反天龍派」の派閥間の対立が激化し、事あるごとに反天龍派が田中社長に直訴して…という事が相次いでおり、体制の引き締めと力関係をハッキリさせる意味合いで天龍が社長に、となったのだと思われます。

 

7月23日
阿修羅・原の入団を正式に発表(前日付での入団扱い)

 

天龍社長就任の初仕事は阿修羅原の復帰、入団でした。

 

借金を理由に全日解雇されて以降マット界から姿を消していた相棒の入団は、天龍からしたら心強かったと思いますね。
*龍原砲については改めて後述します

 

 

7月31日
伊豆大島トレーニングジム落成式開催

 

8月9日
横浜アリーナで旗揚げ1周年記念大会『紀元一年』を開催

 

9月13日
川崎市麻生区百合ヶ丘に落成した本道場を披露

 

10月12日
文化放送にてラジオ番組「激闘!SWSプロレス」放送開始

 

10月14日
EMLL(現:CMLL)との業務提携を結ぶ

 

これに伴い9月にメキシコLLIからEMLLに移籍した浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)の参戦も決定

 

此の期に及んでもメガネスーパーからの資金援助は潤沢で、横アリで1周年興行、トレーニングジムに道場の建設、ラジオ番組、メキシコEMLLとの提携、浅井の獲得、と文字面だけみたら順風満帆、なのですが…。

 

 

12・12 SWS 2度目のドーム興行開催

 

12月12日
2度目(単独では初)の東京ドーム進出を果たし、『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

 

 

メインは天龍とホーガンのシングルマッチ(アックスボンバー2連発でホーガン勝利)。セミファイナルはLOD(ウォリアーズ)vsナチュラルディザスターズ(テンタたち)、藤原組の面々も出場しています。

 

ほかに浅井ウルティモドラゴンの、日本デビュー戦も。

 

カブキは後に自伝で

「こんな状況でよくドームで興行が打てたものた。ただ、さすがに田中さんも懲りたのか、この年末は全道場合同での忘年会は開催されなかった」

のだそうです。

 

ここでSWS・2年目の終了です。

 

3年目の1992年につづきます!

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