「王貞治選手の756号」~1978.9.3 ホームラン世界新記録達成の瞬間

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プロ野球
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1977(昭和52)年9月3日。東京読売巨人軍の王貞治選手(当時37歳)が、ハンク アーロンの最多本塁打記録、通算755号を超えた日です。文字通り、日本中が熱狂しました。

 

列島熱狂のカウントダウン

 

熱狂は夏休みに入る前からずっと過熱しっぱなしでした。8月12日に749号。全国民のカウントダウンが続く中、いまと違いすべてが野外休場のため雨天中止もあり、焦らされます。

 

この年の1月には時の総理大臣、福田赳夫首相が「国民栄誉賞を贈れないか」と検討を指示、というニュースも出ていました。

 

8月23日からの広島市民球場での広島カープとの3連戦で第1戦で750号、第2戦で751号、第3戦で752号、753号と連発。「子どもたちの夏休み、8月中の達成を」との期待の重圧まで加わります。

 

球場には早朝からファンの行列ができ、王の自宅前には報道関係者の車列。「プライバシー」の意識のない時代の取材攻勢は、オフの日に取材自粛を依頼した王選手の自宅に100本近い電話をかけまくって様子を聞くという、狂ったものでした。

 

8月28日、神宮でのヤクルト戦で松岡弘投手から754号。そして本拠地、後楽園球場に舞台が移ります。

 

夏休み最終日の8月31日、大洋の三浦道男投手から世界タイ記録の755号。もはや観客はどちらのファンとか関係なく、王選手の一挙手一投足に大歓声を送ります。この試合では2回裏、王選手がライトの守備につくサプライズも。これは長嶋監督のファンサービス、粋な計らいでした。

 

翌9月1日、2日は2日連続で不発。そしていよいよ運命の9月3日を迎えます。

 

王さんがスゴイのが、狂乱のマスコミ取材攻勢にイヤな顔ひとつせず、平静を保ち続けたことです。

 

前年(1976/昭和51年)の700号、ベーブルース記録を抜いた715号の際はピリピリしていたそうですが、早朝から深夜まで自宅前に数百人の記者とカメラマンに監視され、のべつまくなしにインターホンや電話攻勢をかけられ続け、家を出るときも球場に着いた時も、サイン攻めにあっても、そして試合では四球攻めにあっても、異様な歓声に包まれても、ホームランを打ち続ける・・・凄まじい精神力、集中力だと驚嘆します。

 

1977.9.3 vsヤクルトスワローズ 後楽園球場

 

18時20分に試合開始。ヤクルトの先発は鈴木康二朗投手。巨人は1番 柴田勲さん、2番 土井正三さん、3番が王貞治さん。4番は張本勲さんでした。

 

第1打席はフォアボール。第2打席がまわってきたのは19時を過ぎたあたりでした。カウントは2-3。「またフォアボールか」と観客からヤジが飛びます。

 

そして6球目。決め球のシュートが甘く入り、王さんのバットがこれを捉えます。ライナー性の当たりはライトスタンドへ。

 

場内は割れんばかりの大歓声が巻き起こり、巨人ベンチから選手が飛び出します。

 

王選手はスタンドインを確認すると、両手を上げ、ゆっくりと笑顔で1塁へ。この時、ネクストバッターサークルにいた張本さんのジャンプの高さは伝説になっています(笑)。

 

・・・と、書きましたが、実は私、この”世紀の瞬間”を見逃しました。

 

「ナイター中継は19時30分から」と思い込み、TVを点けていなかったのです。19時30分になったのでチャンネルをまわすと・・・すでに割れているくす玉と、無数の紙テープと紙吹雪の残骸が、目に飛び込んできました。

 

「え・・・もしかして、打っちゃった?」と愕然としたのを、鮮明に覚えています。

 

世界記録の756号が飛び出したのは19時10分。私が気が付いたのは、それから20分も経ってからだったのです。

 

この後、王さんは4回表にライトの守備につき、ファンの大歓声に手を振りました。試合はなんと8対1で巨人の大勝で終わります。

 

試合後はセレモニー。王さんが両親にフラワープレートを贈り、堀内投手の運転するリリーフカーで球場を1周。

 

 

そして照明を落としたグラウンドで王さんはマイクの前に立ち、スポットライトを浴びてこう挨拶しました。

 

「全国のファンの皆様、温かいご声援を本当にありがとうございました。皆様のおかげで756号を打つことができました。ここ数日、1打席ごとに皆様の熱気を肌で感じておりました。今日、皆様とともに夢を叶えることができました。本当にありがとうございました。巨人軍のユニフォームを着て19年、その間にはいろいろと苦しいこともつらいこともありました。しかし今日、ここで全国の皆様からこのように温かく、熱烈な祝福をいただきまして、本当に私は幸せな男だと思います。これからも体の続く限り、バットを振り続けて皆さんとともにホームランを打っていきたいと思います。どうか私だけでなく、プロ野球全体に、今まで以上の声援をお願いいたしまして、私のお礼の言葉とさせていただきます。どうもありがとうございました。」

 

試合後は日本テレビの特番に出演、帰宅したのは深夜3時前だったとか。それでも自宅には600人のファンが押し寄せ「バンザイ」の大合唱だったそうです。

 

翌日以降もテレビの特番、新聞、雑誌は特別号を続々と出版。

 

 

そして9月4日には首相官邸で第1号となる「国民栄誉賞」の授与式。秋の園遊会に出席したのも王選手がプロ野球選手として初めてでした。

 

まだメジャーリーグで活躍する日本人選手もおらず、遥か高い壁だったアメリカのプロ野球の、それも「ホームランの世界記録」を日本人が塗り替えるという衝撃。もちろん当時も「日米の野球を同列に扱うのはいかがなものか」という声もありました。

 

それに対して王さんはこう話しています。

 

「世界記録を作るとは思っていない。日本で756本塁打を放った人がいるというだけでいいよ」

 

当時8歳だった私は、このとてつもない記録を作った選手の名前が「王(King)」で、背番号が「1(番)」なのが、偶然にしてはできすぎていて、ずっと不思議で仕方がありませんでした。

コメント

  1. 黒岩軍団 より:

    お初にお目にかかります。72年生まれ、野球(今は亡き近鉄)・プロレス(昭和の全日)・刑事ドラマ(大都会等)を愛する男です。

    新記録を献上した鈴木康二朗投手ですが、1年程は飲み屋で「王選手に打たれた鈴木です」と言うと必ずと言っていいほどタダ酒を飲ませてくれたそうです

    • MIYA TERU より:

      はじめまして、コメントありがとうございます!鈴木投手、「がんばれ!タブチくん」でも散々ネタにされてましたよね。奢ってもらえるとは・・・いい話ですね(笑)

  2. 福井直昭 より:

    そして翌日の9.4が私がはじめてプロ野球を生で見た試合でした。相当疲れていただろうに、王選手はサヨナラホームラン!心を鷲掴みにされた私は以来(プロレスと並び)プロ野球の大ファンです。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。なんと生観戦が翌日だったのですね。翌日の試合でサヨナラホームランというのは知りませんでした。王選手、スゴ過ぎますね。。。

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