”燃える闘魂”アントニオ猪木、史上最高の名勝負、vsビル・ロビンソン戦。
第2回は、この試合実現に至るまでの紆余曲折と、ライバル・ジャイアント馬場との舞台裏の”仁義なき暗闘”について、ご紹介します。
ジャイアント馬場の逆襲~「オープン選手権」とは?
1975(昭和50)年。ストロング小林と大木金太郎を撃破し、「我こそが実力日本一!」と勢いに乗るアントニオ猪木に対し、ジャイアント馬場は日本テレビと共に、大仕掛けを打ち、反攻に出ます。
それは「オープン選手権」の開催。
「世界のトップクラスを一同に集めて総当たりリーグ戦でその覇を争う」ーそれは、かつて力道山が、プロレス人気復活をかけて実施した「ワールド・リーグ戦」に倣った企画です。
参加選手は、
全日プロからジャイアント馬場、ジャンボ鶴田。
外国人選手はザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ドン・レオ・ジョナサン、ディック・マードック、バロン・フォン・ラシク、パット・オコーナー、ホースト・ホフマン、ミスター・レスリング、アントン・ヘーシンク、ケン・マンテル。
そして国際プロレスからラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上。
さらに大韓プロレスの大木金太郎とフリーランスの大物、ヒロ・マツダ。
元NWA世界王者4人、 現と元NWA世界ジュニア王者2人、AWAエリアも含めた全米トップクラスを同時に来日させる、というのは猪木には到底できない、馬場のプロモーターとしての面目躍如。史上空前の豪華すぎるラインナップです。
それぞれがシリーズの看板になれるガイジンを一気に投入するのは興行会社としてはリスクが高過ぎますし、招聘コストのための日本テレビの資金援助も莫大。馬場と日テレは、それだけ「本気」だったのです。
さらに、タイトルに「オープン」と謳う通り、「他団体にも広く門戸を開く」との主旨が、ポイントです。
ジャイアント馬場と日本テレビサイドはストロング小林に離脱され、ピンチに陥っていた国際プロレスの吉原社長と、中継局である東京12チャンネルにも話をつけ、木村、草津、井上の日本人トップ3選手と、バロン・フォン・ラシク、ホースト・ホフマンの2選手の参戦を取り付けます。さらに、国際プロレスには売り興行と、数試合の東京12チャンネルでの放映を許可しました。
そして馬場と日本テレビは、開催発表の記者会見で記者からの「もしも猪木が参加を表明したら、受けるのか?」との質問に対し「当然、そうなるでしょう」と発言。
これまで散々、猪木に挑戦されて黙殺して来た馬場がたった一度、自らから猪木に対し「来るなら来い!」という構えを見せた、画期的な事件でした。
オープン選手権の真の狙い?
このオープン選手権には、実は「猪木潰し」の狙いがあった、と言われています。「もし猪木が誘いに乗り参戦して来た場合は、名うてのシューター揃いのガイジン勢と連戦させて、リング上で潰してしまえ」というもの。
確かに、この顔ぶれを見ると「レスリングだけでなくケンカ(シュート)に強い選手」揃いで、ましてや「アウェーでの連戦」では、さすがの猪木もヤバ過ぎます。
事実、この時期の馬場全日プロのフィクサーを務めた「プロレス&ボクシング」編集顧問の森岡理右氏は「一番手はホースト・ホフマン、次にディック・マードック、そしてハーリー・レイス、よしんば猪木が勝ち上がってきたとしたら、最後はデストロイヤーを当てて…、とカードを全部考えていたから。当時でもデストロイヤーは強かったからねえ。他にもパット・オコーナー、ミスター・レスリング、ドン・レオ・ジョナサンといった静々たる連中がいたわけだから、どうやったって猪木は勝てないよ。」と語っています。
当然、世間の注目は、猪木の動向に集まります。
猪木不参加の弁と、それに対する馬場側の反論
猪木は開催発表会見を受け、当初は「趣向には賛成するが現段階で具体的なものが何もないので 、馬場の方から具体的な話があれば参加する方向で検討してもよい」と表明しましたが、10月13日には不参加を表明します。
猪木は「非常にいい企画だ。おやりなさい。 ウチにはウチの日程がある。猪木vs馬場戦が必ず実現する、という保証があるなら何をおいても出ようと思ったが、漠然としたトーナメントに、テレビ局に不義理してまで、なんでオレが出なきゃいかんのか。やりそうでやらないのが、全日本のやり方だから。シングルでの一騎討ちなら、いつでも出る」 とコメント。
「逃げたわけではない、馬場が一騎打ちを確約しないなら出ない」と主張して、体面を保ちます。
これに対し、馬場側は11月5日の記者会見で、芳の里 大会準備委員長が「全日本プロレス オープン選手権大会、参加選手選考を終えて」 と題する一文を発表。猪木の不参加について
「ところで誠に残念であったのは、新日本プロレスの参加が得られなかったことです。 新日本プロレスを代表するアントニオ猪木君だけは、その日頃の言動からして、 何をおいても当大会に出場して、普段対戦することのできない世界の強豪を前に彼の真の実力を実証してくれるものと期待していたのですが、当大会の趣向に賛同するといいながらも積極的に参加の意思表示もないまま、早々に不参加表明をしたことは理解に苦しみます。かねがね猪木君は、ジャイアント馬場君への挑戦を繰り返し、あらゆる条件を馬場君にまかせて、フリーの立場で戦うとまで言い切っていました。馬場君が門戸を開放した本大会は、猪木君に与えられた唯一無二の舞台であったはずです。この絶好の機会を自ら放棄した猪木君は、今後、自分本位の挑戦を繰り返す権利を全て失ったものと解釈されても止むを得ないでしょう。」
…どうですかこの文面!(笑)。
これまでの執拗な猪木からの挑発、挑戦に対し腹に据えかねていた馬場は、ここぞとばかりに実に嫌味たっぷりな言い回しで、それも自分ではなく、元・日本プロレス社長からこれを言わせる、という…。
この当時の馬場・猪木の確執の根深さと、絶対に相容れられない対立ぶりが、よくわかりますね。
もっとも、猪木の馬場への挑戦だって裏を返せば同じ事であり、「できないのをわかってて挑戦して、受けなかったら逃げたと騒ぐ」というのは、ずっと猪木がやってきた事なのですが。
「夢の祭典」の開幕
こうして、オープン選手権は猪木と新日プロ抜きで、12月6日に華々しく開幕。この1975(昭和50)年は全日プロ創立3年目。まだまだ馬場が選手としても、バリバリのエースの時期です。
猪木・新日プロとテレ朝陣営の攻勢に対し、馬場の後ろ盾である日テレからの「なんとかしろ」圧力も相当のものがありました。そんな中、馬場が団体エースとして、プロモーターとしての力を国内外に示し 、さらに猪木からの挑戦問題にも自分なりのやり方で一応の決着をつけ、「うるさい猪木を黙らせることに成功した」ワケです。
しかし、馬場の「猪木殲滅作戦」は、これだけでは終わらないのです。
ジャイアント馬場の「猪木殲滅作戦」第2弾
それは、力道山家とタッグを組んでの、「力道山十三回忌追善大試合」の発表です。
10月29日、力道山(百田)家が記者会見を行い、12月11日、日本武道館における「力道山十三回忌追善大試合」開催を発表します。
この12月11日は、オープン選手権の最終日ではなく、シリーズ開催中の日程です。そして、猪木 新日プロは、同日に蔵前国技館でビル・ロビンソン戦を予定していました。
会見には馬場全日プロ代表と吉原国際プロ代表の両氏も出席、全面協力を約束。そして、力道山家の後見人から「7月に猪木には追善興行の開催を知らせ、参加すると言っていたのに、同日に興行を打つとは恩知らずの馬鹿野郎だ」という、過激な発言が飛び出します。
これに対し、猪木はマスコミに「こっちが先に12月11日のロビンソン戦を決めた後で、一方的に参加しろ、しないのは恩知らずの馬鹿野郎呼ばわりとは、言いがかりだ」と怒りの反論。
さらに「力道山先生の恩を忘れたわけではない。いまの私があるのは先生のおかげ。追善興行なんて華々しい看板は掲げませんが、ロビンソン戦をそのつもりで戦います。どちらの試合が力道山先生の供養になったか、それはファンに判定してもらいたいと思う」と宣言しました。
舞台裏の仁義なき戦い
さらに舞台裏では、力道山時代に興行を仕切っていたその筋の方々からの猪木への嫌がらせも相当なものだったようです。
結局、東京スポーツが仲介する形で、猪木が力道山未亡人の百田敬子さんに追善興行不参加を詫び、頭を下げる写真を紙面に載せる事で、決着します。
ワールドプロレスリング解説者として知られる、東京スポーツ新聞社の櫻井康夫さんが後に語ったところによれば、
「(力道山のバックにある有名組織だけでなく)馬場に肩入れしていたある組織も関ってきてね。あれがなかったら事件になってた。頭を下げろと夜中に説得したのは、僕と当時の東スポの井上社長なんですよ。面倒くさいから、頭を下げてしまえって。途中から別の組織も乗り出してきてね。そこの人が猪木に実力行使するという話になったんだけど、猪木に頭を下げてもらえれば、こっちもそれ以上のことはしない、ということで、東スポが帝国ホテルをセッティングして猪木を呼んだんです。猪木は俺は行かねえってゴネてたんだけど、前の晩の1時頃かな、猪木に最後の電話をして、どうしても来いと言ったら、じゃあ、明日行きますよ。顔を立てますよ、と言ってくれてね。それで収まったんですよ。(中略)もう凄いヤバい感じだったな。向こうは、来ないなら来なくていいですよ、と言っててね。猪木は当日の昼になったら気が変わったみたいで、新間氏から電話がかかってきてちょっと待っててください、と。そうしたら、向こう側はこっちから行きますからと言うんで、説得して引きとめてね。要するに、頭を下げた写真を一面に載せろということで。アレがなかったら、ちょっと収まりがつかなかったね」
…どうでしょう。もはや興行戦争どころか、ホンマもんの仁義なき戦いです。
こんな四面楚歌の状況の中で、猪木vsビル・ロビンソンは行われることになったのです。
次回ようやく、試合についてご紹介します!
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