80年代のミュージックシーンといえば・・・
『ザ・ベストテン』
1978年1月19日〜1989年9月28日
TBS系列局
毎週木曜日 21:00 – 21:54(生放送)
全603回放送
毎週、生放送で独自邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表、スタジオやロケ先から歌手が生唄を披露する、視聴率30%を超える超人気番組でした。
◆幻の3人目の司会者?
初代司会コンビは当時TBS人気アナウンサーだった久米宏さんと、黒柳徹子さん。久米さんの軽妙かつシニカルなツッコミ(時にセクハラ)と、黒柳さんの人柄で、歌手がみんな楽しそうに出演していたのが人気の秘訣でした。
なんと当初はこれに西田敏行さんを含めた3人体制が計画されていたそうです。
◆ガチなランキング
当時、TBSは「ドラマのTBS」と言われる時代で、歌番組の地位は低かったとか。さらに、少し意外ですがこの当時から、音楽番組の視聴率低迷が問題だったのだそうです。
局内で「数字の取れる歌番組のアイデアはないか?」となりプロデューサーの田中敦さんという人が「毎週、売れてる順に並べられたら面白いですよね、できるわけないですが」と提案したところ「それでいこう!」と一発OKに。
しかし、その頃はテレビに出演しないニューミュージック歌手が人気を得ており「本当のランキングだと番組が成り立ちません」と反対の声も多かったとか。
結局、制作局長の裁定でランキング番組で行くことになったそうですが、勇気ある決断ですよね。
「ザ・ベストテン」のランキングは、
・レコード売り上げ(オリコン、ミュージック・ラボ、ミュージック・リサーチの3社ランキングを使用)
・有線放送リクエスト
・ラジオ放送のリクエストチャート(ネット局25局中ラジオ兼営局20局のラジオ歌謡曲ベストテン番組総合ランキング)
・番組宛のリクエストはがき
によるポイント制で決定。(比率は何度か変更になりました)。
黒柳徹子さんは司会を引き受ける際「番組の演出でいじらないで、正直な順位を発表してほしい」という条件を付けたそうで、後年「ランキングが不正操作されていないかどうか、毎週集計結果を100位までチェックしていた」と語っています。
◆ハードな制作現場
よく考えてみれば、毎週、ランキングで決定する、となると前もっての準備、というのがほとんどできない訳ですね。
「ザ・ベストテン」では放送翌日に次週のランキングを決定して、その日の出演者のスケジュールを調べてロケ先を決定して、現地調整して…というのはかなりハードな作業です。
そもそもが人気のある超売れっ子歌手しか出演しないわけで、1週間後のその時間に、どこにいるのか確認してハッキリ確定する、なんて、考えただけでゾッとします。
さらに、スタジオでは毎回、趣向を凝らしたセットが組まれ、その美術制作も大変だったと思いますし、いまのように口パクはおろかカラオケ音源や自分で演奏するバンドも少なく、「豪華なフルバンドによる生演奏」もウリでしたので、そのリハーサルなども含めると…これを毎週生中継していた当時のテレビマンたちはものすごいと感服します。
「ザ・ベストテン」といえばあのランキング発表ボードですが、アレは空港の発着ボードをヒントに開発されたのだとか。そう言われたら確かにそのまんまですね。
◆伝説の幕開け
記念すべき第1回(1978年1月19日)のランキングは、
第 1位:UFO(ピンク・レディー)
第 2位:わな(キャンディーズ)
第 3位:しあわせ芝居(桜田淳子)
第 4位:わかれうた(中島みゆき)欠席
第 5位:禁猟区(郷ひろみ)
第 6位:憎みきれないろくでなし(沢田研二)
第 7位:ブーツをぬいで朝食を(西城秀樹)欠席
第 8位:若き旅人(狩人)欠席
第 9位:泣き虫(清水健太郎)欠席
第10位:風の駅(野口五郎)
ピンクレディーとキャンディーズがワン・ツー、というのが時代を感じさせます。
当時人気絶頂だった山口百恵さんは「赤い絆 (レッド・センセーション)」が11位、「秋桜」が12位とベストテン入りを逃し、そして4位の「わかれうた」中島みゆきさんは「レコーディング中のため」出演拒否。さらに欠席者も3名います。
数字が命のTV番組、さらに初回であればなおさら操作したくなるものですが、「百恵ちゃんが入れない事がある、テレビに出演しない中島みゆきが入るランキング」というのは、番組の公平さをアピールする点で大きかったと思います。
◆スタートまもなく大人気
その年の4月には視聴率が35.8%を記録するなど大人気番組となり、西城秀樹さんの「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が9999点の最高得点(満点)を記録します。
翌1980年の9月、山口百恵さんが10位「さよならの向う側」で最後の番組出演。「青い珊瑚礁」が第1位(2週連続)となった松田聖子さんと最初で最後の共演、世代交代を印象付けました。
1981年6月、寺尾聰さんの「ルビーの指環」がそれまでの番組記録だった世良公則&ツイスト「銃爪」の10週連続1位を更新する、12週連続1位を達成するなど、次々とニュースターが誕生、番組も絶頂を迎えます。
◆久米宏さんの離脱〜男性司会者の変遷
1985年4月、久米宏さんが10月スタートの「ニュースステーション」のために司会を降板。
司会代行にタモリさん、生島ヒロシさん、小沢昭一さんらでつなぎ、10月からは欽ちゃんファミリー小西博之さんが2代目司会者となりました。(ミュージックステーションのプロトはTBSで行われていたのですね)
◆視聴率低下、終焉
10月から3代目男性司会者の松下賢次アナになり、1986年あたりでは出演拒否のロック系アーティストなどが毎週半数近くに上り、視聴率も下がり始めました。フジテレビが独占していたおニャン子クラブも出演せず「関係各所との調整がつかず欠席」というコメントも増えました。
1989年1月からは渡辺正行さん(コント赤信号)が4代目司会者をつとめますが、もはや視聴率の低下は止まらず、ついに9月末をもって番組終了となりました。
黒柳徹子さんは番組終了の理由について「番組開始当初は2分30秒の歌も、現在は平均3分30秒になり長いものは5分近くなっていき、10組フル出場してもらっても満足なインタビューをすることが困難なために、この番組も役目を果たした」との説明しました。
最終回、1989年9月28日の1位は工藤静香さん「黄砂に吹かれて」
◆数字で見る「ザ・ベストテン」
西城秀樹、郷ひろみ、ピンクレディー、沢田研二、世良公則&ツイスト、寺尾聰、ゴダイゴ、サザンオールスターズ、松田聖子、田原俊彦、近藤真彦、シブガキ隊、チェッカーズ、吉川晃司、小泉今日子、安全地帯、C-C-B、少年隊、斉藤由貴、南野陽子、工藤静香、光GENJI…時期によって記憶に残るアーティスト、アイドルは人それぞれでしょうが、数字で見るザ・ベストテンは…
◆出演週数ランキング
第 1位(247週)- 田原俊彦
第 2位(224週)- 松田聖子
第 3位(223週)- 中森明菜
第 4位(211週)- 近藤真彦
第 5位(157週)- チェッカーズ
第 6位(155週)- 西城秀樹
第 7位(139週)- 沢田研二
第 8位(122週)- 山口百恵/小泉今日子
第10位(120週)- サザンオールスターズ
◆10曲以上ランクイン
第 1位(35曲)- 田原俊彦
第 2位(28曲)- 近藤真彦
第 3位(25曲)- 松田聖子
第 4位(23曲)- 中森明菜/河合奈保子
第 6位(22曲)- 西城秀樹/シブがき隊
第 8位(21曲)- 小泉今日子
第 9位(20曲)- チェッカーズ
第10位(17曲)- アルフィー
第11位(15曲)- 沢田研二/郷ひろみ
第13位(14曲)- 柏原芳恵/中山美穂/サザンオールスターズ
第16位(12曲)- 山口百恵/南野陽子/荻野目洋子
第19位(11曲)- 少年隊/とんねるず
第21位(10曲)- C-C-B/吉川晃司/安全地帯/斉藤由貴/菊池桃子/浅香唯/西村知美
▲これが80年代に「本当に人気のある歌手」ということになりますね。 男性はトシちゃん&マッチ、女性は聖子&明菜が四天王ですね。まさにザ・80年代…。
ちなみに、第1位を最多獲得した歌手は、中森明菜さん(69回)です。
◆年間1位楽曲
1978年(昭和53年)銃爪 世良公則&ツイスト
1979年(昭和54年)おもいで酒 小林幸子
1980年(昭和55年)倖せさがして 五木ひろし
1981年(昭和56年)ルビーの指環 寺尾聰
1982年(昭和57年)北酒場 細川たかし
1983年(昭和58年)矢切の渡し 細川たかし
1984年(昭和59年)長良川艶歌 五木ひろし
1985年(昭和60年)悲しみにさよなら 安全地帯
1986年(昭和61年)BAN BAN BAN KUWATA BAND
1987年(昭和62年)追憶 五木ひろし
1988年(昭和63年)抱きしめてTONIGHT 田原俊彦
▲五木ひろしさんが3冠、細川ひろしさんが2冠…こうしてみると、1曲が長い期間売れる演歌は強いですね。
番組に寄せられたリクエストはがきは約1億枚、当時の郵便料金でいえば40億円!まさに国民的人気番組でした。
コメント
拝啓 サイトヘッド様には厳しい残暑の中、引き続きましてよろしくお願いいたします。
*「1970年代から80年代後期まで 黄金の歌番組を総まとめで語りつくす」
思えば我々は最高の時代の音楽番組を観聴き出来ました。
(月)「NTV紅白歌のベストテン」
*音楽(編曲か否かは不明)=永作幸雄
*伴奏=宮間利之&NH 高橋達也&東U 森寿男&BC
*アレンジや伴奏面では弦が無く、フルバンドのみで音楽的レベルは然程高く無かった。
(月)「夜のヒットスタジオ」
*編曲「広瀬健次郎 服部克久」他
*伴奏=ダン池田&NB 東放管(弦楽器) (過去には有馬徹&NC等も)
*ガメラや多数の名曲を創られた広瀬健次郎氏のアレンジは見事で素晴らしかった。
(火)「火曜歌謡ビッグマッチ」
*編曲=長州忠彦(指揮担当)
*伴奏=宮間利之&NH 高橋達也&東U 新音楽協会(弦楽器)
*音楽的には長州忠彦編曲が見事で、オケの編成も大きく音楽的にはレベルは高かった。
*(水)「ベスト30歌謡曲」
*編曲=伊藤辰雄
*伴奏=有馬徹&NC 朝比奈五郎&DB 新音楽協会(弦他各種担当)
*指揮=有馬徹 朝比奈五郎
*音楽的レベルは当時最高に高く、全てはアレンジの伊藤辰雄氏の才能実力アイディア。全く の独創的で在り本家すら超えていた部分も。オケの編成も最高に大きく変わった楽器=ホル ン アコーディオン コーラングレ他他番組には無い楽器編成も素晴らしかった。
*(金)「ゴールデン歌謡速報」
*編曲=「半間巌一」
*伴奏=小野満&SB 新音楽協会(弦)
( )「ザベストテン」
*編曲=長州忠彦 服部克久ほか
*伴奏=#&b NH 東U GTサウンズ(弦) クリエイトサウンズ(弦)
*音楽的にはかなりレベルが高く音響も良かった。オケの編成も大きく楽器の使用も割と自由 度が高かったと記憶。やはりアレンジの良さが光っていた番組だった。なお当時「不足の奏者を派遣するインペグ会社等」も多数あり、あんだんて スクリーンミュージック 新音楽協会(新室内楽協会) クリエイトサウンズ社 GTサウンズ等幾つも在った。大抵はクラシック崩れが多かった様子だが、メンバーは重複していた事も在ったらしい。本家本元はアメリカの映画音楽スタジオミュージシャンで「カーメンドラゴン&グレンディールO」が本家と言われる。全て音大卒の超一流でクラもポップスも万能、非常にギャラも高く此処からMTRが生まれたとも言われる。日本は此処まで及ばないが優秀なミュージシャンは過去確実に存在した。
と、当時の代表的な音楽番組を列記いたしましたが、今日wiki等見てもまぁ「くーだらねぇ重箱の隅ほじくる様なこ余計な蛇足ばかり書かれ、肝心要の音楽面が全く語られない」のは陰謀としか思えない。何よりも音楽面が全く足りない。正直この他にも
*(土)「全日本歌謡選手権」
*編曲=中本弘
*伴奏=北野タダオ&AJO 中沢寿士&MBSJO 白井勝次&NS 及びストリングス&西野バレエ団
関西読売TV制作の強烈なオーディション番組で「八代亜紀 中条清 五木ひろし」等が発掘された伝説的番組で、審査員の横柄傲慢無礼さと音楽面=中本弘さんの素晴らしいアレンジは全く個性的で見事としか言いようが無かったしバックバンドも素晴らしかった。
等もあり、現在伝説と化してしまった、、、、全て当時を知る自分が思うに「今、現在の音楽番組なんぞ屁の価値も値打ちも無く、糞の尻拭き紙にもならねぇ」と。何故「本物のバックバンドを使わないのか? 何故こんなに編成が小さいのか? 何故シンセやサンプラー等の電子楽器のみにこだわるのか? もっと優秀な編曲屋が何故いないのか?」日本中のTV屋や音楽屋、関係各屋に徹底的に問いただしたい 責任者出てきて返答せんかいっ!!(何?仮病で扁桃腺が腫れた?) 正直生オケが神髄であった「宝塚歌劇団オケですら人数が減り劣化」してしまい、どっかの反日国営放送様の白黒だかなんかの歌合戦もカラオケでどしらばっくれて、、、、
過去のTV屋やご先祖様に申し訳ないと思わぬか、、、口を開けば「銭金が無いの経費削減だのTVはオワコンだの、、、、」しかし相変わらず馬鹿っ高い給料もらってるのは何処のどちら様か? 何処に銭金が無い? ホラ吹くならもっとまともなホラを吹け。結局一番上の奴らが頭がカラで知恵が無く、過去に学ばぬからこのていたらくだろう。確かに「楽器屋もメーカーも同罪」だ。「本物の音が出せるサンプラーばかり流行らせ、キーボード以外を失業に追い込みバンドを減らし、大瀧詠一師匠はいみじくも「ぐうたらものぐさ人減らし楽器」と呼んでいた。こんな物でまともな音楽が奏でられるのか?サンプラーの音なんてぇ「本物とは全く全然違う」のが解らぬか? 自分の様に冨田勲先生とほぼ同時期からシンセや録音機器を操り「誰よりその弱点欠点を知り尽くしている」者には到底今の状況は理解できない。こんな事では生の音楽はどうなるのか? 生の楽器の音を知らずして音楽家になれるのか? 自分の様な良い時代を知り経験した来た老いぼれ爺は本当に危惧しています。
今回、このサイト様でこれだけ言いたい放題書かせて頂きもはや出禁は覚悟の上。ひたすらお詫びして最後の最後で少しでもほんの少しでも日本の音楽の為にお役に立ちたいと、、
唯ひたすらそれだけを願い失礼させて頂きます。短い間ではございましたが、有難うございました。敬具