今回は1968(昭和43)年1月3日、日本プロレスと国際プロレスが同日に近距離でビッグマッチ興行を行った“隅田川決戦“を取り上げます。
日本プロレスは蔵前国技館、メインイベントはジャイアント馬場vsクラッシャー リソワスキーのインターナショナルヘビー級選手権。
対する国際プロレスは隅田川を挟んだ向かいにある両国日大講堂、メインイベントはルー テーズvsグレート草津のTWWA世界ヘビー級選手権で、TBSによるプロレス中継のオープニング興行。
あの“グレート草津失神事件“が起きた日です。
●旗揚げ当初の国際プロレス
1967(昭和43)年1月5日、日本プロレスの経理担当重役だった遠藤幸吉氏とリキスポーツパレスの売却問題を巡って対立した吉原功氏は、日本プロレスを退社してヒロ マツダと共に国際プロレスを旗揚げ。
旗揚げ当初の国際プロレスは、既に興行能力を失っていたアントニオ猪木の東京プロレスとの合同興行を画策。猪木&マツダの2大エースを軸として、TBSでのテレビ中継獲得を目論んでいました。
しかし東京プロレスは豊登と猪木の対立が深まり、猪木は吉原氏ともギャラの支払いを巡って紛糾。結局、猪木は旗揚げシリーズに参加しただけで古巣の日本プロレスに出戻りを選択し、豊登一派は国際プロレスに吸収されるカタチとなりました。
●興行戦争第一弾「大坂夏の陣」
力道山の「日本マット界統一」以来、長きに渡って日本のプロレス興行を独占してきた日本プロレスからすると、新興の国際プロレスは「とにかく目障り」。そんな両団体が最初に興行戦争を行なったのは、大阪でした。
1967年8月14日、国際プロレスが大阪府立体育会館でビックマッチを開催することを知った日本プロレス側は、すぐ側の大阪球場で興行をぶつけます。
国際プロレスのメインイベントはヒロ マツダ&サム スティンボードvsビル ドロモ&ロジャー ガービーのタッグマッチ。
対する日本プロレスは、時のNWA世界ヘビー級王者 ジン キニスキーを招聘してエース ジャイアント馬場の保持するインターヘビー王座に挑戦させるというビッグマッチを用意。
2万人の観衆を集めた馬場vsキニスキーは60分フルタイム後に5分間の延長戦まで行って引き分けという、日本プロレス史に残る熱闘を展開します。
対する国際プロレスも観衆4,200人・・・これは水増しで実際は2,500人程度だったとか。
観客動員でも試合内容でも、老舗日本プロレスが“圧勝“となりました。
まだTV中継もない国際プロレス相手に、日本プロレスは圧倒的知名度に加え、飛行機で宣伝ビラを撒くという、徹底ブリでした。
●エースに“抜擢“された草津とは
この後、国際プロレスはようやくTBSの中継枠を獲得します。しかし、今度は吉原氏とマツダの間で負債処理を巡ってトラブルが起こり、マツダは国際プロレスから離脱。
エース不在となった国際プロレスのエースに抜擢されたのは、アメリカ武者修行に出ていた草津正武(後のグレート草津)でした。
草津は熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍、史上最強と謳われた八幡製鐵所でレギュラーを務め、日本代表にも選ばれたラガーマン。1965(昭和40)年に日本プロレスに入団します。
この年は東京プロレス旗揚げでアントニオ猪木が抜けた穴埋めを狙い柔道から坂口征二、レスリングから斎藤昌典(マサ斎藤)、杉山恒治(サンダー杉山)、大相撲から木村政雄(ラッシャー木村)らが続々とプロレス入りしていました。
草津も元日本代表ラガーマンとして期待され、ジャイアント馬場の付け人を命じられますが、練習嫌いと生意気な態度が災いして先輩レスラーからたびたび“かわいがり“に遭い、デビューから25戦しただけで肩の怪我を理由に退団。その後、吉原社長の誘いでサンダー杉山と共に国際プロレス入りしていました。
草津はヒロ マツダのルートでフロリダに武者修行。将来のエース候補として新人ながらルー テーズら大物と対戦する厚遇を受けます。
しかし草津は転戦先のバンクーバーでアメリカンフットボールへの転身を企てます。当時のアメリカにはアメフトとプロレスを兼業するレスラーが存在し、もともとプロレスラー にはなったものの馴染めず、ラグビーへの未練があった草津は、国際プロレスの旗揚げ第二戦シリーズがいつまでも行われない状況に危機感を覚えたのでしょう。
結局、現地のフットボールチームへ入団はしたものの二軍扱いに嫌気がさした草津はフットボーラーへの転身を断念。バンクーバーで再びプロレスラーとして再起しようとしますが2カ月のブランクのある新人が試合を組んでもらえるワケもなく、クサっていました。ところがそんな草津の元に、ある人物が現れます。
●グレート草津エース化計画
カナダにいる草津の元に現れたのは、国際プロレスTV中継のディレクターとなったTBS運動部副部長の森忠大氏。
この頃、国際プロレスは資金調達の名目で吉原代表の早稲田大学時代の友人である森氏の仲介により、広島の乳業会社社長だった岩田弘氏に株を譲渡して融資を仰ぎ、岩田氏が団体オーナーとなって吉原功氏は経営から一歩退くカタチに。団体名も「TBSプロレス」に改められていました。
テレビ中継枠は水曜夜7時からの1時間枠に決定(番組名は「TWWAプロレス中継」、初期は単なる「プロレス」とも表記)、外国人ブッカーとして力道山時代に超大物レスラーを日本プロレスへブッキングしてきたグレート東郷が就任しました。
森氏は草津に対し、マツダが国際プロレスから去ったことを知らせ「天下のTBSが付いている」とファイトマネーも含め全面バックアップを約束して、帰国を説得。
1967(昭和42)年12月、草津はグレート東郷と合流して帰国。ここでリングネームも「グレート草津」に改められました。
森氏は会見を開き「TBSプロレスのオープニングマッチは1968年1月3日、日大講堂大会でルー テーズの保持するTWWA世界ヘビー級王座に草津を挑戦させる」と発表しました。
TWWAとはバンクーバーの大物プロモーター、フランク タニー氏を会長に据えた、実質TBSプロレスのために作られた組織で、このタイトルもいわば「でっちあげ王座」でした。
それでも新人の草津がいきなり世界王座挑戦、しかも相手が超大物ルー テーズとあってマスコミは騒然となりましたが、ブッカーである東郷は「いくらなんでも草津では荷が重すぎる、豊登にした方がいい」とアピールしていたようです。
しかし「TVの力を持ってすれば、スターは秒単位で作れる」と考えるTBSの強い意向で若い草津が推され、タイトルマッチが強行されることになりました。
草津はマスコミとの質疑応答で日本プロレス時代に付き人を務めたジャイアント馬場について質問を受けると「今は対等の立場。馬場さんには試合内容には負けないよう頑張ります。馬場さんがエースなら、僕もTBSプロレスのエース、お互いに頑張りましょう」と発言。
もちろんTBSが用意したコメントではありましたが、この草津の不遜な発言に日本プロレス側は激怒。
「練習嫌いで逃げ出し、アメリカでも大した戦績もないド新人の草津と、大エースのジャイアント馬場を同格に扱われてはメンツにかかわる」と怒り心頭の日本プロレスは“TBSプロレス潰し“に動きます。
ちなみに…TBS(当時はKRテレビ)は力道山時代のプロレス創世記の開局間もない1955(昭和30)年頃に、八欧電機(現 富士通ゼネラル)をスポンサーに日本プロレス中継を特番枠で行なっていました。しかしその後日本テレビと対立し、力道山が日本テレビを選択したため“絶縁“。当時の代表もプロレス嫌いだったため、長くプロレスにはノータッチを貫いていたのでした。この国際プロレス獲得時には、フジテレビとの競争があったと言われています。
②に続きます!
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