いまではすっかりバラエティ番組の「天然おじさん」でおなじみの具志堅用高さん。
私世代の記憶に残るボクサー、世界チャンピオンといえば、なんといってもこの方です。
とにかく負けない、必ずブッ倒してKOで勝つ。
常に「面白い」試合をして、「めちゃくちゃ強い」チャンピオン。
そんな記憶しかありません。
私は幼少期にこの人の闘争本能剥き出し、キレッキレなボクシングを観てしまったお陰で、その後、どの試合を観ても「イマイチ面白くない(具志堅の方がスゴかった)・・・」と感じてしまうようになってしまいました(笑)。
プロデビュー9戦目で世界タイトル奪取の快挙
具志堅用高さんは1955(昭和30)年生まれ、沖縄県石垣島出身。
興南高校3年でインターハイ優勝。「沖縄に天才ボクサー現る」として1976(昭和51)年のモントリオール五輪 金メダルを期待され、拓殖大学への進学が決まっていました。
ところが上京した具志堅選手は空港で拉致され(笑)、説得を受けて半ば強引に協栄ジム所属となりました。
実はその前年、極秘に沖縄視察した海老原博幸さんから「途轍もない素質」「とんでもないボクサーになる」と報告を受けた共栄ジムの金平正紀会長は、何としてもこの天才を獲得したかったのだとか。
デビュー戦は1974(昭和49)年。
当然、華々しいKOデビュー!かと思いきや、やっとこさでの判定勝利。圧勝を期待したファンは拍子抜けします。
2戦目も同じ相手が用意されますが、またもや見るべき内容のない判定勝ち。
具志堅選手は「もう沖縄に帰ろう」と心が折れかけていたそうです。
しかし、これには理由がありました。具志堅選手は45kg以下のモスキート級。プロ最軽量であるフライ級50.80kgとの間には、5kg以上もの差があったのです。
ところがここで、時代の奇跡が起こります。なんと1975(昭和50)年、WBAとWBCがフライ級の下に、ジュニアフライ級(48.98kg)の新設を発表したのです。
具志堅選手は新設のジュニアフライ級(現ライトフライ級)へ転向。順調に戦績を重ね、1976(昭和51)年1月に世界ランカー、セザール ゴメス キーを鮮やかな7ラウンドKOで倒したことで、世界戦へのチャンスを得ました。
そして1976(昭和51)年10月10日。山梨学院大学体育館において、具志堅選手はファン ホセ グスマン(ドミニカ)の持つWBA世界ジュニアフライ級への挑戦が決定しました。
この年、5月8日にはガッツ石松選手が2年間保持したWBCライト級王座をエステバン デ ヘススに奪われ、その10日後には奇跡の復活を遂げた輪島功一選手がホセ デュランにKO負け。
日本は世界王者不在となっていました。
この時代のボクシング世界戦はいまでは想像できないほど「世界と戦う日本人を国民が熱狂的に応援する」大舞台。
新たなヒーロー誕生への渇望の中、具志堅選手はリングに上がりました。
グスマンは当時「リトル フォアマン」の異名を持つ、強打のチャンピオン。階級最強と言われていました。
しかし21歳の具志堅選手はテクニック、スピード、そしてパンチ力でもグスマンを圧倒。見事7RKOで破り、日本ボクシング史上に残る王座奪取劇を演じてみせました。プロデビューからわずか9戦目、当時の日本人ボクサーの「世界タイトル奪取最短記録」での世界チャンピオン誕生です。
世界初挑戦時のキャッチフレーズは「100年に1人の天才」。
グスマン戦後の勝利者インタビューで「カンムリワシになりたい」と言ったことから、以降はこの「カンムリワシ」が具志堅選手の代名詞となり、トランクスに絵柄が刻まれるようになりました。
入場曲
メイナードファガーソンの「征服者」
カッコ良すぎます。
▼Maynard Ferguson – Conquistador
いまだ破られない「世界王座13回防衛記録」
その後、具志堅選手が打ち立てた世界王座連続防衛記録13回は、いまだに破られていない不倒の大記録です(第2位が山中慎介選手の12回)。
さらに「6連続KO勝ち」もいまだに日本記録。
この2つをもってしても大選手であることは間違いないのですが、当時といまではさまざまな違いがあります。
まず、当時は15ラウンド制でした(現在はボクサーの健康問題を重視して12ラウンド制)。
そしてなにより、世界タイトルの権威が違います。当時は世界タイトルはWBCとWBAの2つしか存在せず(現在は4団体)、全階級の世界王者は26人しかいませんでした。
世界王座を濫造して権威も地に落ちた現代のボクシング界とは、大きく異なるのです。
具志堅用高の名勝負
怒涛の6連続KOの内訳は、
3度目の防衛戦 1977(昭和52)年10月9日
vsモンシャム マハチャイ(タイ)戦
4R KO
4度目の防衛戦 1978(昭和53)年1月29日
vsアナセト バルガス(フィリピン)戦
14R KO
5度目の防衛戦 1978(昭和53)年5月7日
vsハイメ リオス(パナマ)戦
13R KO
6度目の防衛戦 1978(昭和53)年8月13日
vs鄭相一(韓国)戦
5R KO
7度目の防衛戦
vsリゴベルト マルカーノ(ベネズエラ)戦 1979(昭和54)年1月7日
7R KO
8度目の防衛戦 1979(昭和54)年4月8日
vsアルフォンソ ロペス(パナマ)戦
7R KO
まで続きました。
7度目の防衛戦であるvsリゴベルト マルカーノ(ベネズエラ)戦は、当時の日本人の防衛記録(小林宏選手と輪島功一選手の6度)を塗り替えた戦い。
マルカーノは2度目の防戦戦から2度目の対戦となるリベンジマッチでしたが、序盤から具志堅選手が圧倒し、カウンター気味の左ストレートが効果的にヒット。そして7R開始早々、見事KO勝利となりました。
12度目の防衛戦となるマルチン バルガス(チリ)戦は、当時の最強チャレンジャーと言われた強打のバルガスに対し、具志堅選手はフットワークを駆使して圧倒、8R KO勝利。
この試合で具志堅選手はジュニアフライ級(現ライトフライ級)の「階級別世界防衛記録(12回)を打ち立てました。
伝説の終焉
バルガス戦で「防衛記録12回」を打ち立てた具志堅選手は、その無類の強さから「20回は堅い」と言われていました。
ところが、1980(昭和50)年10月に行われた13回目の防衛戦、バルガスより格下と思われていたペドロ フローレス相手に、意外な苦戦を強いられます。
実は具志堅選手は12度目の連続防衛世界記録を境に引退を考えていました。ところが、具志堅選手の試合TV中継の視聴率は40%を超える大人気。引退は許されるハズもなく、12度目の防衛に成功した時には既に次とその次の防衛戦が決められていたと言います。
14度目の防衛戦は1981(昭和56)年3月8日。故郷沖縄での凱旋試合として具志川市(現在のうるま市)の具志川市立総合体育館で開催されました。
これまで年3~4回もの防衛戦をこなしていた具志堅選手は、約半年のインターバルを設け、万全を期してこのフローレスとの再戦に挑みます。それでも具志堅選手は初戦で苦戦した相手に再戦では圧倒するパターンで知られ、「今回も防衛間違いなし」と言われていました。
具志堅選手は試合開始早々から猛然とフローレスを攻め立て、早々にKO勝ちを予感させます。
ところが5Rあたりから突如ペースダウン。8Rには連打を浴び、遂にダウンを喫します。
9R以降は毎回ロープを背負う苦しい戦いを強いられ、迎えた12R、挑戦者の右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。
辛くも立ち上がり試合続行となりますが挑戦者の追撃に襲われ、ここでセコンドからタオル投入。
世界王座を陥落した具志堅選手は、現役を引退しました。
試合後、具志堅選手は「最初調子は悪くなかったが序盤でパンチが目に入り、目がよく見えなくなった。そのあとは記憶がなく、ダウンしたことも翌日の報道で知った」と語っています。
その後、再戦の話も持ち上がりましたが網膜剥離寸前と診断され通院しており「もはや元のようには戦えない」と悟り、引退を決意したそうです。
これだけの偉大なボクサーでありながら「毒入りオレンジ事件」スキャンダルに見舞われ、引退セレモニーも行われなかったのは気の毒でした。
今回、久々に試合の動画をいくつか観てみましたが、いま改めてみても、当時の具志堅用高選手の強さは色褪せるどころか、「覚えていた以上に鮮烈」でした。
強烈無比なパンチを打ちまくり、倒れた相手にまで殴り掛かる獰猛なファイトスタイル。「倒す」のではなく「殺気」すら感じます。そりゃラッシュでは観客は総立ちの熱狂になりますよね。いまだに「ボクシングTV視聴率ランキング」で1位に輝き続ける具志堅用高さんの全盛期の「面白過ぎるボクシング」を、いまの「お行儀のよいボクシング」しかしらない人に、ぜひ観てもらいたいのです。
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