今回は、令和の今なおCMでも起用される異色の名曲、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をご紹介します。
この曲は1975(昭和50)年に当初、シングルのB面として発売されましたが人気に火がつき、オリコンチャートで5週(1975年6月23日 – 7月21日付)連続1位を獲得、年間ヒットチャートでも第5位にランクイン。
大晦日の「第26回NHK紅白歌合戦」に初出場、さらに「第17回日本レコード大賞 企画賞」を受賞した、同年を代表するヒット曲です。
● ダウン・タウン・ブギウギ・バンドとは?
1973(昭和48)年、ボーカル・作曲を務める宇崎竜童さんがメンバー集めに奔走して結成、「知らず知らずのうちに」でデビュー。1974(昭和49)年、3rd.シングル「スモーキン’ブギ」がヒットして、一躍有名になりました。ちなみに、この長いバンド名は「サディスティック・ミカ・バンド」に対抗して考えついたのだとか。
宇崎竜童さんはバンドデビューの前からメロディメーカーとして才能を発揮、作曲を手掛けた太田とも子さん(梶芽衣子さんの妹)の唄う「とおく群衆を離れて」(1970 昭和45年)は、“和製ブルースの傑作“として、密かに業界関係者の注目を集めていました。
バンドとしての最初のヒット曲「スモーキン’ブギ」はアメリカンなブギに「タバコを愛する不良の日常」のユーモラスな歌詞、ツナギにグラサン、リーゼントというルックスが相まって、ノベルティ(コミック)ソング(バンド)として注目を集めます。
そして、二匹目のドジョウを狙って3枚目のシングルとしてリリースされたのが当初のA面、「カッコマン・ブギ」でした。
ところが、有線で火がついたのはB面の「港のヨーコ〜」。急遽発売1か月後にA面に“格上げ“されて再発売となり、社会現象的に大ヒットに。
なにせまだ「バンド=不良」の時代。この楽曲で初出場した紅白歌合戦では、大御所演歌歌手だらけの中で異色も異色、「作業服とはけしからん」「目が悪いわけでもないのにサングラスとか何事か」と、世の“良識“ある方々からの抗議が殺到したそうです。
●「港のヨーコ〜」が“画期的“な理由
この楽曲は、大半がジェフ ベック グループを彷彿とさせるブリティッシュロック調のギターリフをバックに「語りのセリフ」で構成されており、メロディはサビの2小節しかありません。
作詞は、当時既に作曲の宇崎竜童さんと結婚していた阿木燿子さんによるもので、阿木さんの作詞家としてのデビュー曲でもあります。
「ヨーコ」を捜す主人公の男性が、彼女と接点を持つ人物達の証言を頼りに、少しずつヨーコ迫っていくストーリー。
それも、1番ではヨーコの「1年前」を知る人が「髪の長い女だって? ここにゃ沢山いるからねぇ」。
2番では「半年前」に「マリのお客をとったってサ」と、夜の街で働いていたことが示唆され、
5番では「たった今まで坐っていたよ」となり、「アンタ あの娘に惚れてるね!」。
曲が進むにつれ、ヨーコのキャラクターと共に主人公との関係性まで明らかになる、こんなストーリー性のある日本のロックは前代未聞で、今なおこんなチャレンジングな楽曲は聴いたことありません。
また、シチュエーションとして「ヨコハマ」と「ヨコスカ」が織り込まれた「ご当地ソング」としての側面もありました。
宇崎さんは阿木さんが書いた詞に感激し「コレこそ俺の唄うべき歌だ」と作曲に取りかかったものの、冒頭の「半年前なら憶えちゃいるが…」の部分がどうしても「スーダラ節」(植木等)になってしまい、苦労したそうです。
その後、アメリカの「トーキングブルース」にヒントを得て「すべてを語りにしてしまう」アイデアを思いつきました。
そして繰り返されるブレイクでのキメ台詞「アンタ、あの娘(コ)のなんなのさ」は、まさしく“流行語になる“インパクト。
稀代の大作詞家、阿久悠さんはこの手法に衝撃を受け、「なぜこの詞を自分が書けなかったのかと嫉妬した」と後に語っています。
●この楽曲が与えた影響〜沢田研二vs山口百恵
阿久悠さんはこの楽曲に刺激を受け、名曲「時の過ぎゆくままに」(沢田研二/1975年)を書き上げました。
また、山口百恵さんのディレクター、川瀬泰雄さんも「港のヨーコ〜」のテスト盤を聴くや竜童-阿木コンビの才能にノックアウトされ、それが同じく京急沿線を舞台にした後の大ヒット曲「横須賀ストーリー」(山口百恵/1976年)へとつながっていくのです。
後に竜童-阿木コンビは「山口百恵チーム」として「プレイバックPart2」(1978年)などのヒット曲を連発。一方の阿久悠さんは「沢田研二チーム」でした。
そしてその「プレイバックPart2」は「勝手にしやがれ」のアンサーソングになっているのは、有名なエピソードです。
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