「日本レコード大賞」歴代受賞曲①~昭和の黄金時代から権威失墜の歴史

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日本レコード大賞 TV音楽番組
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TBS「輝く!日本レコード大賞」・・・昭和の大晦日は、この番組から「NHK紅白歌合戦」がお茶の間の“定番”でした。

 

なんだかんだ言われながらもまだなんとか年一のビッグイベントの地位を保っているNHK紅白に比べ、近年の「レコ大」の惨状は、目も当てられません・・・。

 

エイベックス&バーニング勢の優遇、AKBとEXILEが順繰りに受賞、金銭授受疑惑など、ネガティブなニュースばかりが目につきます。そして2021年は「大賞ノミネートが知らない曲だらけ」「おかしい」とネットが炎上・・・。もっともこういった「黒い噂」は、かなり昔からありました。

 

そこで今回からシリーズで、昭和の「レコード大賞」黄金時代を、授賞曲・エピソードと共に振り返ります!

 

*歴代レコード大賞受賞曲のYouTube再生リストも作りました。
併せてお楽しみください!

「日本レコード大賞」誕生の経緯

 

その歴史は1959(昭和34)年に遡ります。

 

同年、作曲家の古賀政男さん、服部良一さんが主導し、レコード会社所属作曲家による親睦団体「日本作曲家協会」を設立。戦後にアメリカから流れ込んで来たジャズ、ロカビリーなどの新たなジャンルと、日本古来の「歌謡曲」の垣根を越え、「新しい日本の歌」を生み出すべくスタートしたのが、この「レコード大賞」でした(前年に始まった米国グラミー賞を範としたそうです)。

 

レコード大賞の「審査基準」は、「作曲、作詩、編曲を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な作品とする。 優れた歌唱によって活かされた作品で大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映、代表したと認められた作品に贈る」となっています。

 

しかし当時は、レコード会社が作曲家や歌手を「専属」で支配していた時代。それらの壁を取り払おうとするこの動きはレコード会社やマスコミから警戒され、協力したレコード会社はビクターのみ、賛同したマスコミはラジオ東京テレビ(現・TBS)のみという逆風の中でのスタートでした。

 

運営委員長となった古賀政男さんは「私財を投げ打ってでも必ず実施する」と宣言し、実際に赤字分を個人負担したと言われています。

 

黎明期 1959-1970 「レコード大賞」受賞曲一覧

 

第1回(昭和34年・1959)「黒い花びら」水原弘
東芝音楽工業 作詩/永六輔 作曲/中村八大 編曲/中村八大

 

第2回(昭和35年・1960)「誰より君を愛す」松尾和子/和田弘とマヒナスターズ
日本ビクター 作詩/川内康範 作曲/吉田正 編曲/和田弘

 

第3回(昭和36年・1961)「君恋し」フランク永井
日本ビクター 作詩/時雨音羽 作曲/佐々紅華 編曲/寺岡真三

 

設立から数年は知名度も低く、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など、小規模の会場でした。第1回受賞者の水原弘さんですら「レコード大賞って何?」だったのだとか・・・。観客動員も苦戦し、「天下の美空ひばりが出ても客席はガラガラ」との逸話も残っています。

 

ちなみに第1回を受賞した永六輔・中村八大コンビは当時の歌謡界では無名の新人で、しかも主流派ではない2人。さらにはレコード会社として正式発足以前の状態だった東芝の初リリース楽曲でした。永さんは初回に敢えてこういった楽曲を選定したことを「審査員の良識だった」と後述しています。

 

第4回(昭和37年・1962)「いつでも夢を」橋幸夫/吉永小百合
日本ビクター 作詩/佐伯孝夫 作曲/吉田正 編曲/吉田正

 

第5回(昭和38年・1963)「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ
キングレコード 作詩/永六輔 作曲/中村八大 編曲/中村八大

 

第6回(昭和39年・1964)「愛と死をみつめて」青山和子
日本コロムビア 作詩/大矢弘子 作曲/土田啓四郎 編曲/土田啓四郎

 

第7回(昭和40年・1965)「柔」美空ひばり
日本コロムビア 作詩/関沢新一 作曲/古賀政男 編曲/佐伯亮

 

第8回(昭和41年・1966)「霧氷」橋幸夫
日本ビクター 作詩/宮川哲夫 作曲/利根一郎 編曲/一ノ瀬義孝

 

1966(昭和41)年の第8回で大賞を受賞した「霧氷」橋幸夫。「10月に発売されたばかりの楽曲が大賞を獲るのはおかしい」と当時、大いに物議を醸しました。1月リリースの「雨の中の二人」で大賞を狙うはずが規約変更で選考対象から外れてしまい、「ライバルの舟木一夫との賞レースで負けられない橋陣営が強引に捻じ込んだのでは?」などと囁かれました。

 

橋幸夫さんは前年に「あの娘と僕―スイム・スイム・スイム―」が大賞候補に挙がるも美空ひばりに敗れており、その美空ひばり受賞時にも「多額の現ナマが審査委員に贈られた」など、賞の権威が高まるにつれて“黒い噂”も立ち始めました。

 

第9回(昭和42年・1967)「ブルー・シャトウ」ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
日本コロムビア 作詩/橋本淳 作曲/井上忠夫 編曲/森岡賢一郎
https://youtu.be/F90Srabntzs

 

第10回(昭和43年・1968)「天使の誘惑」黛ジュン
東芝音楽工業 作詩/なかにし礼 作曲/鈴木邦彦 編曲/鈴木邦彦

 

TBSに現存する最古の映像はモノクロ放送最後の年、第10回(1968年/渋谷公会堂)

 

同年には「10周年記念音楽会」(カラー放送/サンケイホール)が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃い。いま、第9回以前の受賞曲を紹介する映像は、この時のものなのだそうです。

 

第11回(昭和44年・1969)「いいじゃないの幸せならば」佐良直美
日本ビクター 作詩/岩谷時子 作曲/いずみたく 編曲/いずみたく

 

1969(昭和44)年の第11回。カラーでの全国生放送・会場は帝国劇場・大晦日「NHK紅白歌合戦」直前の19時~21時など、後のフォーマットが固まりました。

 

伴奏もビッグバンドとストリングスオーケストラ、合唱団など超豪華な仕様となり、30%超えの高視聴率を記録。これで「レコ大」は紅白と並ぶ「国民的番組」になりました。

 

これを見たTBS以外の日本テレビ、フジテレビ、NET(現テレビ朝日)、東京12チャンネル(現テレビ東京)がラジオ3局を誘い作られたのが「日本歌謡大賞」。以降、続々と音楽賞が誕生します。

 

第12回(昭和45年・1970)「今日でお別れ」菅原洋一
ポリドール 作詩/なかにし礼 作曲/宇井あきら 編曲/森岡賢一郎

 

 

黄金時代・序章 1971-1976年 「レコード大賞」受賞曲一覧

 

完全に「日本の音楽賞の中での最高権威」となったレコ大。その名の通り、「その年度を強く反映、代表したと認められた作品」がズラリと並びます。

 

第13回(昭和46年・1971)「また逢う日まで」尾崎紀世彦
日本フォノグラム 作詩/阿久悠 作曲/筒美京平 編曲/筒美京平

 

この楽曲の誕生の経緯は複雑です。元々エアコンCMソングとしてやなせたかし作詞・筒美京平作曲で作られ、その後、阿久悠さんが学生運動に挫折した当時の若者に向けたポジティヴなメッセージソングとして詞を変え、GSバンドのズー・ニー・ヴーが1970(昭和45)年に「ひとりの悲しみ」としてリリース。
https://youtu.be/rfY0nJu1rvo

さらに阿久悠さんが歌詞を男女の恋愛に置き換えてリリースされたのがこの「また逢う日まで」でした。オリコンチャート9週連続1位、総売上100万枚に達する大ヒットとなりました。

 

第14回(昭和47年・1972)「喝采」ちあきなおみ
日本コロムビア 作詩/吉田旺 作曲/中村泰士 編曲/高田弘

 

「喝采」は当時、ちあきなおみさんの実体験を元にして作られた「私小説歌謡」として売り出されました。レコード会社から「縁起が悪い」「死を持ち込むな」と歌詞を変えるよう提案されたそうですが、作詞家の吉田旺さんは「ここが核だ、喪に関する言葉は水商売の世界じゃ縁起がいい」と押し切ったのだそう。作曲の中村泰士さんは、ポップスでは珍しいヨナ抜き音階での本作を「会心の出来」と語っています。

 

リリースされるや同時期にヒットしていた宮史郎とぴんからトリオの「女のみち」を猛追。発売されてから3ヶ月でのレコード大賞受賞は史上最短記録となりました。

 

第15回(昭和48年・1973)「夜空」五木ひろし
徳間音楽工業 作詩/山口洋子 作曲/平尾昌晃 編曲/竜崎孝路

 

この年の「歌謡大賞」は沢田研二「危険なふたり」が受賞。レコ大でも本命でした。それを受けて五木陣営は急遽、レコ大に向けて勝負曲を「夜空」に切り替えます。あまりに急な展開のため、同年の紅白で五木ひろしはそれまでの予定曲であった「ふるさと」を歌い、「紅白でレコ大受賞曲が歌われない」という異例の事態になっています。結果的にこの作戦が功を奏し、見事受賞となりました(ジュリーは新設された「大衆賞」を受賞)。

 

第16回(昭和49年・1974)「襟裳岬」森進一
ビクター音楽産業 作詩/岡本おさみ 作曲/吉田拓郎 編曲/馬飼野俊一

 

「襟裳岬」は、演歌の森進一にフォークの気鋭・吉田拓郎が楽曲提供したことで話題となり、100万枚を超える大ヒット。レコード大賞と歌謡大賞ダブル受賞、紅白歌合戦でも初の大トリを飾るなど、森進一さんの代表曲となりました。

 

吉田拓郎さんが当時国民的大イベントだったレコード大賞授賞式に上下ジーンズの普段着で登場、「平然と受け取った」ことが物議を醸しました。

 

第17回(昭和50年・1975)「シクラメンのかほり」布施明
キングレコード 作詩/小椋佳 作曲/小椋佳 編曲/萩田光雄

この「シクラメンのかほり」は、元々は別のアップテンポの楽曲(「淋しい時」)のカップリング用に提出された楽曲で、布施さん本人は「今さらこんな古めかしいフォークソングっぽい曲が売れるわけない」と思っていたそう。それは作曲した小椋佳さんも同様で、自身ではレコーディングせずお蔵入りになっていたのだとか。ところがナベプロの渡辺晋社長、イザワオフィスの井澤健さんらがこの楽曲を猛プッシュ。発売されるやオリコン年間2位の大ヒット(87.8万枚)に。

 

小椋佳さんが第一勧業銀行に勤める「銀行マンシンガーソングライター」であることも話題になりました(ちなみにこの年の年間1位は、さくらと一郎の「昭和枯れすゝき」)。

 

第18回(昭和51年・1976)「北の宿から」都はるみ
日本コロムビア 作詩/阿久悠 作曲/小林亜星 編曲/竹村次郎

 

女性演歌歌手の受賞は、第7回の美空ひばり以来11年ぶり。史上初の「日本レコード大賞」と「日本有線大賞」ダブル受賞。売り上げは140万枚を突破し、「アンコ椿は恋の花」、「涙の連絡船」に続き3曲目のミリオンセラーとなりました。

 

都はるみさんはこの年の紅白歌合戦で、出場12回目にして初めて紅組トリ兼大トリを務めました。

 

黄金時代の最盛期 1977-1980年 「レコード大賞」受賞曲一覧

 

第19回(昭和52年・1977)「勝手にしやがれ」沢田研二
ポリドール 作詩/阿久悠 作曲/大野克夫 編曲/船山基紀

 

昭和51(1977)年の第19回。レコード大賞のTV最高視聴率(ビデオリサーチ、関東地区)は、ジュリーの「勝手にしやがれ」が受賞した、この年です。前年の都はるみ「北の宿から」、翌年のピンク・レディ「UFO」と作詞家 阿久悠さんの3連覇となります。

 

第20回(昭和53年・1978)「UFO」ピンク・レディ
ビクター音楽産業 作詩/阿久悠 作曲/都倉俊一 編曲/都倉俊一

 

昭和53(1978)年の大賞はピンク・レディ。4枚目のシングル「渚のシンドバッド」で初のミリオンセールスを達成して以降“社会現象”となった彼女たちは、前年に大衆賞を受賞。そしてこの「UFO」でもミリオンを達成して、初の大賞受賞となりました。

 

アイドル、しかもディスコ調のポップス楽曲で、さらにオリコン年間売上ランキング1位のレコ大受賞は史上初、とエポックな出来事でした。「企画モノ、色モノじゃないか」との異論はあったでしょうが、ピンク・レディはこの年の年間1位、2位、3位を独占しており、「世間も納得」の受賞だったと思います。

 

第21回(昭和54年・1979)「魅せられて」ジュディ・オング
CBSソニー 作詩/阿木燿子 作曲/筒美京平 編曲/筒美京平

 

当初はソニーのCMソングで名前を伏せてオンエアしたところ問い合わせが殺到。特徴的なドレスも話題となり、200万枚の大ヒット。この年は西城秀樹「ヤングマン(Y.M.C.A)」が大ヒットしましたが外国曲のカバーはノミネートされませんでした(代わりに「勇気があれば」でノミネート)。

 

惜しくも受賞を逃した西城秀樹が大賞を受賞したジュディ・オングを階段までエスコートするシーンは「レコ大の名場面」として、語り継がれています。

 

第22回(昭和55年・1980)「雨の慕情」八代亜紀
テイチク 作詩/阿久悠 作曲/浜圭介 編曲/竜崎孝路

 

昭和55(1980)年、第22回は五木ひろしと八代亜紀が年頭から激しい賞レースを繰り広げ、「五・八戦争」と言われました。前年の「舟唄」で受賞を逃した八代陣営が今年こそ!と雪辱に燃え、「雨の慕情」(オリコン年間26位)が五木の「おまえとふたり」(同年間7位)を抑え、悲願の初受賞となりました。

 

 

次回、80~90年代の②に続きます!

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