このシリーズでは基本的に、新日本プロレス旗揚げ以前、日本プロレス道場時代に絞って、「源流」を取り上げるつもりでした。
③影響を与えた強豪レスラー達
しかし、現代の総合格闘技(MMA)とのつながりを考えると、どうしても触れておかなければならない出来事があります。
それが、1974(昭和49)年の、イワン・ゴメスと、バーリ・トゥードとの接触です。
イワン・ゴメスとバーリ・トゥード、ルタ・リーブリとは
イワン(イバン)・ゴメスは1940(昭和15)年、ブラジル北東部の出身。兄弟のホセ、ジャイルドと共に、ボクシングと柔術(ブラジルでの柔道の呼び名)を学び、アガタンゲロス・ブラガ、オスマー”ビルソン”ムージーニョ・デ・オリベイラ、ブラジリアン柔術家のホセ・マリア・フレイレなどの下でトレーニング。
17歳で「全ブラジルのチャンピオン」となってから「12年間(400戦)無敗」を自負していました(ゴメスはブラジル北部を頻繁にツアー、地元の挑戦者との小規模なショーで戦ったため、この期間にゴメスが何回バーリ・トゥードで勝利したかは正確にはわかりません)。
ゴメスは1963(昭和38)年12月、24歳の時にカーウソン・グレイシーと対戦。結果こそ「引き分け」とされましたが、試合内容で圧倒して一躍注目を浴びました(カーウソンはブラジリアン柔術創始者のカーロス・グレイシーの長男で、ヒクソンの従兄弟にあたります)。
その後、ゴメスは再戦を要求しますがグレイシー側は拒否。代わりにカーウソンと共にアカデミーを開くことを提案。その理由は、カルロスとヘリオが「グレイシー・ブランド」に与えるダメージを恐れたから、と言われています。ゴメスは一時はグレイシーとのパートナーシップを結びますが、グレイシー一家のプロモーションに利用されるのに嫌気がさし、ほどなく解消。1974(昭和49)年にはカンピナグランデに自身のアカデミーを開講しています。
ゴメスは今や「なんでもあり」を意味する「バーリ・トゥード(vale tudo / 当時はバルツーズと呼ばれた)」の選手として有名ですが、当時はルールや試合方式が曖昧でした。そのため、当時は「ルタ・リーブリ(Luta Livre)」の試合形式の1つ「バーリ・トゥード」で伝説的に強かった選手、と言うのが正確でしょう。
ブラジルでは、「ルタ・リーブリ」は、複数のスタイルのレスリングに使われます。オリンピックのフリースタイル・レスリングは「LutaLivreOlímpica」、プロレスは「Luta LivreProfissional」または単に「LutaLivre」「Telecatch」とも呼ばれます。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン レスリングは20世紀初頭にブラジルに上陸し、「グレコローマン・レスリング(Luta Greco-Romana)」と区別するために「LutaLivre Americana(アメリカのフリースタイル・ファイティング)」という名前が付けられました。
それでも当時のブラジルではルタ・リーブリおよびバーリ・トゥードの愛好者は多く、数万人の競技人口があったとされ、自称チャンピオンや無敗の猛者がゴロゴロいました。その中でも、ゴメスが指折りの強豪だったことは間違いないでしょう。
イワン・ゴメスとアントニオ猪木
ゴメスと猪木さんの出会いは、1974(昭和49)年12月、新日本プロレスのブラジル遠征で挑戦を申し込んで来たことに始まります。
猪木さんはすでにアンドレ・ザ・ジャイアントとの対戦が決まっており、挑戦を受ける交換条件として「新日本プロレスへの留学」を持ち掛けます。ゴメスも新日プロ勢のトレーニングを目の当たりにし、キャッチ・レスリングの技術に興味を持ちました。
そしてゴメスは「留学生」として新日本プロレスの一員となり、来日。前座で若手相手に破竹の連勝を重ねます。しかし、これをもって「新日本プロレスよりバーリ・トゥードの方が強かった」と見るのは早計です。
当時、入門したての新人だった佐山聡さんは「(プロレスの試合はともかく、練習では)みんな意地でも負けない訳ですよ。あの頃の新日本には、コレ(シュート/ガチンコ)で絶対負けないぞ、という雰囲気がありました。僕はぺーぺーだったので彼とやった記憶はないんですけど、強かったと思いますよ。でも、極められたのは2人くらいだった。」と語っています。
対戦経験もある藤原喜明さんはさらに冷ややかで、「ゴメスは首締め(チョーク・スリーパー)は知ってたよ。あと、ヒール・ホールド。あれはアイツから教わったんだ。でも、他はそんなに大したことなかったよ。アイツは俺に『フジワラ、オマエはオレが教えたら半年もやればバーリ・トゥードのチャンピオンになれるよ』って言ったけど、俺は『今だって勝てるよ馬鹿野郎』って言い返したよ。」
山本小鉄さんから命じられ、仲間外れにされるゴメスの身の回りの世話をしていた佐山さんは、ゴメスから学んだこととして「腰を入れて蹴るんじゃなくて、ちょこんとあてる蹴り方。腰を入れると足を取られちゃうということでしょうね。後は、マウントでのコントロールとか、ポジショニングとかを今にして思えば必死に語っていました。それはゴッチさんの教えにはない部分でした。」と語ります。
ゴメスは1976(昭和51)年2月、ブラジルに帰国。新日本プロレスでの対戦成績は85戦77勝8分けでした。
ゴメスは同年8月の新日本プロレスのブラジル遠征に参加。リオデジャネイロ市マラカナン体育館でウィリエム・ルスカとセメントになり、壮絶な大流血戦の「ケンカ・マッチ」は今も語り草になっています。
この試合でゴメスはパンチでルスカを大流血に追い込み、ルスカも頭突きで応酬。ロープ際でチョーク・スリーパーを極めますが、レフェリーのミスター高橋はゴメスを反則負けにします。観客はゴメスの勝利を叫び場内は騒然となり、リオの体育協会がルスカと高橋を「ブラジル国内でのあらゆるスポーツに永久出場停止」処分にする大騒動になりました。この遠征ではゴメスvsストロング小林、木戸修戦も行われ、いずれもゴメスが勝利しています。
木戸戦の映像。試合後に少しだけですが猪木さんの当時のコメントを聞くことができます。「格闘技競技ちゅうのにはいろんなものがあるし、俺もとてもいい勉強になったし、ゴメスも日本のプロレスというものをよく研究して、あれをバリツーズの中に活かしてますしね。」
しかし、結論としてプロレスラーとしては大成しませんでした。「練習では互角なのに、試合ではずっと勝たせてもらっているゴメス」に対するレスラー達からの風あたりは強く、ゴメス自身も「観客に魅せるプロレスの試合の質」として前座の域を出られず、「プロレスラーになる」ことは諦めたのだろうと思います。
ゴメスとの出会いがもたらしたもの
ゴメスは猪木さんより年上の弟子。ゴメスは猪木さんを「先生」と呼び、慕っていました。こうした関係性と新日本プロレスの若手選手の手前もあり、この時に猪木さんがゴメスから技術を教えを乞うというのは考えにくいですが、柔軟で格闘技に関しては素直な猪木さんのこと、ゴメスと若手とのスパーリングをつぶさに観察し、時には共に汗を流して、良い部分は学び、取り入れていたことでしょう。
この時、猪木さんが日本においてゴメスおよび柔術を興行でフューチャーし、ゴメスと上位陣との試合を組まなかったのは、あまりにもゴメスのキャラクターとファイトスタイルが凄惨かつ地味過ぎて、観客に見せれない(TVに映せない)、動員に結び付かないと判断したからでしょう。
柔道の五輪メダリストでアスリートとしての能力は超人的だったアントン・ヘーシンクやウィリエム・ルスカでさえ、「当時の観客の期待に応える」プロレスラーとしては大成しませんでした。ここに興行ビジネスとしてのプロレスの難しさがあります。猪木さんもルスカについて「ルスカは強かったし、プロレスにも真面目に取り組んでいたけど、”強いだけじゃ大成しない”というプロレスの難しさを克服できなかった。俺以外にこれといったライバルを作れなかった。今のような『格闘技ファイター』としてだったら、成功したかもしれないですね。」と語っています。
1つだけはっきりしているのは、後にグレイシー柔術とバーリ・トゥードが一大旋風を巻き起こすよりも遥か昔に、アントニオ猪木と新日本プロレスは、その技術を取り込んでしまっていた、ということです。少なくとも新日本プロレスの道場では、この時点で「ヒール・ホールド」と「チョーク・スリーパー」が認識され、少なくともアントニオ猪木、藤原喜明、佐山聡の3人は、その使い方をマスターしていました。
ブラジルに戻ったゴメスは引退し、後身の指導にあたりましたが、腎臓病で1990年3月に亡くなりました。生涯、地元では英雄だったゴメスのブラジルでのニックネームは、「日本帰り」を意味する「(エル・)サムライ」でした。
この当時の(全盛期のアントニオ猪木が率いる)新日本プロレスは「キング・オブ・スポーツ」を標榜し、いつ何時どんな外敵が来ても(シュートでやっても)絶対負けない、という気概を持ったレスラーがいる、戦闘集団でした。
藤原さんはウィリエム・ルスカとのスパーリングについてこう語ります。「猪木さんとの試合の前だよ。日本アマレス協会の福田さん(富昭・元日本レスリング協会会長)が『藤原くん、やってみたまえ』って連れてきた。少なめに見積もっても、10分間で10回は極めた。福田さんはいつの間にか『藤原さん』って呼ぶようになってた。でも、ルスカが(関節技を)知らなかっただけだよ。あくまでも俺たちのルール上での話で、強さとは関係ない。柔道着てやってたら、俺は3秒も立ってられなかっただろうな。その後、オレがヨーロッパに行ったとき、ルスカは良くしてくれた。あの時の負けは負けと認めていた。一生懸命闘ったからこそ、友情が生まれていたわけだ。彼はサムライだよ。」
次回、最終回⑤では、これまでの流れを踏まえて、「アントニオ猪木のプロレスの”特異点”とは?」を掘り下げます。
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