※文中敬称略
◼︎天龍が「Mr.プロレス」である理由
天龍源一郎はいつの頃からか「Mr.プロレス」と呼ばれるようになりました。それは「日本人レスラーでただ1人、ジャイアント馬場とアントニオ猪木からピンフォール(3カウント)勝ちをした選手だから」と言われています。
1989(平成元)年11月、札幌での世界最強タッグ公式リーグ戦、スタン・ハンセンとの「龍艦砲コンビ」で馬場・鶴田師弟コンビと対戦し、パワーボムでジャイアント馬場(当時51歳)からピンフォール勝ち。
その5年後、1994(平成6)年1月、東京ドーム大会でアントニオ猪木(当時50歳)とのシングルマッチでこちらもパワーボムでピンフォール勝ち。
馬場にしても猪木にしてもすでに50歳を超え、全盛期ははるか昔、とはいえ、この「両巨頭からピンフォール勝ちを許される」というのは、天龍がそれに値する選手である証明でもあります。
◼︎若手時代の天龍の印象
私は天龍選手が大相撲からプロレス転向し、伸び悩んでいた時期から観ていますが、正直言って後々、こんなプロレス界を代表するような存在になるとは、まるで思っていませんでした。
それは長州力にしてもまったく同じで、若手時代のこの両者はなんとなく「プロレスが好きではないのかな?」と子ども心に感じるほど、つまらなそう、小難しそうにプロレスをする選手でした。
長州力がブレイクしたのはご存知の通り、藤波辰巳への「噛ませ犬」下克上宣言からの抗争(1982年)でしたが、天龍にもまた、プロレスに覚醒した有名な試合があります。
それは、以前、猪木との名勝負をご紹介した「人間風車」ビル・ロビンソンとのタッグによる一戦です。
◼︎天龍源一郎とプロレス
天龍源一郎は1950(昭和25)年2月2日、福井県生まれ。13歳の1963(昭和38)年に大相撲 二所ノ関部屋に入門、翌年初土俵。前頭筆頭までいきますが1976(昭和51)年に師匠の死去に端を発する部屋の後継問題に巻き込まれ26歳で廃業、馬場率いる全日プロに入門します。
この「天龍」というリングネームは相撲の四股名そのままで、プロレス入門からもしばらく、髷を結ったままでした。なので妙に記憶に残ってるんだと思います。
当時の全日プロは馬場がまだまだ絶対的エースで、その次を担う若手としてジャンボ鶴田が急成長、マスカラスとのシングルで初のプロレス大賞 ベストバウトを受賞したくらいの頃です。
国内デビュー戦からいきなりメインイベントで馬場と組み師匠のドリー、テリーのザ・ファンクスと対戦するなどスター街道を歩むジャンボ鶴田と比べると、天龍は日本とアメリカを行ったり来たりしていて「プロレス修行中の若手」の1人に過ぎず、全日プロとしても積極的な売り出しをする気もなさそうでした。鶴田に次ぐ「第3の男」としては、天龍の他にロッキー羽田やタイガー戸口(キム・ドク)などがいたのです。
この頃の天龍の必殺技「天龍チョップ」は、まんま相撲の突っ張りで、後の逆水平チョップとは別モノでした。これを使うと観客から失笑が漏れるのを、やたらと覚えています。
小学生の私が子供心に「天龍はプロレスが好きではなくて、ほんとはまだ相撲がやりたいんじゃないの?」と感じたくらいですから、当時のプロレスファンの大人たちも同じ事を感じていたと思います。
この頃の天龍は、なんとも冷めた感じでつまらなそうに、小難しそうにプロレスをする選手でした。
事実、この頃の自分について天龍は
「上には馬場さん、ジャンボ鶴田選手っていましたし、横にはロッキー羽田選手がいて。皆さん上手だったから、なんていうのかな、待遇はいいんだけど、とてもじゃないけど、っていうのが俺の中にあったから。別にどうのこうの比較とか、焼きもちとかそういうものも全然なかったですね。別にどうでもいいやっていう気持ちと、所詮プロレスなんかっていう舐めた気持ちもありましたよ。だから一生懸命プロレスをやらなくて、幕の内で勝ち越した俺が、こんな所詮プロレスなんかやれるわけないじゃんって。そこに逃げてた部分ってありましたよ。」
と語っています。
◼︎天龍が「オレの真打昇進試合」と呼ぶ一戦
そんな天龍が「真打昇進試合、プロレスに目覚めた試合」に挙げるのが、1981(昭和56)年7月30日、後楽園ホールで行われたサマー アクション シリーズ最終戦、天龍がビル・ロビンソンと組んで馬場、鶴田の持つインターナショナル タッグ選手権に挑戦した試合です。
この時私は11歳で、毎週新日と全日の中継を見始めた時期です。なんで日本人の天龍が、ガイジンであるロビンソンとタッグを組むのか?意味不明でした。馬場と鶴田は無敵の師弟コンビですし、その2人に身内の天龍が挑戦する意味合いもストーリーもありません。
当初、ロビンソンはファンクス一門の「ケンカ番長」「右利きのテリー」と呼ばれたディック・スレーターと組む予定でした。ところが、スレーターは来日前にアメリカで起こした交通事故の怪我が悪化してシリーズ途中帰国、欠場となります。そこでなんとなく、員数合わせで天龍が選ばれ、なんとなく組まれたカード、というのが実情でした。
急造タッグにも関わらず、ロビンソンと天龍は2人とも紫色のショートタイツで登場します。これも単なる偶然。ロビンソンは英国王室をイメージしたロイヤルカラーだから、天龍は相撲時代のまわしの色だから紫色、なだけなのです。
ところが、この偶然が必然かのように、天龍プロレス覚醒のきっかけになるのですから、何が起こるかわからないものです。
試合は60分3本勝負。
結果は、14分57秒、ロビンソンが馬場をフォールして1本先取。2本目は5分11秒、馬場がロビンソンからフォール勝ち。決勝の3本目は6分5秒、リングアウトで馬場組がロビンソン組を下し、スコア2-1で馬場組の王座防衛となりました。Youtubeで観ることができますが、いまみてもなかなかのイイ試合です。天龍も鶴田も若くて細い!
この試合前、天龍はロビンソンから「タッグを組んでもいいけど、オマエはオレと組むと何もできないかもしれない。ただ、オレにタッチすれば、また試合を元に戻して、セットアップしてやるから、好きなことやれよ」と言われたと言います。
この試合で天龍は、延髄斬りを初めて使います。後に卍固めと共に、天龍の得意技としても認知されるこの技はアントニオ猪木のオリジナル技。当時は他に使う選手はいませんでした。
当時はトップクラスの選手の技を下の選手が使う事はタブーとされていましたし、さらには当時、選手の引き抜き合戦などで文字通り仁義なき戦いを繰り広げていた馬場の目の敵であり、ライバル団体の創始者である猪木の代名詞的な技、となればなおさら言語道断なワケです。
天龍は「シリーズ後にまたアメリカ、ダラスに行くことが決まっていたし、ロビンソンから好きなようにやれ、と言われたんで、馬場さんとジャンボに置き土産代わりにいっちょかましてやれ、くらいの気持ちだった」と語っています。
ところが、この天龍の攻撃に対して、予想外の反応が観客から起こります。「会場がワッとウケているのを見て、お客さんの反応を感じちゃったんですね。それまではオレが試合をしていてもシーンとしていたお客さんが「行け!天龍やれ!」と、同じような気持ちになって、応援をしてくれるのを聞いて、プロレスは自分の感情をリングにぶつければ、返してくれる人がいるんだ、というのを知ってしまった。そこからプロレスに対する姿勢が変わりましたね。」と語ります。
試合後、天龍は気持ちの良い汗をかいた、と満足そうに見えますが、内心、馬場から「よりによって猪木の技なんか使いやがって」と怒られるかと覚悟したそうです。しかし、馬場からは一切お咎めなし。
この事で、天龍は「小難しくあれしちゃいけない、こうしなきゃいけない」と考えていたプロレスが「もっと自由に思い切りめちゃくちゃやって、観客に支持された者が勝ちなんだ」という事に気がついたのだと思います。
天龍のプロレス観を変えるきっかけとなったビル・ロビンソンは、この試合が全日プロでの最後のタイトルマッチでその後はアメリカに主戦場を移し、1985年に引退しました。
あの日、天龍はロビンソンとタッグを組まなかったら、その後のプロレスキャリアはどうなっていたのでしょうね。
◼︎天龍、プロレス覚醒から天龍革命
この試合時、天龍はキャリア5年の31歳。決して若くありません。(ちなみに鶴田はキャリア8年目の30歳、馬場とロビンソンは共に43歳)
プロレス入りして何年も、相撲という前身のキャリアで前頭筆頭、十両優勝までいった経験が逆に足枷となりプロレスに対して本気になれない、冷めた感覚につながっていたそうですが、この試合で「どうせやるなら、お客さんに喜んでもらえる試合をやろう」という意識と共に「お客さんを驚かせる快感」に目覚めたのだと思います。
そして天龍はこの後、猪木や坂口、鶴田の巻いたUN(ユナイテッドナショナル)王座を獲得。82年終わり頃から黒と黄色の天龍カラーに変わり、鶴田と「鶴龍コンビ」を結成して83年にはプロレス大賞最優秀タッグチームを受賞します。
この頃から、私は高中正義の「サンダーストーム」で憂鬱そうに入場して来て、不機嫌そうに試合をする天龍が好きになりました。派手なアピールなどは一切ないのですが、時折ポーンと思い切った意外な事をやって、退屈しない試合をし始めていました。この時期の得意技は相変わらず延髄斬りと卍固めでしたが、正直私はオリジナリティがないのと猪木より美しくないのであまり好きではありません。それよりトップロープからバックスタイルで飛んでくるエルボードロップが好きでした。
そして、天龍は新日プロから乗り込んできた長州力に対して矢面に立ち、激闘を繰り広げて大ブレイクを果たします。
長州らが去った後は盟友、阿修羅原と共に元横綱 輪島をシゴき、鶴田を「本気」にさせ、ハンセンらと身体を張った試合を連日行い、世に言う「天龍革命」で全日プロを盛り上げます。パワーボムが必殺技になったのもこの頃です。
私はこの天龍革命の最初期に、福岡国際センターで全日プロ 最強タッグリーグを観戦しました。リーグ戦でもないノーテレビの消化試合タッグマッチにも関わらず、天龍と原のコンビだけ他の選手らと明らかに違うモチベーションで、必要以上に熱すぎる30分近い試合をしていました。やる気のなさそうな相手選手は最初、迷惑そうにしていましたが、天龍らは構わずガンガン攻め続け、徐々にヒートアップして会場内は大盛り上がりです。
「プロとしてカネを払ってもらった以上、他の連中が手を抜いてるなら余計にオレたちは手を抜かないぞ」という「長いものに巻かれない」姿勢を見て「なんというシンドイことをやってるんだ」と感銘を受けました。
プロレスに冷めた様子でつまらなそうに試合をしていたかつての天龍とはまるきり別人の姿を目の当たりにして「人というのは自分の気持ちの持ちようで、どうにでも変われるんだ」という事を教えられた気がしました。
そしてそれはこの日だけではなく、もっと地方の観客の少ない会場でも、1日足りとも手を抜かずに闘い続けて、毎日取材するプロレスマスコミの記者達から感嘆の声が上がる程でした。それが天龍「革命」の真の姿、価値なのです。
その後、大学時代には毎シリーズ、日本武道館で鶴田との鶴龍対決を何試合観たかわかりません。
あのやる気と覇気の感じられない、長州とやってもどこか本気でなかったジャンボを本気で怒らせて時にコテンパンにやられても喰らい付く天龍には、本当に楽しませてもらいました。
そのすべてのきっかけが、前述したロビンソン戦だった、と知ったのは随分後のことになります。
その後、天龍はSWS、WARを経て新日、FMW、UWFインター、さらにはハッスルに至るまで、ありとあらゆるスタイルであらゆる世代のトップ選手と団体の垣根を超えて対戦し、プロレスを誰よりもエンジョイして、キャリア39年目の2015年、彗星のように現れた新世代のスーパースター、オカダカズチカに介錯されて引退しました。
いまでは滑舌の悪いオジサン テレビタレントとして活躍する天龍源一郎は、こんなプロレスラーなのでした。
完
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