格闘技世界一決定戦シリーズ、アントニオ猪木vsモハメド アリの「20世紀最大のスーパーファイト」。
【前編】試合までの経緯、【中編】試合内容、に続く【後編】の今回は、「試合後の猛バッシング」と「その大きすぎる代償と2人の友情」について、ご紹介します。
●バッシングの理由
試合終了直後から、試合内容と結果に対するバッシングが世界中で巻き起こります。
理由はシンプルで、
「試合が全然面白くない」
「世界一決定戦と言いながら引き分け決着」
そこから派生して
「どうせ引き分けの話がついていたのだろう」
「こんなできそこないの試合見せて大金儲けるなんてサギだ」
そしてそれは、なによりも
「すべては言い出しっぺのくせに、いざとなったら寝たきりだった臆病者の猪木が悪い」
となりました。
この戦いにかこつけてイベントを打ったアメリカのプロレス プロモーター、同業者の中にも「猪木に腹切り用のナイフをプレゼントする」と辛辣なコメントを吐くものすらいました。
戦前に高い注目を浴びた分だけ、一般紙もスポーツ紙も、一斉に掌を返して辛辣な皮肉たっぷりにあげつらいます。
「三十億円興行 失敗か 筋書き 採算 思惑はずれ」(朝日新聞)
「寝そべる猪木 立つアリ 観客しらけた“格闘技”戦」(読売新聞)
「二十四億円の シラケ決闘 オレ稼ぎに満足 アリ 結局正直すぎた猪木」(毎日新聞)
「世界中に笑われたドロー アリ・猪木」「スーパー茶番劇」(日刊スポーツ)
「猪木 大凡戦に涙」(東京スポーツ)
…etc
かくいう私も、当時は小学1年生。土曜の半ドンが終わり、学校から走って家に帰ってオフクロに「猪木勝った?」と聞いたら「なんかずっと寝てて、引き分けだったよ」と言われて大ショック。「なんだよ猪木、絶対勝つって言ってたクセに!」と腹が立ち、夜の中継観戦をボイコットしてしまいました…悔やんでも悔やみきれませんが、おそらく当時はこの試合の背景も、その攻防も理解できなかったと思うので、観たとしても意味なかったと思います。
当時の一般紙の新聞記事を見ると、「アリのギャラが18億円、猪木が6億円、リングサイド最前列は30万円、2列目が10万円、最上階の3階席でも5千円の“30億円興行”」と書かれています。
これが後の猛バッシングの燃料になりました。
普段はどんなに面白い試合をしてみせても「八百長」とバカにするくせに、
いざリスクを承知で真剣勝負の大一番をしてみせたら「つまらない、金返せ」という残酷な大衆。
猪木には絶望しかありませんでした。翌日、猪木は新聞各紙の報道を見て、自殺も考えるほど落ち込んだ、といいます。そんな猪木を救ったのは、どうしても外出しなければならず、たまたま通りがかったタクシーがわざわざ引き返して来て、その運転手さんからかけられた「いやぁ、ご苦労さん」という一言だった、と言います。
●試合後のアリ
アリだけは、猪木との真剣勝負の怖さと、その蹴りの威力に驚愕していたはずなのですが、次の訪問先の韓国で「この試合はお遊びだった」と言い放ち、猪木はさらに絶望します。これはアリなりの精一杯の強がりでした。実はアリの脚は猪木に蹴られ続けて、まともに歩けないほどだったのです。
試合後のAP通信によると「猪木のキックによりアリの太ももは激しく腫れ上がり、膝の裏に血栓症を患い、サンタモニカの病院に入院した。かなりの重症」とありますが、その後、9月に予定されていたケン ノートン戦の準備のため、アリは短期間で強引に退院し、その後の活動においてネガティブな情報となるため、ほとんど報じられることはありませんでした。
その後もアリは入退院を繰り返し、この試合でのダメージにより5年後の現役引退の大きな要因になった、とさえ言われています。
●世紀の一戦の後始末
もう一つ、猪木を苦しめたのは巨額の借金でした。アメリカで行われたクローズド サーキット(劇場などでの有料公開)の収益が伸びず、それで賄うはずだったアリのギャランティなどで、数億円の支払いが残ってしまいました。
さらにはルールを巡る紛糾、TV生中継での「勝った方がギャラ総取り」の猪木のアピールに激怒していたアリ陣営から、100億円とも言われる、巨額の賠償請求訴訟まで起こされます。猪木側も訴訟を起こして対抗しますが、なにせ訴訟の舞台はアメリカ。膠着状態は1年以上に及びます。ロスアンジェルスで行われた和解調停でも、新日本プロレス側の日本人弁護士2人、アメリカ人弁護士1人vsアリ側のアメリカ人弁護士7人との間で、平行線を辿ります。
ここで動いたのが、猪木のマネージャーである新間寿氏です。新間氏はアリ側のトップであるハーバード マホメッド氏と直談判を要望。ロスアンジェルスのホテル ビバリーヒルズ ウィルシャーで、新間氏とハーバード氏、そして通訳のケン田島氏3人だけで和解交渉が行われます。
新間氏は「自分達にとってアリ戦がいかにリスクが高い戦いであったか、ルールや契約内容で全てアリ側の条件を呑んだこと、そして猪木は一度も反則することなく正々堂々と戦ったこと、結果として猪木は世界中の笑い者にされ、新日本プロレスは莫大な借金を背負い、その後興行成績も不振で倒産の危機に瀕している」とひたすら訴え続けたといいます。
ハーバード氏は黙ってそれを聞き、新間氏に最初に語った「これから私が言うことは口で喋っているのではなく、私の心で話しているものだと聞いていただきたい」というセリフは誰のものだ?と訊いて来ました。
新間氏が「私の父で、あなたと宗派は違うが仏教の日蓮宗の住職だ」と答えると、ハーバードは、「実にいい言葉だ。今度、私も説教の時に使わせてもらうよ」と言い「Mr.シンマ、キミはこの裁判をどうしたい?」と尋ねます。
新間氏は「本当に払うお金がない。裁判を取り下げてほしい」と涙ながらに懇願します。
するとハーバード氏はその場で電話をかけ始めます。そして、電話の向こうの相手に対して「オマエはイノキが好きって言ってたよな」と話し始めました。
電話の相手はアリ本人だったのです。アリが「イノキのことはリスペクトしている」と答え、それを聞いたハーバード氏は「だったら、裁判はこれで終わりにしよう!すべてナシだ」と宣言。新間氏に電話を変わります。「セイ、ハロー」アリの声が聞こえた瞬間、新間氏は涙が止まらなかったといいます。
その後、再び同席した弁護士達から「条件なしの和解なんて冗談じゃない」という声が上がりましたが、ハーバード氏はそれを一喝したそうです。
直談判で100億円をチャラにした新間氏の交渉力は凄まじいですが、新間氏はなんと「次のアリのタイトルマッチに猪木夫妻を招待してくれ」とまでお願いしています(一説では再戦についても検討するという約束があった、とも)。これらをすべて飲んで水に流したハーバード氏、そしてアリも凄い。さらには、こんな重要な交渉の日に倍賞美津子夫人とディズニーランドに行っていたというアントニオ猪木はもっと凄い(笑)。
それでも残った多額の借金は10億円近かったと言われます。それはアントニオ猪木が「格闘技世界一」をシリーズ化することで、数年で完済していきました。
1977年5月、アリは猪木をプライベートな結婚パーティーに招待。
「彼の結婚式に招待されて、ビバリーヒルズの部屋にいたら、アリがどこかに隠れていたんだね。後ろから首を締めてきた(笑)。その時アリが『あれでよかったな、お互い。俺も怖かった』と言った。あれだけプライドの高い人間だから、なかなかそういうことは言わないんだろうけどね」(猪木)
いまでは「猪木のテーマ」として誰もが知る「炎のファイター」はもともとアリの伝記映画で使用された楽曲がオリジナルで、「友情の証に贈られた」とされています。
さらにはずっと後年になってもアリは、
1993年に出版された専属カメラマン撮影、アリ監修による写真集「Muhamed Ali A Thirty Year Journey」の中で、センター見開きページに “TOKYO 1976”というタイトルで猪木戦の写真と共に京王プラザ ホテルで包帯でグルグル巻きになった脚を投げ出してベッドに寝そべる自らの写真を掲載。
1995年に猪木が北朝鮮で開催した「平和のための平壌国際スポーツ文化祭典」にアメリカ政府の渡航禁止勧告にも関わらず立会人として訪朝したり、
1998年にはパーキンソン病のカラダをおして猪木の引退試合に駆けつけるなど、
友情を育みました。
モハメド アリは2016年6月3日、74歳で亡くなりました。
そしてこの試合については40年以上経った現在でも、数多くの伝説が語られ、これが真相だ、といった記事、書籍が出版され続けています。格闘家による技術解説で「いま観たら大した攻防がない」などという論調もありますが、史上これ以上にスケールがデカく、そして互いに背負うものと、敗れた場合のリスクが巨大な「果たし合い」は、いまもって存在しません。
「この2人がこのタイミングでリングに上がって戦った」という事実だけで“スゴイ”ことであり、さらには試合前から試合中、試合後に至るまで「互いの人生のみならず、ジャンルの存亡を賭けた異種格闘技 世界最大規模の一騎打ち」が、極東の日本発信で行われたという事実の前には、いかなる論調もまるで意味を成しません。
図らずも2018年大晦日のメイウェザーvs那須川天心戦が、それを証明しました。
次回、格闘技世界一決定戦⑤~1976 vsアクラム ペールワン戦に続きます!
コメント
この試合は、永遠にソフト化されないだろうなと思ってたら、以外にも燃えろ!新日で実現! BI砲も2月のG+で放送されるし、あのイベントや、試合もいつかそうなる時が来ることを祈ります!
2月のG+、BI砲楽しみですね!近々、「日本プロレス時代のジャイアント馬場」について取り上げます!