元横綱「双羽黒」、元プロレスラー&冒険家の北尾光司さんが亡くなりました。命日の2月10日は東京ドームでプロレス デビューした日。単なる偶然ですが、不思議な因縁を感じます…
今回は、かの有名なUインター高田延彦vs北尾光司戦について、不思議とあまり語られない当日の「会場での出来事」と「当時の空気」を交えて、リアルタイム生観戦者の目線で、ご紹介します。
※本文中敬称略
●1992年のプロレス界
新日本プロレスでは前年からスタートしたG1クライマックスが大爆発。「闘魂三銃士」が興行の中心となり、蝶野正洋がリック ルードを敗り2連覇を達成した年。
全日本プロレスでは三沢光晴が8月にスタンハンセンを下し遂に三冠王者に。病気療養中のジャンボ鶴田に代わり、名実共に「四天王プロレス」時代となった年。
中でも刺激的なカードと試合内容でこの時、人気、実力共にプロレス界の頂点に手をかけていたのが、UWFインターナショナルのエース、“最強“高田延彦でした。
高田 Uインターは前年の1991(平成3)年5月に旗揚げしたばかり。「プロレス最強」を掲げ、12月にプロボクシング 元WBC世界ヘビー級チャンピオン、トレバー バービックを引っ張り出し、ネーミングも猪木そのまんま「格闘技世界一決定戦」を敢行。かつての猪木 新日本プロレスへのオマージュ溢れる戦い模様で“ポスト アントニオ猪木“路線を鮮明にしていきました。
そしてローキックの連打でバービックを戦意喪失で破った高田が、次の対戦相手に狙いを定めたのが元横綱、北尾光司でした。
●“嫌われ者“北尾光司
この時の北尾光司は一言で言えば「トラブルメーカー、業界の嫌われ者」。
大相撲では1985(昭和60)年に優勝なしながら22歳で横綱まで上り詰めるも、1987(昭和62)年12月、立浪親方とトラブルを起こし廃業。そのトラブルの原因はいくつも囁かれましたが「ちゃんこの味付けを巡ってケンカした」「ファミコンのデータを消されてキレた」「おかみさんを蹴飛ばした」など、耳を疑うようなものばかり。
いずれにしても“「ワガママな現代っ子」北尾が封建的な相撲社会と合わなかった“という事だけは明らかでした。
とはいえ当時、巨漢 小錦と互角に渡り合えるのは北尾以外になく、期待も大きかっただけにこの廃業は失望と共に、多くの相撲ファンを敵に回し、バッシングが吹き荒れました。
北尾はその後、新日本プロレス 1990(平成2)年2月の東京ドーム大会で華々しくプロレス デビュー。しかし“明らかにプロレスを勘違いした、ナメた感じ“でファンから総スカンを喰らいます。その後の地方巡業でもショッパイ試合ブリで失笑とヒートを買いまくり、挙句に現場監督の長州力と衝突して契約を解除されます。
その後は天龍の温情でSWSマットに拾われますが、1991年4月、神戸でのジョン テンタとの伝説の塩試合からの「この八百長野郎!」マイクで追放。
北尾はその後、福岡に本部道場のある謎の格闘技団体「空拳道」所属の“格闘家“に転身しましたが、表舞台からは完全に“消えた“存在でした。
●Uインターの仕掛け人 宮戸優光氏
この頃、Uインターをプロデュースしていたのが選手兼任取締役の宮戸優光氏。
宮戸氏は自らの役割をかつての新日本プロレス 営業本部長兼猪木のマネージャー、“過激な仕掛け人“新間寿氏とダブらせ、エースである高田を“新時代のアントニオ猪木“として光り輝かせる戦略を執っていました。
宮戸氏はSWSを解雇された後も北尾と個人的に親交があった佐野直喜(巧真)を通じ、北尾と接触。「空拳道」の道場長であり師範の大文字三郎氏と交渉して、北尾のUインター参戦を実現します。
長州も天龍も持て余した「問題児」で業界の「嫌われ者」北尾は、「最強」を掲げるヒーロー高田の敵役として、これ以外ないキャスティングでした。
●北尾、山崎一夫に圧勝!の衝撃
北尾のUインター初登場は1992年5月8日、横浜アリーナ大会。対戦相手は高田ではなく、UインターNo.2の山崎一夫です。
私はこの大会、生観戦しました。
袖のないノースリーブ道着を着た北尾光司は四方に一礼し、更生した雰囲気を漂わせますが、ほとんどのプロレス ファンは「その手には乗らないぞ」的な冷ややかな視線とブーイングで迎えます。
とにかくデカく、満場のブーイングにもまったく動じず、静かに構える北尾はなんとも不気味。山崎はその周りをグルグル回り、鋭い角度のローキックを叩き込みますが圧倒的な体格差で吹っ飛ばされます。チーターが象に立ち向かうも、振り払われるといった感じ。北尾の太ももは山崎の胴回りくらいあるくらい、サイズが違うのです。そしてその巨大な脚でローキックを繰り出すと山崎は両脚払いのように吹っ飛びながら悶絶。そのまま立てず、7分44秒、ノックアウトで圧勝。ちょうど山崎の轟沈した場所が「UWF」と書かれたニュートラル コーナーの辺りだったのが印象的でした。
「ここまで圧倒的な体格差があると、いくらテクニックがあっても勝てないのでは」そう感じる程の、圧倒的なデカさ。そう、北尾はプロレスはヘタクソですが、こういうスタイルで来られると脅威以外の何物でもありません。
そしてこの日、メインイベントでゲーリー オブライトと対戦した高田延彦が、殺人スープレックスでサードロープに後頭部を強かに打ち付け、これまたKO負け。
普通ならここは“高田が勝って、次戦の北尾戦に期待を繋ぐ“のが常識なのですが、なんと「団体のNo.1、2が揃って敗北」というまさかの展開。この度肝を抜く結末に、私を含むプロレス ファンはますますUインターから目が離せなくなり、その刺激的、先鋭的な攻めの姿勢に、マンマとのめり込んでいったのでした。
●武道館決戦!異様な場内の興奮
UWFインターナショナル
1992年10月23日(金)日本武道館
格闘技世界一決定戦 3分5R
○高田延彦<プロレスリング>(3R 0分46秒 KO)北尾光司×<元横綱>
高田延彦vs北尾光司の一戦は「格闘技世界一決定戦」となりました。高田の「プロレス」に対し北尾の競技は「空圏道」でも「空手」でもなく「元横綱」。世間へのアピールとしては当然でしょう。もっとも、北尾のこの時点の肩書きで最適なのは「プロレスをナメて業界に迷惑をかけた悪いヤツ」なのですが。
私は当然、この一戦も生観戦しました。
この日の武道館は天井までよく入り、「観衆1万6200人、超満員」という主催者発表も決して大げさではない入りでした。その意味で、北尾の担ぎ出し、山崎戦からの高田戦というUインター(というか宮戸氏)の戦略はズバリ的中でした。
さらに当日、会場のあちこちに「空圏道」の道着を着た門下生らしき人物がいて、大声で北尾支持のアジテーションを行なっていました。これに呼応してUインター、高田ファンが罵声を浴びせ、試合前から館内は異様な雰囲気に。かつての猪木 新日本プロレスvsウィリー 極真会館の再現のようでワクワクです。
しかし、気になるのが「3分5ラウンド、判定なし」と決まった、試合形式でした。
これについてフロントの鈴木健氏が試合前にリングに上がり、説明がありました。これまたかつての新間氏演説のようです。さすがに詳細は忘れましたが、鈴木氏はこのルールになったのは「あくまでも北尾選手側の主張」であるとし、時間無制限を望んだ我々の主張はハネ付けられた、とした上で、最後に高田からのメッセージ、として「必ずリングで決着をつけます!」と宣言。
これに会場は大爆発。「高田、プロレスを代表して北尾を倒してくれ!」という空気が出来上がると共に「北尾は勝ち逃げを狙っている、逃すな!」という、この試合のテーマが全員に共有されました。
この辺り、この時期のUインター(というより宮戸氏)戦略は、猪木なき後の新日本プロレスに物足りなさを感じていたファンのニーズを的確に捉えていて、イチイチ、シビれさせてくれました。
●試合展開
この流れで場内の観戦はさらに高田に集中。北尾に対しては憎悪にも似たブーイングが浴びせられます。
1R。リング中央でドッシリ構える北尾に対し高田は軽快にステップを踏みながら前蹴り、ローキックで牽制。北尾が組みつこうと前進すると高田はバックステップで距離を取ります。
2R。両者はフィンガーロックから腕の取り合い。北尾が強烈なニーリフトから、高々と差し上げての裏投げ炸裂!これには館内は騒然となりましたが、高田は落ち着いて腕ひしぎで切り返し、北尾はロープ エスケープ。再びスタンドの両者、高田はここでハイキック一閃!北尾はこれをかわし、高田をフロント ネックロックで捕え、高田が逃れたところでゴング。
ここまでの攻防、「5Rなんてあっという間に終わりそう」そして「ローキックにしても腕ひしぎにしても、この時間内で北尾から勝ちを上げるのはムリでは?」というのが、率直な感想でした。なにせ倒すだけでも一苦労、さらに北尾の腕は丸太のようで、そう簡単に極められるとは思えません。そして、その巨体で足を伸ばせばエスケープも容易なのです。
「さすがの高田も今回ばかりは決着付かずで引き分けか…せめて負けないでくれ…」
というのが、2R終了後の館内の空気だった気がします。
3R。高田は猛然とローキックを連打。さすがの北尾もグラ付き始めます。そして北尾は痛みに耐えかねたのか、その高田のローキックを捉えようと前のめりになりました。
そこへバシーン!と、強烈無比な高田は右ハイキック一閃!
北尾はゆっくりと、スローモーションで巨木が倒れるようにブっ倒れました。
レフェリーのカウントが進みますが、北尾は意識朦朧で、上半身がサードロープに絡まって立つことができません。そしてゴング。3R 0分46秒、右ハイキックからのノックアウトで高田勝利!館内は大爆発!高田はリング上で飛び跳ね、セコンド陣と抱き合い喜びを爆発させます。そしてようやく起き上がった北尾と握手を交わしました。
試合後のインタビューで高田は「怖かったんですけど…勝ちました!」と語りました。この「怖かった」というのは間違いなく本音で、この勝利の意味合いがよくわかる一言でした。
そして、高田はセコンド陣に肩車され、満員の観衆の中をスポットライトを浴びながら、両手を突き上げて退場していきました。その後ろ姿を見ながら、私はかつて同じこの武道館での格闘技戦でモンスターマンを倒し、肩車されて拳を突き上げるアントニオ猪木の姿がダブって見えました。
「高田が猪木になった!」それが、この日、会場で生観戦した私の感想です。
高田はこの試合を評価され、この年のプロレス大賞MVPを受賞。名実共にプロレス界を代表する、トップレスラーとなりました。この試合は深夜でしたがTBS特番枠で地上波放送されたことも効果大でした。
さらに高田はこの後、ハシミコフ、ベイダーなどと数々のビッグマッチで人気と“最強“の称号と地位を高めていきましたが、そのきっかけであり頂点が、この北尾光司戦の“ハイキックKO“だった、と思います。
●試合後のウラ話
この試合については、後にさまざまウラ事情が語られ、多くの方がご存知の通りです。
・高田戦の交渉で北尾が負けるのを拒否したため、高田は「ガチでやろう」と提案。北尾がそれも拒否したため「だったら引き分け、ワークでやろう」と引き上げ、試合を成立させた上でブック破りのハイキックでKOした
・高田のハイキックはデビューしたばかりの高山善廣を実験台に磨いた
・引き分けになった際は立会人のルー テーズの裁量で延長戦を行う予定だった
さらには
・当初の北尾側代理人の某氏が山崎戦のギャラを持ち逃げして北尾が大損
というものまで…
ぶっちゃけ、私はウラ事情はこうだった!という話はあまり興味がありません。当事者が語るものであったとしても、例えば高田の談では宮戸優光氏の働きはなかったことにされてますし、どこまで真実か、見方によって変わります。
その意味では、もう一方の当事者である北尾光司氏のコメントを聞きたかった…のですが、今回の訃報でそれも叶わなくなりました。
●その後の北尾氏
その後の北尾氏は再び天龍に拾ってもらい、WARで活躍。相変わらずプロレスはショッパかったものの、かかと落としで天龍の鎖骨をブチ折るなど、その規格外の体格は脅威でした。
1995年5月にはアントニオ猪木とまさかのタッグを結成して天龍、長州組と対戦。私はこの福岡ドーム大会も生観戦しました。この大会は北朝鮮興行のわずか4日後だったのですね…。
北尾氏は相撲の世界では横綱にまでなりながら馴染めず、プロレスはひたすらショッパく…かといって初期PRIDEやUFCなど総合格闘技でも、目立った活躍はできず終いでした。“天賦の才能も、魂が宿らなければ…“
北尾光司氏のご冥福をお祈りします。
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