今回は、にわかラグビー ファンである私が、同様の皆さんに贈る「ラグビー日本代表の歴史」です。
2019自国開催ラグビーワールドカップでの、予選プール全勝、ベスト8進出という奇跡の快進撃で、日本中が空前のラグビーブームに沸いています。
皆さんも「ラグビーってちゃんと観たことなかったけど、クソ面白いじゃん!」と夢中になっているのではないでしょうか?私もその一人です。
でも、「ラグビー日本代表って今までどうだったの?」とか「ラグビーワールドカップって、いつから始まったんだっけ?」とか「“ブレイブ・ブロッサムズ“って誰が名付けたの?」とかとか、知らないことだらけですよね。
私も調べてみたのですが、なんか断片的だったり濃すぎたりで、全体像がイマイチ掴めませんでした。そんなワケで「ザックリ、これまでの歴史を時系列でまとめてみよう」と思った次第です。
調べてみると、いまのラグビー日本代表にはいまの快進撃に至るまで、途方もなく長くて険しい道のりがありました。
これを知ると決勝リーグが面白くなること請け合いです!
1987年の第1回から前回、2017年の第8回ラグビーワールドカップまでの日本代表の通算成績は4勝22敗2分。
うち3勝は前回大会で、それ以前は1991年のジンバブエ代表戦の1勝ちのみでほぼ全敗。世界のラグビー界では弱小国の立場に甘んじていました。
日本代表の初結成は1930年(初代監督は香山蕃氏)。今回は1970年代後半から振り返ります。
1970年代後半~80年代前半 空前の「ラグビーブーム」でも「世界に勝てない」時代
1970年代後半。Jリーグも箱根駅伝、そしてもちろんBリーグもない時代。
大学ラグビーはプロ野球、大相撲、バレーボール 、プロレスに並ぶか、ウィンターシーズンの瞬間風速ではそれらを超える、人気スポーツでした。
早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会などの大会はTV中継もあり、会場はどこも満員。
この時期のスター選手は明治大学から新日鐵釜石で活躍した元祖ミスターラグビー、松尾雄治さんです。
しかし日本代表は、といえばワールドクラスでは弱小チーム。
1975(昭和50)年のオーストラリア遠征-1980(昭和55)年まで、日本代表が勝利を収めたのはアジア選手権での韓国相手に3回のみ。それ以外では1引き分けを挟む19連敗中でした。
1981〜83(昭和56~58)年ごろまで、オーストラリア学生選抜戦で勝利したり、香港、カナダ代表の来日試合に勝利してテストマッチ5連勝したり、NZUから国内初勝利などがありましたが、韓国にたびたび敗れアジア王者から陥落することもあるなど、安定した成績は残せていません。
代表監督も短期間で交代を繰り返し、新任監督が見つからずに過去の監督が再任したりなど、場当たり的な人事だったことも批判を浴びました。
そもそもこの時期のラグビーには世界と戦う機会が限られ、その機会は海外遠征や、ラグビー強豪国を招いてのテストマッチしかありません(ちなみにラグビーにおける「テストマッチ」とは、練習試合でも親善試合でもなく、ナショナルチーム同士の真剣勝負を指します)。
日本ラグビーは強豪国 (IRB加盟8カ国)を破ることが悲願とされましたが、試合機会自体が少なかったのです。
1987年、第1回ワールドカップに出場
1985(昭和60)年、ニュージーランドとオーストラリア両協会から「ラグビーワールドカップ」が発案され、IRFBメンバーの8協会(オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、フランス、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)の投票により6対2で開催が決定しました(反対はスコットランドとアイルランド。「アマチュアリズムが脅かされる」という理由)。
FIFAワールドカップとオリンピックに被らないようにとの配慮から1987(昭和62)年に開催された第1回ラグビーワールドカップ。
主催(ホスト国)は発案者であるニュージーランド・オーストラリアによる共催。初回は予選がなく、日本は「招待」という形での参加です。
しかし、大会直前に代表監督の岡仁詩氏が「NZへの研修留学」を理由に辞任。急遽、宮地克実氏が指揮を執りました。
初戦のアメリカ戦は勝てる、と期待された中、PKを5回も外し18-21で敗戦。続くイングランド、オーストラリア戦にも敗れ、3戦全敗で予選敗退に終わります。
この時期、1986(昭和61)年のスコットランド戦からテストマッチ11連敗。日本ラグビーは「暗黒の時代」と呼ばれていました。
1988(昭和63)年のアジア選手権で韓国に2大会連続で敗退した責任を取り、日比野弘氏が監督を辞任。しかし、後任監督がなかなか決まりません。
1989年、伝説の「宿澤ジャパン」誕生~スコットランドに勝利
後任監督に選ばれたのは、早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人でありながら住友銀行に勤める会社員ということでラグビー界から遠ざかっていた「伝説のスクラム・ハーフ」宿澤広朗氏でした。
©文芸春秋
抜擢したのは当時の選手強化委員長だった白井善三郎氏。白井氏は勤務先の住友銀行にも根回しして、宿澤氏の代表監督就任をバックアップします。
そして1989(平成元)年、日本代表に1980(昭和55)年の山本巌氏以来、9年振りの新任監督が誕生しました。
宿澤監督就任初の采配試合は1989(平成元)年5月28日。秩父宮ラグビー場で行われたスコットランドXVとの一戦に28-24で勝利。宿願のIRB常任理事国を破る金星を上げました。
しかし、この時のスコットランド代表はメンバーの過半数がNZに遠征中でベストの布陣ではなく代表扱いではない「スコットランドXV」。そのためスコットランドでは「代表によるテストマッチでもない」として、この敗北はカウントされていないのだそうです。
しかし内容的にはスコットランドが主力メンバー不在に加えてキッカーが絶不調である弱点を突き、不利なモールを避けてラックでボールを支配、高温多湿な気候も有利に使うなど、堂々たる作戦勝ち。
神戸製鋼主将でスタンドオフとインサイドセンターの両方をこなす平尾誠二さんを主将に、ロックの林敏之さん、大八木淳史さんを加えた神戸製鋼トリオがゲームを引っ張り、トンガから来たナンバー8、シナリ ラトゥさんがいました。また、9番には堀越正巳さん(早大)、10番に青木忍さん(大東大)、11番には吉田義人さん(明大)の現役大学生選手の抜擢もズバリ的中し、宿澤監督はこの1試合の指揮で「日本のラグビーを変えた」と言われました。
1991年、ワールドカップ初勝利
1991(平成3)年、第2回ワールドカップ。イングランドを中心にフランス、ウェールズ、スコットランド、アイルランドにまたがって開催されました。
宿澤ジャパンに期待が高まりましたが、初戦で優勝候補の一角スコットランドと対戦し9-47で完敗。続く対アイルランド戦も16-32で敗北。この時点で日本の予選突破は消えたものの、最終戦の対ジンバブエ戦は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せ、52-8で勝利。
この対ジンバブエ戦が、日本代表の記念すべきラグビーワールドカップ初勝利です。
1995年、ブルームフォンテーンの悲劇
ワールドカップ終了後、宿澤監督が退任。後任には新日鐵釜石時代、監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修氏が就任します。日本代表は1994(平成6)年の「アジア選手権」決勝で韓国を破り、3大会連続のワールドカップ出場を果たします。
1995(平成7)年、第3回ワールドカップ。南アフリカ共和国で開催されました。
日本代表はウェールズに10-57、アイルランドに28-50といずれも完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定します。
そして3戦目、既に決勝トーナメント進出を決めているニュージーランド (オールブラックス)との1戦を迎えます。そして控え選手主体のメンバー相手に、前半12トライ、後半9トライを挙げ、日本は17-147の記録的惨敗。
国内外メディアから「ブルームフォンテーンの悲劇、惨殺」「国辱」と呼ばれたこの試合をもって、小藪氏は監督を退任します。
後任にはサントリーの部長だった山本巌氏が3度目の就任。しかし1996(平成8)年のパシフィック・リム選手権で2勝4敗の最下位に終わり、同年限りで退任しました。
1997年、平尾ジャパン
1997(平成9)年、平尾誠二氏が監督に就任。平尾氏は神戸製鋼時代に日本選手権で7連覇を達成、第2回でのW杯初勝利にも貢献した「ミスターラグビー」です。
就任後、素質はありながら所属チームが無名ゆえに埋もれている逸材や、ラグビー経験はなくとも他のスポーツで優秀な成績を収めている選手を取り込み育成する「平尾プロジェクト」を実施。しかし残念ながら際立った成果は残せませんでした。
1998(平成10)年、日本代表として史上初となる外国籍のアンドリュー・マコーミック選手を主将に指名。「第4回W杯 アジア予選壮行試合」アルゼンチン戦に44-29で勝利。シンガポールで行われた「W杯アジア予選」でも優勝し、4大会連続のラグビーワールドカップ出場を決めました。
1999(平成11)年、「IRBパシフィック・リム選手権」で、フィジー以外の5か国に勝ち、初優勝。しかしこの時の日本代表にはグレアム バショップ選手やジェイミー ジョセフ選手などオールブラックス出身者がいたことから「チェリーブラックス」と海外マスコミから揶揄されました。
1999(平成11)年、第4回ラグビーワールドカップ。ウェールズを中心に欧州5か国で開催されました。この頃からラグビーワールドカップ(RWC)はオリンピック、FIFAワールドカップと並ぶスポーツの祭典と認知され始めました。
期待の平尾ジャパンはまたも全敗、3試合でわずか2トライの結果に終わります。しかし協会はパシフィック・リム選手権での実績を評価して平尾体制を継続しました。
続く2000(平成12)年の「IRBパシフィック・リム選手権」は4戦全敗で最下位。その後のカナダ、アイルランド遠征でのテストマッチでも大敗を喫し、平尾氏は監督を辞任します。
2002年、宿澤氏が現場復帰、学閥一掃も浮上せず
この後、2002(平成14)年に宿澤広朗氏が強化委員長に就任、現場復帰を果たします。
宿澤氏は日本ラグビー界にはびこる「学閥」排除を決意し、監督として東芝府中の黄金時代を築いた東海大学出身の向井昭吾氏を監督に招聘。向井氏は得意とする「PからGO(ペナルティを与えられたら間髪入れず素早い攻撃を仕掛ける)」戦法での戦いを模索しますが、海外列強には逆にスクラムやラインアウトなどセットプレーの弱さを突かれ苦戦が続きました。
2003(平成15)年、第4回ワールドカップ。オーストラリアで開催されました。
日本代表は3大会連続の全敗で終わり、大会終了後、監督の向井氏、強化委員長の宿澤氏が辞任しました。
「ブレイブブロッサム」と呼ばれて
しかしこの時、向井昭吾監督、箕内拓郎キャプテンが率いた日本代表が見せた強豪スコットランドに対して粘り強く戦う姿に感銘を受けた現地オーストラリア地元紙が「ブレイブ・ブロッサムズ(BRAVE BLOSSOMS)=勇敢な桜戦士」という見出しで記事を掲載。それまでは「チェリーブロッサムズ」と呼ばれることが多く、これが今のニックネームの始まりとされています。
出典:http://jpn2017.rugby-japan.jp/autumntestmatch/about/467/
2004-2005年、監督更迭をめぐり内紛、迷走
2004(平成16)年、神戸製鋼のヘッドコーチだった萩本光威氏が監督に就任。
就任するや否や同年の「スーパーパワーズカップ」でロシアとカナダを破って優勝し好スタートを切りましたが、続く欧州遠征でイタリア戦、スコットランドに8-100、ルーマニアに10-25、ウェールズに0-98と大敗。遠征直後に解任論が噴出します。
しかし、萩本解任を唱えた向井昭吾氏、春口廣氏、清宮克幸氏が逆に監督評価機関である8強会議の委員を解任されるなど混乱。
結局、残留した萩本監督も翌2005(平成17)年の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗、カナダ、アイルランドにも敗れたことでついに辞任に追い込まれました。
これを契機に日本協会はゼネラルマネージャー (GM)&ヘッドコーチ (HC)体制に改め、2005(平成17)年、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治氏、HCには初の外国人指導者となるジャン=ピエール・エリサルド氏が就任しました。
新体制下の日本代表はいきなりテストマッチ4連勝を果たしますが、2006(平成18)年、「第1回IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」では4戦全敗で最下位に。同年10月にエリサルド氏が契約問題で解任され、GMの太田氏がHCも兼務することになるなどゴタゴタが続きます。
JKジャパン
2007(平成19)年、日本は「W杯アジア予選」で韓国、香港に快勝。6大会連続の本戦出場を決めました。
ここで太田GMはかつてのチームメイトであり第1回W杯優勝の立役者、ジョン・カーワン氏をヘッドコーチ (HC) に招聘します。
カーワン氏はラグビー界では誰もが知るスーパースター。第1回WRCイタリア戦での90メートル独走トライは伝説です。そして現役晩年にはNECでプレーしており日本のラグビーファンにも知名度がありました。
2007(平成19)年、第6回ワールドカップ。フランスを中心にウェールズ、スコットランドにまたがって開催されました。
日本代表は初戦のオーストラリアに3-91で大敗。
続くフィジー戦では死闘を展開するも31-35で惜敗。
さらにウェールズにも18-72で大敗。
この時点で6大会連続の予選プール敗退、1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗です。
迎えた最終のカナダ戦、日本はノーサイド直前まで5-12でリードされ4大会連続の全敗が確実視されましたが、ロスタイムに平浩二選手がトライを決め2点差まで迫り、大西将太郎選手がゴールキックを決め同点で引き分けに終わります。
この結果、日本は4大会ぶりに予選プール最下位を免れました。
大会終了後、日本協会は準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、引き続きカーワン体制を維持します。
2008(平成20)年、初開催の「アジア5カ国対抗」で優勝、2009(平成21)年も優勝し2連覇。2008,2009年の「IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」は2年連続でトンガにのみ勝利、1勝3敗に終わっています。
そして2009(平成21)年、国際ラグビー評議会 (IRB)の理事会で2019(令和元)年のラグビーワールドカップ日本開催が決定します。
2010(平成22)年、「アジア5カ国対抗」で3連覇を達成し、7大会連続となるW杯出場を決めました。続く「IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」ではサモアとトンガに勝利し、得失点差の末3位に終わりますがサモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げました。
2011(平成23)年、第7回ラグビーワールドカップ。ニュージーランドでの開催です。
日本は今回も目標に「2勝」を掲げますが、初戦のフランス戦では好勝負を展開し一時、4点差まで詰め寄ったものの21-47と完敗。ニュージーランド (オールブラックス)戦では主力を温存して臨み7-83と惨敗。続くトンガ戦ではミスを連発し18-31と完敗。最終カナダ戦も、前半リードしながらも23-23で2大会連続ドロー。
結局、2勝どころか5大会連続勝利なしという結果に終わり、同年10月、カーワン監督の退任が決まりました。
2012年、エディージャパン
2012(平成24)年、エディー・ジョーンズ氏が日本代表ヘッドコーチに就任。
メンバーはマイケル・リーチ選手以外は全て日本人選手。主将には、5年振りの代表復帰となった廣瀬俊朗選手が任命されました。
同年、「アジア5カ国対抗」で5連覇を達成。11月にはルーマニアを34-23で下し欧州で行われたテストマッチで初勝利。ジョージア戦でも勝利。この遠征から元フランス代表のマルク・ダルマゾ氏がスクラムコーチに就任しました。
2013(平成25)年の「アジア5カ国対抗」で6連覇を達成。さらにウェールズとの2連戦において五郎丸歩選手の活躍もあり23-8で初勝利。1989(平成元)年、宿澤ジャパン以来の旧IRBファウンデーション8か国チームからの勝利でしたが、正代表に対してはこれが史上初勝利となります。
2014(平成26)年、「アジア5カ国対抗」で7連覇を達成。8大会連続となるラグビーワールドカップ出場を決めました。
続く「IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」でカナダ、アメリカに連勝し、イタリアに6戦目にして初勝利を挙げ、テストマッチ10連勝を達成。世界ランキングが過去最高の10位となりました。
DFコーチに香港ヘッドコーチだったリー・ジョーンズ氏、FWコーチにイングランド代表主将だったスティーブ・ボーズウィック選手が就任。この年、ジョージアに敗れるまでテストマッチ11連勝、ランキングも最高9位まで浮上します。
2015(平成27)年、「アジア5カ国対抗」の改編により発足した「アジアラグビーチャンピオンシップ」で優勝。同年の「IRBパシフィック・ネイションズ・カップ」ではカナダに勝利するもアメリカ、フィジー、トンガに3連敗して4位。「世界選抜戦」も敗れましたがウルグアイには2試合とも勝利し、ジョージアにも勝利しました。
2015年、“ブライトンの奇跡”
そして迎えた2015(平成27)年、第8回ワールドカップ。イングランドでの開催です。
ここで日本代表は「スポーツ史上最大の番狂わせ」をやってのけます。
ラグビーワールドカップ2度優勝、当時世界ランク3位の南アフリカ代表 「スプリングボクス」に初対戦ながら34-32で勝利。
この日本代表24年ぶりのRWC勝利は世界中のメディアから「W杯史上最も衝撃的な結果」「スポーツ史上最大の番狂わせ(ジャイアントキリング)」と報じられ、センセーションを巻き起こしました。
続く中3日で迎えたスコットランド代表戦では10-45で敗戦。第3戦サモア代表に26-5で勝利、第4戦でもアメリカ代表に28-18で勝利し大会3勝目、通算4勝目を挙げますが、勝ち点差で3位となり初の決勝リーグ進出突破はならず、8大会連続 予選プール敗退。
W杯で3勝したチームが予選プール敗退となるのは史上初であり、海外メディアから「最強の敗者」と健闘を称えられ、五郎丸歩選手人気が爆発し、国内に久々のラグビーブームが起こります。
大会後、開幕前からの決定事項でW杯終了をもってジョーンズHCが退任 。
後任にスーパーラグビー・ハイランダーズのヘッドコーチ、ジェイミー・ジョセフ氏の就任が決定しますが、2016年シーズン終了までハイランダーズとの契約が残っており代表には合流できずU-20代表HCを勤める中竹竜二氏、サンウルブズヘッドコーチを務めるマーク・ハメット氏がHC代行として代表の指揮を執りました。
この年、「アジアラグビーチャンピオンシップ」も連覇しました。
2016年、ジェイミージャパン
2016(平成28)年、ジェイミー・ジョセフ氏が正式にヘッドコーチに就任。
就任会見ではジョーンズHCの手法を称えつつ、これからの日本の課題として「パワー」を挙げ、世界のラグビーの潮流に合わせたキックやパントを用いて陣地を確保しFWのアタック力とBKの俊敏な展開をもって突破していく「キッキングラグビー」を宣言。
この年のジョセフHCが率いたテストマッチ4戦は1勝3敗で終わりました(1勝はジョージア戦)。
ジョセフHCは、この2016(平成28)年からスーパーラグビーに参戦する「サンウルブズ」を中心に代表強化を進める傍ら、遠征に参加しない選手を自ら指導して若手を育成していく方針を進めました。
そして2019(平成31/令和元)年、W杯の前哨戦である「パシフィックネーションズカップ」でフィジー、トンガ、アメリカから勝利を収めて優勝し、いよいよ本戦を迎えます。
2019 日本開催ワールドカップでの快進撃
2019(令和元)年、第9回ワールドカップ。史上初となるアジア、日本開催です。
ここからの日本代表「ブレイブ・ブロッサムズ」のウルトラ快進撃は、皆さんご存知の通りです。
開幕ロシア戦で松島幸太郎選手が3トライのハットトリックを達成、合計4トライを挙げ30-10で快勝。
2戦目は世界ランキング2位の強豪アイルランド相手に先制を許したものの、後半に福岡堅樹選手のトライで逆転し、19-12で勝利。アイルランドとは通算10戦目での初勝利です。
3戦目はサモアと対戦し合計4トライを奪って38-19で勝利。これでA組3位以内が確定し、次回2023(令和5)年フランス大会の出場権を獲得しました。
そして予選プール最終戦となる4戦目は、強豪スコットランドと対戦。4トライを奪う猛攻を魅せ、28-21で勝利。
1989(平成元)年の宿澤ジャパン以来30年ぶり、そして今回は文句なしのW杯本戦での記念すべき勝利です。
2019(令和元)年、日本代表は予選プール1位通過で、史上初のラグビーワールドカップ決勝トーナメント進出&ベスト8入りの快挙を成し遂げました。
日本代表誕生から約90年、ラグビーワールドカップ参戦から約30年という、途方もない長い年月をかけ、幾度も低迷し、迷走もありながら歩み続けてきました。
その中でたとえ勝つことはできなくともRWC2003のスコットランド戦、RWC2007でフィジー代表との死闘、RWC2011でフランス代表と好勝負、そしてRWC2015の南アフリカ代表を破るジャイアントキリング。
日本代表が感動的な戦いを披露するたびに自然に海外メディアから“BRAVE BLOSSOMS”と呼ばれるようになり、いまや世界の超強豪国であるアイルランド、スコットランド、トンガ相手に「超攻撃的ラグビー」を展開して「普通に勝つ」までに進化して、世界中から賞賛を浴びています。
勇敢な桜戦士、ブレイブ・ブロッサムズことラグビー日本代表の、これからに期待しましょう!
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