「エースのジョー」こと俳優の宍戸錠さんが2020年1月21日にお亡くなりになりました。
享年86歳。
今回は追悼企画として、宍戸錠さんが石原裕次郎さん、小林旭さんと初共演した映画「錆びたナイフ」をご紹介します。
錆びたナイフ(1958/昭和33年 日活)
原作:石原慎太郎
監督:舛田利雄
出演:石原裕次郎/北原三枝/小林旭/杉浦直樹/白木真理/安井昌二/宍戸錠
その後の”日活黄金期”を予感させる、記念碑的作品であり、”石原裕次郎初期アクション映画の傑作”と呼ばれる作品です。
●石原慎太郎・裕次郎兄弟
石原慎太郎さんは一橋大学在学中、「太陽の季節」で第1回(1955/昭和30年度)文學界新人賞、第34回(1955/昭和30年下半期)芥川賞を受賞。若さ漲る情熱と生々しい風俗描写、反倫理的内容が賛否両論を巻き起こします。
1956(昭和31)年、日活で映画化。主演は長門裕之さん、南田洋子さん。2人の結婚のきっかけとなった作品です。原作者、石原慎太郎さんの弟、石原裕次郎さんは脇役で出演し、これがデビュー作です(石原慎太郎さんも出演)。大ヒットと共に「太陽族」が流行語になり(夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者を表す言葉)、”慎太郎刈り”の髪形、アロハシャツニサングラスのファッションも大流行し、社会現象になりました。
次作「狂った果実」は、原作小説を書き始める段階から映画化の要望があり、慎太郎さんは「弟、裕次郎の主演」を条件に承諾しました。そして1956(昭和31)年、石原裕次郎初主演作「狂った果実」が大ヒット。俳優・石原裕次郎さんは瞬く間に、スターダムを駆け上がりました。
●昭和33年
映画「錆びたナイフ」も、兄 石原慎太郎さんが石原裕次郎主演を念頭に、脚本を手掛けた作品です。
公開の年(1958/昭和33年)の映画人口は11億3千万人、日本史上最高を記録しています。
終戦から13年が経った当時の日本の総人口は9千万人ですので、全国民が毎月1回以上、映画館に通った計算です。
ちなみにプロ野球では長嶋茂雄さんがデビュー、金田正一さんに4打席連続三振を食らい、
日本シリーズでは西鉄ライオンズが3連敗から4連勝して巨人を破り、「神様・仏様・稲尾様」の年でもあります。
石原裕次郎さんはなんとこの年、本作を含め9本の映画に出演し、人気が爆発。劇中で裕次郎さんが使う「イカす」が流行語になり、主題歌「錆びたナイフ」(作詞:萩原四朗/作曲:上原賢六/唄:石原裕次郎)も184万枚を売り上げる大ヒットとなりました。
●石原裕次郎、小林旭、宍戸錠の関係性
本作は前述の通り、石原裕次郎・小林旭・宍戸錠の3人が初共演した点がポイントです。
とはいっても圧倒的な主役が石原裕次郎さん(23歳)。
小林旭さん(20歳)と宍戸錠さん(24歳)はまだブレイク前で、脇役扱いです。
この中では宍戸錠さんが一番の先輩で、第1期日活ニューフェイス(1954)。年齢も上で石原慎太郎さん(25歳)と裕次郎さんの中間で、1955(昭和30年に「警察日記」で銀幕デビュー。
その次が小林旭さんで、年齢は最年少ですが第3期日活ニューフェイス。1956(昭和31)年、映画「飢える魂」で銀幕デビュー。
石原裕次郎さんは最も遅く、1956(昭和31)年デビュー。しかし映画プロデューサー水の江瀧子さんと直木賞作家の兄、慎太郎さんの推薦付きということで、”最初から別格のスター”だったのです。
●「錆びたナイフ」ストーリー
ストーリーにもこのパワーバランスが表れていて、やくざに真っ先にあっけなく殺されるのが宍戸錠さん。その後、”弟分”の小林旭さんも殺されます(しかも裕次郎さんの腕の中でという屈辱)。そして残る裕次郎さんが仲間の仇を討つという、アクションありカーチェイスありのミステリー仕立てのギャング映画です。ヒロインは既に既定路線になっていた北原三枝さん、後のまき子夫人です。
●その後の3人
この後、石原裕次郎さんは「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」などアクション路線と「陽のあたる坂道」「あじさいの歌」「青年の樹」などの文芸路線の2本のレールで、スター街道を驀進していきます。
小林旭さんはこの年、文芸路線の名作「絶唱」で後に黄金コンビとなる浅丘ルリ子さんと共演。翌1959(昭和34)年、後の渡り鳥シリーズへと続く原点「南国土佐を後にして」が大ヒット。続く「銀座旋風児」でアクションスターとしての人気が爆発し、「渡り鳥」「流れ者」「銀座旋風児」の3シリーズで主演を貼り、一時は石原裕次郎さんをしのぐ人気を獲得します。
宍戸錠さんは1956(昭和31)年にトレードマークとなる豊頬手術を受け悪役に転向。小林旭さんの「渡り鳥」「銀座旋風児」シリーズ、赤木圭一郎さん主演シリーズ「拳銃無頼帖」で敵役やライバルを好演していきます。
●日活ダイヤモンドライン
日活は”タフガイ”石原裕次郎さん”マイトガイ”小林旭さんの2枚看板に”トニー”赤木圭一郎さん、「裕次郎二世」として売り出した”ヒデ坊”和田浩治さんを加えた4大スターを”日活ダイヤモンドライン”と命名。以降、彼らの主演作を毎月ローテーション的に制作する「ピストン作戦」を推進します。1960(昭和35)年12月には”エースのジョー”宍戸錠さんの参加が決定し、”日活アクション黄金期”を迎えます。
しかし1961(昭和36)年1月に石原裕次郎さんがスキーで骨折、2月には赤木圭一郎さんが撮影所の休憩中にゴーカート事故で急逝(享年21歳)。この穴を埋めるべく3月に宍戸錠さんが「ろくでなし稼業」で本格主演を果たし、続いて5月に”ダンプガイ”二谷英明さんが参加し、”第2次ダイヤモンドライン”として支えていきました。
小林旭さんについてはまた項を改めて、詳しくお送りします!
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