昭和を代表する大スター”マイトガイ”小林旭さんシリーズ③ 歌手としての魅力について、ご紹介します。
小林旭さんの唄、といえば「熱き心に」。「昭和の名曲」的な番組で、必ず取り上げられる名曲です。あとは少し知ってる人でも「自動車ショー歌」「昔の名前で出ています」くらいの認知度ですかね(意外と「赤いトラクター」も認知度高いですね 笑)。
だが、しかし。
「熱き心に」を作曲した、大の“小林旭フリーク”を自認していた故 大瀧詠一さんは、そんな世間の評価、認識の低さがどうにも許せなかったらしく(笑)、アキラ音楽のバリエーションの豊かさと奥の深さ、魅力を伝えるべく、「アキラ1〜4」という4作のCDを、自身で企画/構成/選曲/リマスタリングまで行って、リリースしています(2002 平成14年、CDリストは巻末参照)。
さらには、小林信彦さんと共同で責任編集「小林旭読本 歌う大スターの伝説」(キネマ旬報社, 2002 平成14年)まで同時出版する熱の入れようでした。
大瀧詠一さん曰く「小林旭は戦後日本歌謡界の壮大なる実験場だった」!
●45周年コンサート観戦
私は2004年10月15日、東京国際フォーラムで行われた「小林旭 芸能生活45周年コンサート」に行きました。
この時、御歳66歳にも関わらず、全盛期と変わらぬハイトーンの原曲キーで、歌詞も見ることなく、さらには合間のトーク(もはやセルフ司会)を含めて約2時間、24曲を歌い上げたパワーには圧倒されました。
客席はシルバー世代&お水の方で締められ、公演中は着席で落ち着いたムードなのも新鮮でしたが、オープニングでかつての「日活」ロゴが上映されると悲鳴のような歓声と共に満場の拍手が巻き起こり、ある特定の年代の方々にとってのアキラが「特別な存在」なのがよくわかりました。
●歌手小林旭の誕生
俳優 小林旭さんが唄うことになった経緯は諸説ありますが、「劇中、鼻歌を歌うシーンに目をつけた当時の最大手レコード会社 コロムビアのスタッフが、この時点ではまだ若手だった後の大御所作曲家の船村徹氏、ディレクターの馬渕玄三氏を起用して売り出した」という事のようです。
レッスンした船村氏はアキラの素っ頓狂な大ボリュームの高音の歌声を聴いて「こりゃエントツだ」と漏らしたと言われます。その後、レコードがリリースされ大ヒットするとその独特のハイトーンは「親不孝声」とも呼ばれました。
●日本の唄=演歌 じゃない
大滝詠一さん監修のアキラCDシリーズを聴いて、1970年生まれの私の年代でも「1960年代の日本人がどんな音楽を聴き、唄っていたのか」、ほとんど知らないことに気がつきました。1970年代以降は、カラーのテレビ映像が残っており、「歌謡曲」と呼ばれるヒット曲も、ほとんど知っています。しかし、60年代、それも前半になると、モノクロのテレビ映像も現存しているものが少なく、娯楽の中心は「映画館」。なので、余計に謎なのです。
私はなんとなく、その辺の世代の人が好きなのは演歌、昔の日本の唄=演歌、だと思い込んでいました。演歌くらいしか思いつかないからです。が、このアキラワールドに触れて、「演歌は日本の心」というのは誤った(あるいは後に半ば故意に作られた)認識である、と感じました。
かつて、明治から昭和30年代、1960年代くらいまでの日本人の唄は「民謡」であり「都々逸」であり、そちらの方がよほど土着で、人々の生活に寄り添っていたのではないでしょうか。(いまでいう「演歌」は1960年代半ば以降に、歌謡曲から派生して生まれたジャンルに過ぎません)
話が逸れましたが、このCDで「アキラ節」と呼ばれる小林旭さんの唄を改めて聴くと、民謡や俗謡から都々逸にお座敷小唄、軍歌、童謡にいたるまでの「日本人の唄」に、フレンチ、ラテン、ウェスタン、さらにはロカビリーからロックンロールなどの海外ポップスまで、ジャンルもへったくれもなく、ごちゃ混ぜにハイブリッドで構成されていて衝撃的でした。
それこそ石原裕次郎のようなムード歌謡あり、美空ひばりのようなスケールの大きな哀愁漂う名曲あり、そして後に大ブレイクするクレイジーキャッツ植木等や、その後継のドリフターズが得意としたノベルティ(コミック)ソングの源流までもが、なんと小林旭さんなのです。
そしてそれらノンジャンルの楽曲を強引に束ねているのはただ一つ、素っ頓狂な高音の“エントツ ボイス”であり、“当代切っての人気者 小林旭”だけが持つ底知れないパワーのなせるワザ、だったのでしょう。
そりゃあ大瀧詠一さんが「小林旭を再評価すべし」と乗り出すのも無理ありません。
●「アキラはとにかく唄が好き?」なエピソード
映画「仁義なき戦い」シリーズ撮影秘話
共演した山城新伍さんは「撮影が終わると深夜でも深作欣二監督が率先して飲みに行く。東映京都で皆が集まるバーがあり、そこで旭さんが歌いだすと、僕や宍戸錠、菅原文太さんらは「旭はまだ当分歌ってるから他所へ行こう」と行ってしまう。しばらくして店に戻ると彼はまだ歌ってた(笑)。持ち歌がなくなって童謡メドレーになってた(笑)」と語っています。
スカパラメンバーが語る伝説エピソード
ライブで共演して楽曲もリリースした、東京スカパラダイスオーケストラ 谷中敦さんの語るアキラ エピソード
「リハーサル中で汗をかいた旭さんが付け人にTシャツを買いに行かせて、4万円渡した。多すぎだろ、と思ったらお釣りは2千円、アルマーニのシルクのTシャツだった。しかも旭さんはそれまで着ていたTシャツをゴミ箱に捨てた。」
「バンドメンバーの名前を1人も覚えてくれないのに、飲みに行ってずっと自分が喋りながら「ギターがいねぇな」とか「ペットがいねぇぞ」とか、一人一人トイレに行くたびに言う。名前は覚えてなくても、誰がその場で何してるのかを全部把握していて驚いた」
谷中氏は「傍若無人な発言と行動の裏に必ず男の格好良さと繊細さが見え隠れする魅力」とも語っています。
●オススメ必聴ソング
名曲が多過ぎて全部は紹介しきれませんが、特におススメの必聴ソングをご紹介します。
デビュー曲は「女を忘れろ」(1958 昭和33年)翌年 舛田利雄監督で映画化されました。
●2作目「日本初のオリジナル ロックンロール」とも言われる「ダイナマイトが百五十屯」(1958 昭和33年)
この楽曲は大瀧詠一氏曰く「植木等のスーダラ節と同格、明治近代から現代までの最高の楽曲。明治演歌、ジャズ、民謡、ロックの全ての要素がある」。後に甲斐バンドやマーシー真島正利など、多くのミュージシャンにカバーされました。
●初の大ヒット主演シリーズの主題歌「ギターを持った渡り鳥」(昭和34年10月)は狛林正一氏作曲の和製ウェスタンソング。
私もかつてアコギでカバーしたのですが、数あるYouTubeにアップした楽曲中でずっとダントツの再生回数5.3万回を誇り、謎です(笑)。長調なのにマイナーに聴こえる独特のメロディラインが素敵です。
これ以降は石原裕次郎的なムード歌謡ソングが続きますが、その後、大正時代からの土着の民謡や軍隊で唄われた俗謡を取り入れ、ジャズやラテンの要素をハイブリッドしたコミカルな「アキラの〇〇節」シリーズが大ヒットを連発します。
●ダンチョネ節(1960 昭和35年)
●ズンドコ節(1960 昭和35年)
●ツーレロ節(1960 昭和35年)
後のクレイジーキャッツ 植木等やドリフターズに引き継がれる「ノベルティソング(コミックソング)」としては
●恋の山手線(1964 昭和39年)
●自動車ショー歌(1964 昭和39年)
が有名です。
軍隊などで唄われていた俗謡をモチーフにした大陸歌謡路線では
●さすらい(1960 昭和35年) 男の孤独と彷徨を唄った初期の名曲
●北帰行(1961 昭和36年) 天下の美空ひばりに「歌唱指導した」という伝説の楽曲
これ以降は、事業失敗で背負った巨額の借金返済をたった一曲で成し遂げた大ヒット曲
●昔の名前で出ています(1975 昭和50年)
小林旭さんは「この楽曲で全国のキャバレーをドサ周りして、愛車フェラーリにジュラルミンのアタッシュケースを積んで数百万、時には1千万近い“取っ払い”の売上の現ナマを積んで、借金返済に明け暮れた」と語っています。
そして、ヤンマートラクターCMソングでやたらと認知度が高い
●赤いトラクター(1979 昭和53年)
最後は、大瀧詠一さんが書き下ろし、阿久悠さんが作詞した
●熱き心に(1985 昭和60年)
大瀧詠一さんのアキラへの想いが詰まった、名曲中の名曲です。ほぼ少し低めのキーで進行し、大ラスで転調。“エントツ”ボイスのハイトーンで締めくくるあたりが、アキラフリークの大滝詠一さんらしい見事な仕上がり。
阿久悠さんの手による「プラトニックな渡り鳥」な歌詞も合わさり、名曲中の名曲です。
●スカパラとの共演ライブ盤
「アキラ節」小林旭 with 東京スカパラダイスオーケストラ
「小林旭芸能生活40周年記念」として新曲「アキラのジーンときちゃうぜ」とアキラ節7曲をモダンなスカパラ アレンジでメドレーライブ録音した名盤。オープニングは仁義なき戦いでした。(1996年リリース)
▲貴重なTVでの共演
●大瀧詠一企画/構成/選曲/リマスタリング 小林旭CDシリーズ
「アキラ1」民謡 俗謡編
ダンチョネ節
ズンドコ節
アキラのホイホイ節
アキラのツーレロ節
ノーチヨサン節
アキラの炭坑節
アキラのデカンショ
アキラのおいとこ節
鹿児島おはら節
アキラのソーラン節
アキラのノーエ節
アキラのラバさん
アキラのストトン節
アキラのまっくろけ節
一筆啓上参らせ候
地底の歌
囚人部隊の歌
恋の山手線
「アキラ2」洋楽系カバー/オリジナル/童謡編
アキラでボサ・ノバ
アキラのブンガワンソロ
東京ツイスト
アキラでツイスト
ペパーミント・ツイスト
キエンセラ・ツイスト
一杯のコーヒーから
恋のチュンガ
黄金虫 (旭の黄金虫)
どんぐりころころ
ちんから峠
めんこい子馬
見てござる
証城寺の狸囃子
月の沙漠
さいはての慕情
落日のシャイアン
ジャニー・ギター
黒い傷痕のブルース
恋の花に気をつけな
ダヒル・サヨ
「アキラ3」主題歌&ヒット曲編
ダイナマイトが百五十屯
真夜中の街角
女を忘れろ
俺に逆らうな
十字路
やくざの詩 (うた)
銀座旋風児 (ギンザマイトガイ)
ギターを持った渡り鳥
さすらい
北帰行
惜別の唄
夕やけは赤い幌馬車
流浪の唄
俺もゆくから君もゆけ
俺は地獄の部隊長
「アキラ4」ユーモアソング編
自動車ショー歌
恋の世界旅行
ほらふきマドロス
グングン節
たすけられたりたすけたり
名酒節
雑俳ソング
野球小唄
スピード違反
恋の山手線
ゴルフ・ショー歌
ショーがないね節
宇宙旅行の渡り鳥
ウインチェスター73
赤いトラクター
つづきます!
<マイトガイ「小林旭」伝説>
コメント
拝啓 サイトヘッド様にはお暑い中、よろしくお願いいたします。
このスレッドの中でサイトヘッド様は非常に重要重大な、大変な事を言葉少なく言われているのですが、全く事実同感であり感謝に堪えません。この事をお話しする以前にこのスレッドの「主役 小林旭」ですが、、、、誰も言わないのですがこの人の歌は「一見一聴上手そうに見えて聴こえて、実は決してそうでも無い=不思議な声と雰囲気を持つ人」なのですね。
結論は「高音部に行く程に音程が#シャープしてしまう=約半音程度も上ずってしまう」のです。こういう類の人に実は「杉良太郎」がいます。やはり雰囲気最優先の確かに歌はそれなりに上手いのですが、残念ながら高音部移行で音程がかなり#シャープしてしまう。
お二人に共通して「音がぽーんっと上にすっ飛ぶ様な箇所で必ず起こる」ので、此処を改善すればパーフェクトなのに残念です。中には「bフラットしてしまう=音程が下がってしまう人もいますが大抵は、勢いに任せてシャープ=オーバードライブしてしまう傾向があります。
こういう人の歌を聴く場合、どうも自分は失礼だが気持ちが悪い、、、、杉良は情報ですと一時期「市川昭介氏に弟子入り」していた形跡があり、あの偉い師匠に直されなかったのか? 不思議なのですが。まぁファンからすればそういう欠点弱点も個性と言うか許される範囲なのかもしれませんが、まぁ自分にとっては ですので。
*「サイトヘッド様の演歌論はまさに正解 よくぞ言って下さった」
もう38年くらい以前、「NMC製作の魔神バンダーの件であちこち問い合わせていた最中、紹介されて旧クラウンレコードのディレクター=馬淵何某-通称演歌の竜」とお話ししたことがあります。瞬間「嗚呼 この男が有名な演歌の竜か?」と思いましたが、残念ながら演歌の話には行かずに極事務的な内容でクローズしましたが、自分は今でも「今日の日本の演歌は、大変申し訳ないが 乞食節」と確信しています。サイトヘッド様は実に良く勉強されていて驚きますが、「日本の演歌とは=本来は虐げられた底辺連中の抵抗歌」でした。一時期恐ろしいまでの大間違いのこんこんちき=「演歌の発祥は朝鮮」等とのまぁ判官びいきも贔屓の引き倒しも、何を勘違いとち狂ったのか、、、、当然ながら朝鮮の音楽連中により否定されたがこんな事は「理の当然 ド素人が聴いても全く違う」と断言できます。戦前戦中何が在ったか無かったか知れねぇが、此処まで卑屈に日本民族を貶める愚行は、世が世なら死罪に値する。
この演歌の発祥は、江戸時代徳川幕府に反発する天皇中心の朝廷回帰を願ずる者たちの思いと、大正時代の大正デモクラシー参加の底辺の国民、そして古くから存在する日本の民謡などが「上手くブレンドされて自然発生的に出てきた抵抗歌が演歌のオリジナル」です。
此処が、どういう理由か? どうも戦後「古賀政男あたりが朝鮮の歌と混在させた様な形の、いわば歪な形での演歌に奇形させてしまった」と考えられます。実はかなり以前あの「船村徹」でさえも「今の演歌は酒と涙にこだわりすぎ」と。サイトヘッド様はどうお考えか? ぜひぜひお聞かせ頂きたいのですが、例えばヨーロッパでは酒の歌と言えば「ドイツオクトーバーフェクト等で陽気に歌われる乾杯の歌=盃を持てさあ卓を叩け」とか「椿姫の乾杯の歌」等など、明るく楽しく陽気な歌ばかりですが、、、、何故日本の酒の歌はこれほど暗く寂しく陰険で泣いてしみったれているのか? 酒や酒屋に言わせれば「酒に責任は無ぇっ」と。
こんな酒の飲み方しているから肝臓も根性も何も悪くなるのではないでしょうか?
更に言えば、、、悲しく不幸な歌ってぇ「簡単に幾らでも出来るし作れる」のです。あえて自分は「創るとは書かず作る」と書きますが、実は「以前流行ったポップス演歌でも、幸せな女の歌ってぇ物凄くあまりに少ない」のです。せいぜい「瀬戸の花嫁 春のおとずれ」位でしょうか。そんなに日本の女は不幸なのか? そんなに日本の女の不幸を願うのか? これはもう責任者を引きずり出して、ツンツン小突き回す必要を感じます。 これは全てのエンターテインメントの世界でも共通しているが「本当に幸せで明るく楽しい話 ストーリーを創るのは本当に難しい」と言われます。どうも日本の乞食演歌はこのニッチと弱点を利用して、小銭稼いでいるのではないでしょうか? 本当に情けなくこれでは乞食演歌は衰退の一途でしょう。
戦時中、絶対に演歌を作曲しなかった服部良一先生 絶対に演歌を歌わなかった淡谷のりこ、
立派な態度だと感服いたします。我々はもう一度「演歌の原点に立ち戻り、本来の意味での演歌」を何とかしたいと、どちら様かぜひよろしくお願い申し上げます。
なお今回、多少言葉が過ぎた点のみ、お詫び申し上げます。 敬具