1984(昭和59)年にデビューした、3人組アイドルグループ「少女隊」。
巨額のプロモーションで売り出されるもなかなかブレイクせず、CMの放送延期、メンバーの途中交代など、なにかと”悲運のアイドルグループ”のイメージが強い彼女たちですが・・・
アジア各国では高い人気を誇り、楽曲のクオリティも高く、不思議な魅力のあるアイドルグループでした。
1983年 結成
少女隊は、オーディションで選ばれたミホ(藍田美豊)、レイコ(安原麗子)、チーコ(市川三恵子)の3人で結成。
3人とも1969(昭和44)年生まれで、当時14歳でした。
1984年 デビュー
1st.シングル「FOREVER〜ギンガムチェックstory〜」
(作詞:亜伊林 作曲:都倉俊一
編曲:John D’andrea、David Wheatly)
▲こちらはExtended Version
アルバム/ビデオ「少女隊Phoon」
12インチシングル「ESCAPE」
写真集「ESCAPE 少女隊USA漂流記1984」
を立て続けにリリースし、華々しくデビューしました。
キャッチコピーは「胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ」。かの有名なキャッチコピー「一心同体、少女隊」はCMで使われたものでした。
所属事務所は松崎しげる、岡田奈々、大場久美子、杏里、松本伊代などで知られるボンド企画(後に本田美奈子、新田恵利、福永恵規、高岡早紀らも所属)。
デビュー当時、「プロモーション総額30億円(一説では40億円とも)」とウワサされ、アルバムプロデューサーは山口百恵、ピンクレディを手がけた都倉俊一さん、ロスアンジェルスレコーディングにはアメリカの一流ミュージシャンが参加、ビデオと写真集はオールアメリカロケという、豪華さでした。
デビューシングル「Forever」は、いま聞いてもまったく色褪せない名曲です。作詞の亜伊林 (あいりん)は、三浦徳子(みうらよしこ)さんの変名。
いま聴くと、レコーディングの音がめちゃくちゃよくスケール感もあって、ホントにいい曲なのですが・・・しかしながら・・・いささか本格的過ぎて、オリコンは32位止まり。当時の「新人アイドルのデビュー曲」としては、地味だったように思います。
さらに、デビュー2年目の1985年には初主演映画「クララ白書・少女隊PHOON」(同時上映は吉川晃司主演「ユー・ガッタ・チャンス」)まで公開される力の入れよう。
2nd.シングル「お元気ですか?マイフレンド」
(作詞:小原丈二 作曲・編曲:都倉俊一)
セカンドシングルは、映画の主題歌。レイコのウィスパーボイスは、原田知世、菊池桃子と双璧をなすほど魅力的です。
が、コレまたアイドルのシングルとしては2曲目にバラードは冒険し過ぎですし、今回もオリコンは32位止まり。やっぱり地味だった気がします・・・。
さらに「従来のアイドル路線とは一線を画す」という事務所方針でほとんどTV歌番組に出演しないことが仇となり、ブレイクしないまま・・・
この真相は、メンバーがまだ15歳だったため、労働基準法の兼ね合いで当時生放送が全盛のザ・ベストテン、夜のヒットスタジオなどの超人気歌番組に出演できなかった、という事情だったのではないか?と思います。
そして、デビュー前に放映予定だった江崎グリコ「マリンバ」のCMがグリコ・森永事件の影響で延期に。
さらにチーコが腰を痛め休養、レイコがドラマ撮影中に負傷してTV出演がキャンセルになるなど、不運に見舞われ続けました。
1985年
ここからプロモーション路線を転換し、秋元康氏が作詞で参加。
3rd.シングル「素直になってダーリン」
(作詞:秋元康 作曲:中崎英也 編曲:佐藤準)
がオリコン最高14位のヒット。
「ザ・トップテン」(NTV)「ひょうきんベストテン」(フジテレビ)に初出演。徐々に露出が増えました。
この楽曲は3人のハーモニーが素晴らしい。こんなにハモれるアイドルは、当時は珍しかったと思います。
4thシングル「渚のダンスパーティー」
(作詞:亜伊林/作曲:中崎英也/編曲:佐藤準)
前作の好評で同じく夏路線のアイドルソング。さらにアレンジが派手になり、売れ線です。オリコン最高14位を記録。
5thシングル「Bye-Byeガール」
(作詞:秋元康 作曲:中崎英也 編曲:佐藤準)
5枚目のシングルは、どことなくオールディーズの香りのする名曲。オリコン13位を記録しました。
私が好きな少女隊の楽曲は、正直、ここまでです・・・。
TBSドラマ「夏・体験物語」の挿入曲に。このルートで、念願のザ・ベストテン(TBS)にも出演し、徐々に人気が上昇しました。
しかし、ここで少女隊に最大の危機が訪れます。
それが1985年8月の、チーコの椎間板ヘルニアによる脱退。
9月から新メンバーにトモ(引田智子)が加入します。トモは”昭和の脱出王”初代 引田天功の娘、として話題を呼びました。
6thシングル「ハレーロマンス」
(作詞:秋元康 作曲・編曲:中崎英也)
いかにも80年代の大げさなアレンジ。当時の流行りの音、ではありますが、オリコン最高13位と、大ヒットとはなりませんでした。
7thシングル「もっとチャールストン
(作詞:秋元康 作曲:前田保 編曲:小林信吾、泰葉)
7枚目はタイトル通り、チャールストンを取り入れた楽曲。
正統派の良い曲ですが、オリコン最高16位でやっぱり地味過ぎます・・・さらには小朝師匠の元嫁、あの泰葉がアレンジャーとして参加してるのが気になります。
1986年
この年、少女隊はレコード会社を日本フォノグラムからポリドール(現:ユニバーサル ミュージック ジャパン)へ移籍。
国立代々木競技場第一体育館と大阪城ホールを含む、「olive tour」を開催。
写真集「少女隊の逆襲」をリリース。
印象的なCM
初期は「TVに出ない」(なぜか「ひょうきんベストテン」には出る)少女隊ですが、CMは印象的なものが多かったです。
中でも、「素直になってダーリン」が使用されたカゴメ炭酸飲料[úfufu] (ウフフ)のCMはよく覚えています。
早すぎた海外戦略
少女隊は、当時としては異例のアジア向けマーケティングをデビュー初期から展開。
後期には日本よりもアジア各国での人気が高いという状態に。
1985年には香港映画「HOW ARE YOU MY FRIEND/少女隊・青春節拍」にも出演、1986年と1987年には東南アジアツアーを成功させるなど、香港、タイ、シンガポール、マレーシアなど、アジア各国で人気を誇りました。
1988年にはソウルオリンピック イメージソング「Korea」を歌い、韓国でも大ブレイク。同年8月、日本語曲が禁止されていた韓国で「戦後初めて放送で日本語で歌った歌手」になりました。
しかし、ネットもSNSもない時代、この成果は肝心の国内ではあまり話題にならず・・・
まさに「早過ぎた世界戦略」としか言いようがありません。
その後の少女隊
少女隊はその後も活動を続けますが、1989年に解散。そして、所属事務所のボンド企画が1992年に倒産。
その際、「少女隊のプロモーション費用に金をかけすぎたせい」という都市伝説が生まれました。
その後、3人は女優や声優などで活動。レイコは女優として、ミホも写真集でオールヌードを披露するなど、話題を呼びました。
1999年にはレイコ、チーコ、トモの3人で「1999少女隊」として再結成(ミホは妊娠中で不参加)。
2016年にはシングルコレクション「Forever 1984-1999」がリリースされました。
いかがでしょうか。今回は妙に記憶に残る昭和のアイドルグループ「少女隊」について、振り返ってみました。
少女隊の初期シングルは楽曲、アレンジ、コーラスワークなどユニークな良曲が多く、クオリティも高いです。
そしてクールビューティのミホ、タヌキ顔のレイコ、ボーイッシュなチーコと生意気な妹属性のトモと、キャラクターも個性的。
それだけに同期デビューのセイントフォーと共に「もっと売れてもよかったのに・・・」と、長く記憶に残るグループでした。
コメント
いましたねえ、少女隊!
セイントフォーもそうですが芸能界もプロレス同様スター作りは難しい…
ネットもない時代にテレビで露出しないってそりゃ明らかに事務所がバカでしたね(笑) それが通じるのは松山千春とかよほどいい曲、歌が上手い人でないと…露出してナンボのアイドルには自殺行為です。
何十億のプロモーション費用って何処にかけたんだろ???
コメントありがとうございます!
ホントにそうですね>セイントフォーもそうですが芸能界もプロレス同様スター作りは難しい…