「1.4事変」橋本真也vs小川直也 〜1999 東京ドーム ①対戦までの経緯

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プロレス
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毎年1月4日は「イッテンヨン」。新日本プロレスの東京ドーム興行が行われる日です。

今回取り上げるのは

1999年1月4日 東京ドーム 橋本真也vs小川直也

この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1.4事変」として、長く記憶に残る事件となりました。

いまだに検証本、謎解き本が多く出版されるこの”事件”。
いったいこの試合は何だったのか。舞台裏では何が起きていたのか。

 

もはや語りつくされた感のあるこの事件ですが、書かない訳にもいかないな、ということで…後年明らかになった事実を基に、つとめて冷静に、時系列で検証したいと思います。

 


 

「1・4事変」までの流れ

 

まずはこの試合が組まれるまでの流れです。
正しく理解するには、この一戦の4年前まで遡る必要があります。

 

●1995.7 馳浩が政界進出

 

●1997.1 馳浩が新日プロを離脱、ライバル団体の全日プロへ移籍
↑一見すると小川vs橋本に関係ない出来事ですが、実は関係あるのです(後述)。

 

●1997.4.12東京ドーム
元柔道オリンピック メダリスト 小川直也のプロレスデビュー戦、橋本真也に裸締めで勝利。
↑当初のメインは橋本vsケン・シャムロックでしたが、WWF出場のためドタキャン。急遽、小川のデビュー戦が組まれました。当初は長州力とのタッグでデビューする予定の小川でしたが、いきなりドームのメイン、当時のIWGP王者橋本とのシングルマッチという大抜擢(この試合にはベルトは賭けられず)。小川は柔道着のまま試合に臨み「異種格闘技戦」として行われました。小川は橋本の打撃に苦しみますがDDTを大外刈り(STO=スペース トルネード オガワ:猪木命名)で切り返し、そのまま裸締めで9分32秒で勝利。

 

●1997.5.3大阪ドーム
小川vs橋本再戦、橋本が顔面蹴りで激勝。
↑ドーム敗北を受け、今回はIWGPタイトルマッチ。入場テーマ曲を『闘魂伝承』から『爆勝宣言』に戻し(猪木との決別を示唆)試合に臨んだ橋本の顔面蹴りで、小川が失神KO負け(セコンドの佐山がタオル投入)。これで小川と橋本の対戦成績は1勝1敗、デビュー戦の勝ち星を橋本に返したカタチではありますが、フィニッシュの顔面蹴りは強烈無比で、かなり危険。当然、これが伏線となります。

 

●1997.8.10ナゴヤドーム 
ムタvs小川戦
↑この試合はデビュー以来の橋本との2連戦に比べ、ムタが相手という事でプロレスならではのインサイドワークと奥深さに、まだまだアマチュアアスリートの意識が消えない小川が翻弄された展開となりました。

 

●1997.8.31横浜アリーナ
橋本、健介に敗れIWGPを手放す。

 

●1997年末、長州と小川が衝突
↑小川、遠征中の合同練習中に長州現場監督と衝突(怪我を理由に練習をセーブする小川に長州が「やる気がないならやめてしまえ!」と一喝)。かつての元横綱北尾光司の際も同様の衝突があり、その時は北尾の怠け癖が出たか、という印象でしたが、真面目そうに見える小川の場合はいささか謎な衝突でした。

 

●1998.1.4東京ドーム 
長州引退興行

 

●1998.4.4東京ドーム 
猪木引退興行

 

↑ここで注目なのが、小川が衝突した当時の現場監督である長州と、その直後にオーナーである猪木が相次いで現役引退した、という点です。

 

さらにはこの頃、引退後も現場監督として現場の統制を強化する長州と、選手会長 橋本の衝突が表面化します。反体制nWoの武藤、蝶野、反選手会勢は免除された「合同練習」に強制参加させられた橋本が不満を募らせ、ついには長州に「健介ばかりエコヒイキするな」と発言、橋本は「若い衆はみんな俺についてくる」とまで言い放ち、長州を激怒させる、という出来事がありました。

 

●1998.6.5日本武道館 
小川が新日プロ坂口征二社長に控室で暴行騒ぎ
↑当時、猪木は引退と同時に新日プロから距離を置かれ(後述)、佐山と小川と共に新団体U.F.O.の旗揚げを目論んでいました。猪木サイドは旗揚げを前に遺恨を作り新日プロとの抗争を模索、これは当然の流れです。

 

しかし、この小川を使った遺恨作りは明治大学の大先輩である坂口征二、当時の新日プロ社長をガチで激怒させてしまいました。どのくらいガチかというと、坂口は小川のお中元を送り返し絶縁を宣言したくらいです!(真顔)

 

これは当時、大きなニュースとなり、この日の武道館大会のメインで藤波のIWGPに挑戦した橋本戦は話題を持っていかれ、結果的に橋本も激怒します。

 

 

●1998.9 
恒例の成田会見で猪木が新日批判。フライ、カシン、藤田の引き抜きを示唆
↑これに対し長州も紙面で対抗。猪木と長州の対立も表面化し始めます。

 

●1998.10.24両国国技館
猪木新団体U.F.O.旗揚げ戦
↑メインは小川vsフライ(小川の勝利)。新日プロは協力を要請されますが、参戦したのはフライとジョンストンという、外様ガイジンの2人だけでした。

 

続く年末のU.F.O.旗揚げ第二戦を前に、猪木は今度は「新日は藤田を活かしていない」と批判。なんとか新日との抗争を盛り上げようとしますが、坂口と長州の新日プロ側はさらに態度を硬化します。

 

新日は猪木シンパの永島取締役、U.F.O.は佐山代表が矢面に立ち、水面下で対抗戦実現に向けての交渉を続けていました。

 

●1998.10.30広島サンプラザホール
橋本、ノートンのIWGPに挑戦するも敗れ、王座戦二連敗

 

●1998.11.16横浜文化体育館
新日のSGタッグリーグ開幕戦で永島取締役と橋本が同席して記者会見
↑橋本はノートンとのIWGP2回連続挑戦失敗、を見てわかる通り、明らかに冷遇されていました。
しかし、小川をエースとするU.F.O.との抗争となると、どう見ても主役は橋本です。
この日の会見でも橋本はU.F.O.大会への新日勢の参加を否定する一方で「ウチを潰したけりゃ俺と小川とやるしかない」と発言するなど、やる気を見せていました。

 

しかし橋本は試合後、高血圧でダウン。長州との軋轢、不摂生と練習不足でコンディション不良を露呈し始めます(この一件は当時、マスコミではほとんど報じられていませんでした)。

 

●1998.12.22新日オフィス
99年第一弾シリーズのカード発表
↑シリーズ最終戦、2.14日本武道館のメインは1.4ドーム武藤‐ノートンの勝者vsトーナメント優勝者。トーナメント出場メンバーは橋本、健介、山崎、越中、天山、小島、中西、永田)と発表。
これに対し激怒した橋本は「バカバカしい、俺は出場しない」と発言。

 

●1998.12.25新日オフィス
坂口社長名でマスコミ各社に「橋本を無期限出場停止処分とする」旨のFAX通達
↑橋本のマッチメーク批判に激怒した長州の意向と思われます。

 

●1998.12.30大阪城ホール
U.F.O.旗揚げ第二戦
↑メインは小川vsジェラルド ゴルドー、小川がチョークスリーパーで勝利。

 

そしていよいよ、問題の一戦となります。
②につづく

コメント

  1. ワタナベヒロシ より:

    何時も、とても興味深く読ませて頂いてます。

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