1997(平成9)年10月11日。
「プロレスが死んだ日」であり、後に隆盛を誇る総合格闘技イベント「PRIDEが生まれた日」。
プロレスラー 高田延彦がグレイシー柔術 ヒクソン グレイシーとの戦いに挑み惨敗。「A級戦犯」と呼ばれた日を振り返ります。
●”プロレス界の黒船” ヒクソン グレイシーとは?
後にヒクソンは、高田戦をこう語っています。
「あのとき、私はすでにチャレンジャーの立場にはなかった。だから誰かと闘いたい、誰かを倒したいと考えることもなかった。プロモーターから条件面で私を満足させてくれるオファーが届いた。だからプロフェッショナルなファイターとしてリングに上がり、全力を尽くして闘い、勝利した。試合内容にも満足できたし、東京ドームのような大きな会場で試合をするのも初めてだったからとてもよい思い出になったよ」
ヒクソン グレイシーの幻想は、1993(平成5)年11月に開催された「UFC 1: The Beginning」に遡ります。
この大会はキックボクサーのパトリック スミス、ケビン ローズイヤー、極真空手のジェラルド ゴルドー、伝統派空手のジーン フレジャー、プロレスラーのケン シャムロック、力士のテイラ トゥリ(元・高見州)、プロボクサーのアート ジマーソン、ブラジリアン柔術家のホイス グレイシーの8名による「ノールール トーナメント」。
「バーリトゥード(なんでもあり)」「総合格闘技」という後に続く源流となった、エポックメイキングなイベントでした。
そして日本でも活躍していたゴルドー、シャムロックら強豪を破り、優勝したのが当時無名だったホイス グレイシー。それも1ラウンド1分あまり、チョークスリーパーによる“秒殺“でした。
そのホイスが試合後のコメントで「兄のヒクソンは私より10倍強い」と発言したことから、ヒクソンの“神話“は始まったのです。
ヒクソンはその後、「シューティング」の創始者 佐山聡(初代タイガーマスク)により日本に招聘され、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」で西良典、ダビッド・レビキ、バド・スミスを破り優勝。
翌年の「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」でも木村浩一郎、 山本宜久、中井祐樹を破り2連覇。
一連の試合での冷静沈着かつ隙のない動き、容赦ないパウンドの獰猛さと必殺のチョークスリーパーで、観る者に戦慄を与えます。
この頃から「400戦無敗」というキャッチフレーズが付き(名付け親は佐山聡氏とも)ましたが、「本当かもしれない」というリアリティがあったのです。
「考えてみてほしい。私はリオ デ ジャネイロで暮らしていた20代の頃、幾度となくストリートファイトを経験した。柔術の大会では常に勝利していたし、ズールとバーリトゥードも闘っていたから、それなりに顔を知られていたんだ。だから、よく喧嘩を吹っかけられた。グレイシー家に対して敵意を持つ者も少なからずいたからね。」
●高田延彦、ヒクソンとタイソンの狭間で
自らの団体「UWFインターナショナル」は、新日本プロレスとの全面対抗戦での武藤敬司戦での敗戦にトドメを刺されたカタチで、1996(平成8)年に崩壊。
後発団体の「キングダム」に高田は参加せず、個人としてヒクソン グレイシー戦を模索していました。
ヒクソンはUインター時代、1994(平成6)年に安生洋二が道場破りを返り討ちにされてからの因縁の相手。
高田は後にPRIDE代表となる榊原伸行氏(当時、東海テレビ勤務)と二人三脚で、興行、テレビ中継、そしてもちろんヒクソン本人との交渉を粘り強く続けます。
一時は日本テレビでの中継も決まりかけますがうまくいかず、実現は暗礁に。
そこに別ルートから、マイク タイソン戦が持ち上がります。タイソンは当時「ホリフィールド耳噛み事件」の直後でボクシング界を追放され、それ以外の戦う場、カネが稼げる場所を探しており、ヘビー級ボクサー トレバー バービックとの対戦経験のある高田の名前が上がったようです。
タイソンと戦えば、世界中に配信され、その収益でギャランティもTV問題も心配なし。そして仮に負けたとしても「タイソンと戦った男」の称号は残ります。
負けたら何も残らないヒクソン戦より、間違いなくタイソン戦の方が高田にとって「得」なのです。
高田も一時は完全にタイソン戦に気持ちが固まっていたと言います。しかし、ヒクソン戦交渉の際にイベンターに渡していた「白紙委任状」が仇となり、高田は「裁判を回避する」ためにヒクソンと「戦わざるを得なく」なります。
一度切れた気持ちを再び蘇らせることは、結果としてできませんでした。
高田はヒクソン戦に向けてトレーニングする度にカラダのあちこちが故障し、完全に負のスパイラルに巻き込まれていくのでした。
●高田延彦の「敗因」
結果論ですが、高田は試合に臨むあらゆるコンディション作りに失敗しました。
「ヒクソンと柔術の試合をやって引き分けたことのあるセルジオ ルイスっていうブラジリアン柔術の黒帯の選手に来てもらった。そしたら来日早々、彼が聞いてくるわけですよ。『タカダ、ヒクソンと本当にやるのか?』。本当もなにも、やるから呼んだんでしょって答えると…ルイスは『殴るな、寝るな、グルグル動き回れ、寝るな』って。おいおいじゃあ俺はどうしたらいいんだってなるじゃないですか。でも彼は大真面目に繰り返すわけです。…まあコーチとしては最悪でしたね。ヒクソンも人間だから思いきり蹴飛ばしてやれとでも言われたら、ずいぶん気分も違ったんでしょうけど」
実は高田はこの直前、密かに前田日明のリングス道場を訪れ、ヒクソン戦の対策を練ったといいます。そこで奮い立たせた闘志も、ルイスのコーチングで完全に無となり、風邪まで引いて体調ボロボロの状態でリングに上がることになってしまうのです。
一方のヒクソンは対象的に「タカダの試合テープは見たが、まったく参考にならない。なぜなら、すべてのファイトがフェイクだからだ」と言い放ちます。
試合前の時点で、勝敗は決していました。
総合格闘家としての実力に底の見えないヒクソンに対し、高田は必要以上に相手の存在を巨大化させてしまい、勝てるイメージがまったく作れなかったのです。
試合場である東京ドームに向かう高田は「死刑場に向かう心境だった」と語っています。
●PRIDE1とは
「PRIDE1」は、高田ヒクソン戦のために用意されたリング。1とついているので当初からシリーズ化される予定、ではなく、当時人気絶頂の「K-1」と同じ意味の「1」なだけ。
本来はこれ一発勝負の興行でした。
高田のこだわったTV中継も地上波ではなく、まだ加入者も少ないCS放送の、日本では異例の「ペイパービュー(有料放送)」となりました。
私はこの試合だけのために有料放送に加入する気にはならず、しかしどうしても観たいといろいろと策を練りましたが、結局、リアルタイムで観ることができませんでした。
●両者の入場
周囲の予想は、高田が完全に劣性。
しかし、東京ドームに詰めかけたのはほとんどが高田勝利を願うプロレスファンでした。
高田がアントニオ猪木の直系の弟子であり、武藤に負けたとはいえ、かつての「最強」ブランド 時代の高田復活を信じていました。
両者の入場前、観客席の前田日明がビジョンに映し出されると会場は爆発。
ヒクソングレイシーの入場。「ラスト オブ モヒカン」のテーマにのり、全身白装束のヒクソンはたった独りで花道を進みます。その佇まいは神々しくもあり、畏怖に溢れていました。
そして高田がフード付きのガウンに身を包み、「トレーニング モンタージュ)のテーマで入場。脇を固めるのはかつてのUインターの面々。ヒクソンに返り討ちにされた安生はもちろん、団体末期に袂を分かった宮戸優光まで、しかもUWFのジャージ姿…
この入場シーンは感動的で、もう試合を観たくらいに疲れました。思い入れが溢れかえり、期待と不安が交錯し、感情がコントロールできなくなったプロレスファンがほとんどだったでしょう。
結局、この入場シーンがこの日、最大の見どころになってしまいました。
●試合展開
東京ドームに興奮と緊張の張り詰める中、ゴングが鳴ります。
リング中央で構えるヒクソンに対し、高田は腰を引きヒクソンの周囲をグルグルと回り続けます。
高田は得意のローキックを放ちますが、タックルを警戒するあまりに腰が引けていて威力が半減して見えます。
それでも打撃が一発入ればもしかして…そんな期待も虚しく、ついに高田がヒクソンに“捕獲“されました。
テイクダウンからグラウンドに入ると、ヒクソンは高田の動きをすべて見切ったように隙のないムーブを見せ、もはや達人の域です。そして予定通り、腕ひしぎ十字固めへ。
高田はなすすべなくタップ。
わずか1ラウンド4分47秒。名勝負と呼べる内容ではありません。ヒクソンの完勝、高田の惨敗。
ヒクソンの強さだけが際立った試合でした。
会場に詰めかけたプロレスファンは、その残酷過ぎる現実に「すごいものを観てしまった」という感情しかなかったと思います。
高田の歴史だけでなく、力道山以来、長く続く日本のプロレス幻想が、ヒクソンという黒船に木っ端微塵に砕かれた、という衝撃。
この結末のインパクトを超える試合は、後にも先にももうないだろう、と思います。
まさにプロレスが死んだ日。
かつての師であり、プロレス最強を具現化し続けたアントニオ猪木は試合後「よりによって一番弱いヤツが出ていった」と発言。
あまりに辛辣なコメントには賛否両論ありましたが「負けたのは高田でありプロレスではない」という主旨と捉えると、救われたファンもたくさんいました。
しかし、世間はそれほど優しくはありません。この一戦を境に総合格闘技ブームが起こり、プロレスはリアルファイトを”装う”ことから、脱却せざるを得なくなっていったのです。
コメント
こんにちは。
試合については尽くされていますので。
当日の会場の様子(KRSイズム?)を少し書かせてください。
入っていきなり焦りました。自分らの買った席と周り20席くらいに物々しい機材がガッツリと積まれてまして。放送用?撮影用?とにかくちょっと退けて座ろうよのレベルではないので連れが学生風係員に聞くも「いや~??」ってw
間もなくスーツの男性が登場し「誠に申し訳ございません。どうぞこちらへ」と歩き出すので続きます。ガラガラ&スカスカゾーンに到着。
スーツ氏「どこでもお好きなところでご観戦を」
連れ「どこでもって・・凄く観やすくて嬉しいんですが・・あと誰か後から来たら・・」
スーツ氏「ご迷惑をお掛けしたのですから。それと後でどなたかがお見えになることはございません(断言)それではごゆっくり」と自信に満ちた回答w
それでもその後、人が近づく度にキョドる自分w
全試合終了。結局スーツ氏の言は正しかったのですが、
「てんぷら学生」という言葉を子供の頃以来思い出していた東京ドーム。
もうあれから23年って・・(遠い目)です。
KRSってズンドコとか言われてましたけど魅力のある委員会だったと思ってました(スーツ氏含)初物に弱かっただけかも知れませんが
黎明期ならではの少々荒っぽいマッチメイク(アンダーカード)が
結構好きでした。PRIDE4迄ですか。
セミファイナル話、宮戸話、まだいくつかあったのにw
それではまたです。
おぉ、生観戦されたのですね。それもなかなかのハプニング付きで羨ましいです(笑)そのスーツ氏、誰だったんでしょうね(笑)
創世記のPRIDEはなかなかカオスでしたよね。いきなり公式ガイドブックのドアタマに小室哲哉氏。ライブとか二代目引田天功のイリュージョンとかやってませんでしたっけ(笑)
まさに赤子の手をひねるとはこの事でペイパービューの生中継を観ていて絶句したのを覚えてます。
泣き虫読みましたが、試合前の経緯含め高田の人に流される、メンタルの弱さがもろに出ましたね。
猪木が言うのは心の弱さだったと思います。
まさにおっしゃる通りです。数々の修羅場を潜り抜けて来たアントニオ猪木だけに、余計に腹立たしかったんだろうと思います。