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「太平洋上猪木略奪事件」 1966 〜東京プロレス時代のアントニオ猪木

今回はアントニオ猪木の東京プロレス時代、「太平洋上猪木略奪事件」について掘り下げます。猪木の日本プロレス追放~新日プロ旗揚げよりもさらに昔、1966年の出来事です。 新日プロ旗揚げ以降の猪木しか知らない世代にとって、この東京プロレス時代はブ...
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「’81 蔵前全面戦争」1981年10月 〜猪木 新日プロvs馬場 全日プロ

前回お伝えした「馬場vsハンセン 初対決」の前年 1981年は、ブッチャー、シン、ハンセンなどの引き抜き合戦に加え、第3極 国際プロレスの崩壊、初代タイガーマスク デビューなど、日本プロレス界にとって激動の1年でした。 今回は、10月に開催...
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「馬場vsハンセン」1982 〜引き抜き戦争、衝撃の乱入事件と名勝負

今回は、ジャイアント馬場が限界説を吹き飛ばした名勝負、スタン ハンセンとの一騎打ち(1982年2月4日)を、ハンセン衝撃の全日プロ乱入から、当時のプロレスファンはこの一戦をどう見ていたのか、ご紹介します。 ◆日本マット界を揺るがす「スタン ...
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「スクワット」伝説 1950~ヒンズースクワットとプロレス

「金スマ」でも取り上げられた話題の本「死ぬまで歩くにはスクワットだけすればいい」(幻冬舎、順天堂大学医学部教授 小林弘幸先生著) 「1日たった10回のスクワットで死ぬまで歩ける」というフレーズで、高齢の方でもできる安全なスクワットトレーニン...
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リッキーvsスヌーカ 〜1981 プロレス新時代の幕開け

新日プロ 藤波vs長州による「名勝負数え歌」(1982年〜)の約1年前。 1981年の全日プロで繰り広げられた名勝負が、 “南海の黒豹” リッキー・スティムボート vs “スーパーフライ” ジミー・スヌーカ 戦です。 当時11歳、小学生の私...
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なぜ 猪木 新日プロ では暴動が起こったのか?〜観客心理の変化

前回は昭和の新日本プロレスで起こった「暴動」事件について、振り返りました。 観客の主張、怒りは「ふざけるな!ちゃんと試合をやれ!(決着をつけろ!)」からの「金返せ!」に尽きます。 しかし、その怒りの矛先は時代と共に変化しています。 それは一...
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猪木 新日本プロレス 暴動の歴史 1984~87

暴動…遠い異国の地で起きる事件のイメージですよね。かつて、日本でも安保闘争、学生運動など60年代までは珍しくありませんでしたが、70年代以降は(ごく一部の特殊な地域を除けば)、普通に暮らす一般大衆が(ニュースを含め)目の当たりにする事は、な...
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​プロレスTV初観戦の思い出~1975? 馬場とブラジルと黄色い花束

私が生まれて初めてプロレスを観た記憶。 劇画「タイガーマスク」 モノゴコロがついたときには7歳上の兄貴の本棚にあった「タイガーマスク」原作漫画を読んで育った私。「プロレスは昔の漫画の中の世界だ」と思っていた気がします。 ©講談社/梶原一騎/...
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1984 新日本プロレス「大量離脱事件」〜ジャパンプロレスとは何だったのか?①

今回は、新日プロ「クーデター事件」の翌1984(昭和59)年に起こった、「大量離脱事件」についてです。 事件ばっかりじゃないか!…って、そうなのです。昭和の猪木・新日プロはとにかく激震してないと新日じゃない、ってくらいに、次から次に大事件が...
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「天龍とロビンソン」〜1981 天龍源一郎がプロレスに覚醒した日

※文中敬称略 ◼︎天龍が「Mr.プロレス」である理由 天龍源一郎はいつの頃からか「Mr.プロレス」と呼ばれるようになりました。それは「日本人レスラーでただ1人、ジャイアント馬場とアントニオ猪木からピンフォール(3カウント)勝ちをした選手だか...
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プロレスラー キャッチフレーズ傑作集

前回のアイドル編に続き、今回はプロレスラー編です。 プロレス界は昔からキャッチフレーズの宝庫、元祖とも言える世界です。 鉄人 ルー テーズ 神様 カール ゴッチ 鳥人 ダニー ホッジ 人間発電所 ブルーノ サンマルチノ 鉄の爪 フリッツ フ...
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アントニオ猪木vsビル・ロビンソン 1975~③史上最高の名勝負

”燃える闘魂”アントニオ猪木、最高の名勝負。 1975年12月11日 蔵前国技館 NWF世界ヘビー級選手権試合 60分3本勝負 アントニオ猪木vsビル・ロビンソン 立会人に”鉄人”ルー・テーズと”神様”カール・ゴッチ。裁くレフェリーはアメリ...
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アントニオ猪木vsビル・ロビンソン 1975~②G馬場の逆襲・仁義なき暗闘

”燃える闘魂”アントニオ猪木、史上最高の名勝負、vsビル・ロビンソン戦。 第2回は、この試合実現に至るまでの紆余曲折と、ライバル・ジャイアント馬場との舞台裏の”仁義なき暗闘”について、ご紹介します。 ①はコチラ ジャイアント馬場の逆襲~「オ...
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アントニオ猪木vsビル・ロビンソン 1975~ベスト・オブ・ベストバウト①

”燃える闘魂”アントニオ猪木の名勝負シリーズ。 vs ストロング小林戦 vs 大木金太郎戦 に続いては、1975年12月11日のvsビル・ロビンソン戦です。 私はこのロビンソン戦が、「プロレスラー・アントニオ猪木の、生涯を通じてのベストバウ...
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「プロレス大賞」とは? 1974~2017 歴代受賞者から見るマット界勢力図

◆プロレス大賞の歴史 「プロレス大賞」は、東京スポーツ新聞社が発表する、プロレス界で最も古く(1974年〜)、栄誉ある賞です。 審査員はスポーツ新聞各社(現在は東京スポーツ、サンケイスポーツ、スポーツニッポン、デイリースポーツ、東京中日スポ...
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アントニオ猪木vs大木金太郎 1974~遺恨清算ケンカマッチ

ストロング小林戦に続く「アントニオ猪木名勝負シリーズ」②。 1974(昭和49)年10月10日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木vs大木金太郎戦です。 この頃の猪木はとにかくギラギラしていて、プロレスラーとして一番油の乗った時期。「ブロデ...
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アントニオ猪木vsストロング小林 1974~猪木 日本統一への野望

1974(昭和49)年3月19日。東京・蔵前国技館で、日本プロレス史に残る名勝負が行われました。それが、”昭和の巌流島”と謳われた、アントニオ猪木vsストロング小林戦です。 ”あの”力道山対木村政彦以来、長くタブーとされてきた大物日本人同士...
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力道山はなぜ、木村政彦に負けなかったのか②~1954 ベストセラーに対する私論 後編

>前編はコチラ 昭和の巌流島、力道山vs木村政彦戦 木村氏は帰国後、力道山が興した日本プロレスに参加。やがて対立して1954年の一騎打ち、となるのは前述の通りです。 調印式は1954(昭和29)年11月27日、鎌倉の松竹大船撮影所にて行われ...
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力道山はなぜ、木村政彦に負けなかったのか①~1954 ベストセラーに対する私論 前編

プロレス、格闘技ファン以外からも大いに話題となり、「木村政彦」という伝説の柔道家を一気に世に知らしめた、2011年刊行のベストセラー『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著(新潮社)。 いまから65年も前の出来事であるプロレスリ...
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「猪木 日本プロレス追放事件」④〜1971 当時の猪木の言い分

①馬場と猪木 ②時系列ドキュメント ③関係者コメント集 に続いては、この事件について長く「通説」とされてきた、「当時の猪木の言い分」をご紹介します。 *文中敬称略 アントニオ猪木の言い分 かれこれ30年前。この猪木追放〜馬場との確執をはじめ...
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