2021年3月15日、「伝説のアニメーター」大塚康生さんがお亡くなりになりました。
今回は追悼の意を込めて、「太陽の王子ホルス」「ルパン三世」「未来少年コナン」「カリオストロの城」「じゃりん子チエ」などの作品で高畑勲さん、宮崎駿さんと共に日本のアニメーションの礎を築いた、大塚康夫さんをご紹介します。
大塚康夫さんはどういう方なのか、この動画が参考になります。
「ジブリがいっぱいCOLLECTIONスペシャル『大塚康生の動かす喜び』」からの抜粋です。大塚さんは、あの高畑・宮崎両監督をして「アニメ、動画の面白さを教わった」と言わしめる、偉大な先輩なのです。
東映動画に入社
大塚康夫さんは1931(昭和6)年生まれ。幼少期を過ごした山口県で見た蒸気機関車で「動きの面白さ」に目覚めた大塚さんは、スケッチに明け暮れます。
学徒動員で訪れた下関で終戦を迎え、旧制中学に入学しますが中退し、山口県庁に就職。働きながらひそかに漫画家を目指していましたが、ソ連の長編アニメ「せむしの仔馬」を観てアニメーションに興味を持ちます。でも、あくまで目標は「政治漫画家」でした。
その後「上京するため」厚生省の麻薬取締官に。いわゆる「麻薬Gメン」ですが大塚さんは補助職員で、指紋の採取や拳銃の手入れが仕事。この時の経験が後の作品でも活かされます。そしてこの頃、フランスのアニメ「やぶにらみの暴君」に感動し、アニメーションの世界を目指そうと決意。
結核に感染して2年間の療養生活を経て、東映動画の前身である日本動画社に研修生として入社します。この時当時の社長らから「26歳では遅すぎる、厚生省を辞めるのはもったいない」と言われたそうです(実際、給料は半分になったとか)。
1956(昭和31)年、日本動画社は東映に買収され、東映動画が誕生。大塚さんは同年12月、正式に入社しました。
「白蛇伝」「少年猿飛佐助」~「太陽の王子・ホルスの大冒険」
動画の養成期間は6か月、2か月ごとに試験があり、合格しなければ仕上げに回され、挫折する者も多かったそうです。大塚さんは2か月で合格し、いくつかの短編作品を経て、日本初の長編アニメーション映画「白蛇伝」に参加します。第二原画(セカンド)のポジションでしたが終盤では実質的に原画を任されるようになりました。この「白蛇伝」は宮崎駿さんら、後のアニメーターに大きな影響を与えます。
その後、長編アニメ第2弾「少年猿飛佐助」で原画に昇格、「西遊記」「安寿と厨子王丸」などを手掛け、評価を高めていきました。
1964(昭和39)年、手塚治虫さん原作のTVアニメ「W3(ワンダースリー)」のオープニングを担当。これはスタッフの新車ベレッタを借りてぶつけて壊したことの穴埋めだったそうです。
その後、「わんぱく王子の大蛇退治」「アラビアンナイト・シンドバットの冒険」などを手掛け、1968(昭和43)年に「太陽の王子・ホルスの大冒険」で作画監督を務めます。
この時、上層部の反対を押し切って抜擢したのが演出の高畑勲さん。しかし作品の評価は芳しくなく、興行成績も最低となり、企画部長が引責退社、演出の高畑さんは降格、大塚さんらスタッフも給与カットに。大塚さんは自身の限界を知り、監督ではなくアニメーターとして歩むことを決意したとされます。
これ以降、「大塚康夫のアニメはヒットしない」という不名誉なジンクスが生まれてしまいました。
「ムーミン」「ルパン三世」
1968(昭和43)年、「長靴をはいた猫」で原画を担当。制作終了と共に大塚さんは、東映動画を退社します。その理由はTVアニメ時代が到来して「止め絵」を多用した予算主義に嫌気がさしたからだそうです。
Aプロダクションに移籍して「ルパン三世」の劇場版パイロットフイルムの原画を務めますが、買い手がつかず計画は頓挫。TVアニメ「ムーミン」で作画監督を務め、「巨人の星」「天才バカボン」に参加。
その後、「ルパン三世」が読売テレビでTV放送が決定します。TVアニメ「ルパン三世」は演出 大隅正秋さん、作画監督 大塚康夫さん。大塚さんはルパンにワルサーP38、次元にコンバットマグナム、峰不二子にブローニングM1910(麻薬取締官時代に手入れしていた拳銃)、愛車にベンツSSKなど、実在のメカニックを登場させ、本領を発揮します。
しかし当時は「巨人の星」などスポコンブームで、大人向けの「ルパン三世」は視聴率で爆死。早くも第3話から子供向け路線への変更を求められます。演出の大隅正秋さんはこれを拒否して降板、そこで大塚さんが声をかけたのが同じく東映動画からAプロダクションに移籍してきた高畑勲さんと宮崎駿さんでした。宮崎駿さんは描くのが難しい上に「泥棒がベンツ」に違和感を感じ、ルパンの愛車をフィアット500に変更。フィアット500は大塚さんの愛車でした。
路線変更して高畑勲、宮崎駿コンビ作品となった「ルパン三世」も、23話で打ち切りに。後に再放送でヒットしてシリーズ化するまで時間がかかりました。
「パンダコパンダ」「侍ジャイアンツ」「未来少年コナン」
大塚さんはTVアニメ「ど根性ガエル」に参加した後、1972(昭和47)年から宮崎駿さん、高畑勲さんらと共に長編アニメーション映画「パンダコパンダ」シリーズを手掛け、小田部洋一さんと共に作画監督を努めます。
1973(昭和48)年、大塚さんはTVアニメ「侍ジャイアンツ」の作画監督を務めますが方針を巡り長浜忠夫監督と対立し、途中降板。本作は当初の監督候補に高畑勲さんが挙がっていました。
この頃、高畑勲さん、宮崎駿さん、小田部洋一さんは「アルプスの少女ハイジ」を制作するためズイヨー映像(後の日本アニメーション)に移籍。この橋渡しも大塚さんでした。
この頃大塚さんは、TVアニメの予算主義、止め絵を多用してセルを省くことばかりを追求したり、安易に原作漫画をアニメ化したりする流れにほとほと嫌気がさしていました。
1976(昭和51)年、そんな大塚さんに作画監督を依頼してきたのが宮崎駿さんでした。それが1978(昭和53)年に放送された、宮崎駿さん初TVアニメ監督作品の「未来少年コナン」です。後のアニメーターに多大な影響を与えた本作ですが、放映当時の視聴率は平均8%、最高でも15%でした。
「ルパン三世・カリオストロの城」「じゃりン子チエ」
この後、大塚さんはTVアニメ「ドラえもん」への参加が内定していましたが、東京ムービー新社の社長からの誘いで、新会社テレコムアニメーションフィルムに移籍します。
テレコムアニメーションフィルムは、同じく国内TVアニメに限界を感じた東京ムービー社長の藤岡豊さんが、アメリカ進出を夢見て「海外との合作のためにフルアニメーションを描けるアニメーターの育成」を目的に、1975(昭和50)年に設立した会社でした。
大塚さんはTVアニメ「ルパン三世」第2シリーズを手伝いながら、劇場版第2作となる「ルパン三世カリオストロの城」を宮崎駿さん監督に据えて制作。1979(昭和49)年12月公開となりました。今では”名作中の名作”との誉れ高い本作ですが、またしても公開時は興行収入も前作に及ばず、またも「大塚康夫のアニメはヒットしない」ジンクス発動とされました。
その後、大塚さんは1981(昭和56)年公開の高畑勲監督作品、劇場版「じゃりン子チエ」で小田部洋一さんとともに作画監督を務めます。本作を大塚さんご自身は「一見地味に見えるがもっとも好きな作品のひとつ」と語っています。
大塚さんは1987(昭和62)年、劇場版「ルパン三世・風魔一族の陰謀」で監修(事実上の監督)を務めますが、ルパンファミリー声優陣の総入換えが災いし不発に(上映館も少なく、現在はOVA作品として扱われています)。
1991(平成3)年から大塚さんは代々木アニメーション学院でアニメーター科の講師を務め、2001(平成13)年からはアニメーター養成プログラム「アニメ塾」の塾長に就任。後進の育成に励む傍ら、2002(平成14)年に文化庁長官賞をアニメーターとして初受賞。2005(平成17)年からは厚労省主催の「技能五輪全国大会(通称技能オリンピック)」の審査委員も務められました。
そして2021年3月15日、享年90歳でお亡くなりになりました。
大塚康夫・宮崎駿・高畑勲
最後に、宮崎駿さんが高畑勲さんの葬儀で読んだ文章に、3人の関係性がよく現れているので引用します。
「その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらいの幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは、大塚さんだった。ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという、会社への申入書だった。当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が、湧き上がってきました。そして、その日が来た。長編漫画第10作目が、大塚・高畑コンビに決定されたのだった。」
中略
「大塚さんは語った。『こんな長編映画の機会は、なかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間がのびて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう』それは意志統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは、ことの重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンの止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった。」
中略
「初号で僕は、初めて迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。何という圧倒的な表現だったろう。何という強い絵。何という優しさだったろう。これをパクさんは表現したかったのだと、初めてわかった。パクさんは、仕事を成し遂げていた。森康二さんも、かつてない仕事を仕遂げていた。大塚さんと僕は、それを支えたのだった。」
参考文献:
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