昭和のプロ野球では、プロレスもビックリ、警察の装甲車が何度も出動した”遺恨試合”がありました。そのキャッチフレーズは「今日も博多に血の雨が降る!」という、物騒にも程があるもの。
いまでいう”修羅の国vs川崎国”の過激な遺恨抗争の主役は、ロッテ監督時代のカネやんこと金田正一さんです。
今回は金田正一さん追悼企画として、1973(昭和48)〜74年(昭和49)の2シーズンにわたって勃発した“プロ野球史上最大の遺恨試合“太平洋クラブライオンズvsロッテオリオンズについてご紹介します。
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「神様」vs「天皇」~平和台球場の思い出
当時の両チームの監督は、ともに球史に残る伝説の名投手です。
太平洋クラブライオンズは“神様仏様稲尾様”と称された稲尾和久さん、愛称はサイさん。
通算276勝、3年連続30勝、1シーズン42勝(!)というとてつもない記録を持つ大投手。稲尾の名を不動のものとしたのは、1958(昭和33)年、対巨人の日本シリーズ。初戦から3連敗した崖っぷちのライオンズを救ったのが、稲尾でした。
そしてロッテオリオンズは“黄金の左腕”“天皇“と呼ばれた金田正一さん、通称カネやん。
国鉄スワローズ~読売ジャイアンツを通じて通算400勝298敗、365完投。奪三振4,490、投球回数5,526と2/3。打者としても38本塁打(うち2本は代打)を放ち、ピッチャーなのに8回も敬遠されるなど、あらゆる規格外の記録を叩き出した、レジェンド中のレジェンドです。
そして舞台はいずれもいまはなき、川崎球場と平和台球場でした。
それまでロッテの本拠地は東京・南千住にあった東京スタジアムでしたが、1972(昭和47)年に取り壊しが決まり、本拠地球場を失っていました。主催試合は後楽園球場、神宮球場、川崎球場などを間借りして行われ、1974(昭和49)年からは仙台の県営宮城球場が中心となりました。
本拠地やフランチャイズを持たない状況は1977(昭和52)年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」と揶揄されました。
そして私の子どもの頃、70-80年代の福岡といえば平和台球場でした。
ダイエーホークスが来る前、太平洋クラブライオンズ〜クラウンライター時代のライオンズは弱小貧乏球団で、平和台球場も年に数度の巨人戦以外は、どこか裏さびれた雰囲気の地方球場でした。
すっかり健康的になった今の野球場では考えられませんが、終始「中洲のおねーちゃんとどうした」といったオトナのヤジが飛び交い、たるんだプレーには焼酎の一升瓶が投げ込まれる、あの殺伐とした空気が忘れられません(笑)
ライオンズvsロッテの遺恨
この両チームの遺恨の歴史は古く、1952(昭和27年)にまで遡ります。
7月16日、雨天の平和台球場で行われた西鉄ライオンズvs毎日オリオンズの一戦で、日没ノーゲームを狙う毎日の湯浅総監督による明らかな遅延行為が平和台のファンの逆鱗に触れ、ノーゲーム宣告後に暴徒化。
毎日の選手が襲撃される、世にいう「平和台事件」から続いていました。
「黒い霧事件」の余波~ライオンズとロッテの奇妙な“縁“
以前、こちらの動画で解説した「黒い霧事件」(1961~71)。
プロ野球はこの事件の影響で人気が低迷し、中でも“震源地“だったライオンズの窮状は、深刻でした。
1969(昭和44)年の閉幕後、成績不振と黒い霧事件の責任を取り中西太監督が辞任。後を引き継いだのが、専任としては当時最年少の32歳で監督に就任した稲尾です。
ライオンズは1963年の優勝以降、観客数は減少を続け球団の累積赤字は12億円余りに。1972(昭和47)年の春、ついに西鉄は、球団経営からの撤退を決断します。
この時、西鉄ライオンズの引き受け先探しに奔走したのが、当時ロッテオリオンズのオーナーだった中村長芳氏でした。しかし結局、引き受け先は見つからず、中村氏自らがオーナーとなり当時の運営会社・西鉄野球株式会社を買収。社名を「福岡野球株式会社」に変更して太平洋クラブ(⇒クラウンライター)をスポンサーに、ライオンズを運営します。
この際、野球協約で定められた「1つの法人・または個人が複数球団を保有することを禁じる」という規定に沿って、中村氏はロッテオリオンズのオーナーを辞すると共に、自身の保有していた株式の全てをロッテ本社に譲渡しました。
一方のロッテは、1972年11月に金田新監督が誕生。
この年に5位に沈んだロッテもまた、観客動員がわずか31万人と常に閑古鳥が鳴いており、カネやんは
「ワシが野球界に戻そうとしているのはロッテの再建だけやないで、日本の野球界再建の為や」
「ピンチのパ・リーグのお客さんを呼ばなきゃいかん」
「お客さんを呼ぶためにはワシは球場で逆立ちしてもええ」
と、その決意を語っていました。
助っ人ガイジンの獲得競争から開戦
そして両チームは1973年の開幕前、メジャーリーグで活躍する外国人選手(ロサンゼルスドジャースのジム・ラフィーバー)を巡り、熾烈な獲得競争を繰り広げます。
この争いはロッテが勝利、獲得に失敗したライオンズはドン・ビューフォードを獲得。
4月の開幕3連戦で対戦した両チームは、そのビュフォードの活躍などでライオンズが3連勝しました。
’73 5.3 川崎の乱
そして5月3日。川崎球場での対決で7回、ロッテの大量リードに怒った太平洋ファンがグラウンドに瓶や空き缶を大量に投げ込み、試合が中断されるトラブルが発生!
ロッテ野手陣はたまらずヘルメットを被って(!)守備に就きますが、三塁手の有藤通世選手が観客席からの“攻撃“を避けてセカンド寄りに守ったのを見たライオンズ稲尾監督は、セーフティバントを繰り出します。
これに怒ったカネやんはベンチから強烈なヤジを連発!3連戦は一触即発の不穏な空気の中で終わります。
なおも怒りの収まらないカネやんは、試合後のインタビューで「太平洋ファンのガラが悪い、カントクが事態の収集に協力しない」と稲尾監督を口撃。「こじき監督、ドン百姓監督」などと暴言を連発して、さらにライオンズファンのヒートを買う事態に。
太平洋側はコミッショナー宛に「金田監督の程度を越えた暴言に当地の熱狂的なファンは怒りを触発させているだけに、当球団の管理領域でない試合場外の“自衛“については十分な配慮をもって臨むよう、勧告申し上げます」という要望書を提出しました。
実は仕組まれた“アングル“だった
今となってはこの抗争、話題作り、観客動員のために両球団が意図的に仕組んだものだった、と明らかになっています。
仕掛け人は当時、中村オーナーと共にロッテから太平洋クラブライオンズに移籍し、専務取締役だった青木一三氏。スカウト時代に「マムシの一三」との異名を持つお方です。
当時のパ・リーグは不人気を極め、1973(昭和48)年から人気挽回策として前期、後期の2シーズン制を導入した時期でした。
青木氏は後に自著「ダイエー/オリックス球団買収の真相」(ブックマン社)の中で、「福岡、博多と言えば祭りと喧嘩の本場。球場へ足を向けさせるには、客を興奮させるような仕掛けが要る。うまい具合に太平洋のフロント陣は、主要メンバーがみんなロッテの出身者。これを利用して、太平洋とロッテを喧嘩させようと考えたのである」と回想しています。
1973年の太平洋の入場者数は、前年の32万人から87万6,000人と激増。
その狙いは、大当たりでした。
しかしこの事実は限られた関係者だけしか知らず、いつしか当初の思惑を超えて“ガチ“な抗争に拡大し、大混乱になっていきました。
詳しくは後述しますが、立場上、この呼びかけに“乗った“ロッテ監督のカネやんは、もちろん事情を知っていました。しかし持ち前のエンターテナーぶりを発揮するうちに、徐々に本気になりこの抗争に油を注ぎまくるのです(笑)
’73 6.1 平和台軟禁事件
6月1日、川崎でのトラブル後初となる両チームの3連戦が、太平洋の地元福岡で始まります。球場には殺気立つライオンズファンが詰め掛け、「平和台球場」というネーミングがまるで似つかわしくない、殺伐とした空気に包まれます。
そして早くも試合開始前から三塁側のロッテベンチ付近で観客vsカネやんのバトルが勃発。スタンドからのヤジに対しカネやんはグラウンドから砂を投げ返す(!)など、小競り合いが続きます。
この事態に球団側は福岡県警に出動を要請。駆り出された警察官は50人規模と言われています。
試合中も観客席ではファンと警官、警備員との間でいざこざが頻発し、グラウンド内に繰り返し物が投げ入れられる無法状態。しかも初戦、ロッテが5-2で勝利したため、いよいよ収拾がつかなくなってしまいました。
試合終了後もロッテナインは球場を取り囲んだ太平洋ファンに2時間以上も“軟禁“され、機動隊に守られて球場を脱出し、囚人護送車で宿舎に運ばれました。
続く第2戦と第3戦も不穏なムードの中試合が行われ、太平洋球団は福岡市から警告を受け陳謝するハメに。
さらに7月31日からの平和台3連戦でもトラブル続き、8月1日には互いに内角攻めを執拗に続けた結果、ロッテの村上選手が受けた死球がきっかけで両軍入り乱れての大乱闘が起こりました。
‘74.4.27 川崎大乱闘
遺恨は翌年、さらに拡大します。
4月27日、川崎球場での一戦で外野フライでタッチアップを試みたロッテの弘田選手をライオンズ捕手の宮寺選手が片足を掛けるようにブロック。
このプレーに怒り心頭のカネやんが宮寺捕手に飛び蹴り!
するとロッテ三塁手のビュフォードが飛び掛ってカネやんに首投げ!
もちろん両軍入り乱れての大乱闘になり、金田・ビュフォードは退場処分、宮寺も含めた3名に制裁金が課されました。
翌日のスポーツ紙には「首投げ、殴打戦の“投打”で大暴れ」「総力の殴打戦」「金田監督、逃げる宮寺を”3段キック”」「ビュフォードお返しの首投げ」と、もはや何の競技だかわからない、過激な見出しが踊りました。
「今日も博多に血の雨が降る!」
その後、なんと太平洋クラブライオンズはこのカネやんとビュフォードの乱闘シーンの写真を使用し「今日も博多に血の雨が降る!」のキャッチコピーを添えてポスターを制作。西鉄電車に掲示して警察に怒られ、撤去するという騒動がありました。
両軍はその後も遺恨試合を続け、5月23日の一戦では観客のヤジにカネやんがバットを振りかざして応戦、試合後にはまたもやロッテナインが球場に缶詰にされ、再び機動隊が出動。
9月5日には再び平和台球場でロッテナインが交代時にライオンズファンから酒を浴びせられ、怒ったカネやんが30分に渡って試合を中断するなど、ヒートアップし続けました。
この頃、他球場でも乱闘や観客からの物の投げ入れなどが頻発し、事態を重く見た警視庁がコミッショナー事務局とセ・パ両リーグの会長を呼び「試合の運営と球場の管理に関する警告」を発するまでに至りました。
悪役を「二つ返事」で引き受けたカネやん
前述のとおり、そもそもこの抗争は太平洋がロッテに持ちかけた“アングル“でした。
太平洋の青木氏がカネやんに「博多っ子は祭りとケンカが大好きだ。それを生かして観客を呼びたい。だから、博多では悪役に徹し、ファンを刺激してくれないか」と頼むと、カネやんは「よっしゃ!」と二つ返事で引き受けたと言われます(笑)。
青木氏はこの件をカネやん以外には知らせなかった、とのことですが、カネやんは仲のよい稲尾監督と「2人で舌戦を繰り広げて盛り上げよう」と話していたそうです。
稲尾さんは「金田さんも適当にあしらえばいいのに、人が善いから真剣に怒ってしまうんだ(笑)」と語っています。
そしてカネやんです。カネやんはこの1974年、監督就任2年目にして4年ぶりのリーグ優勝と、毎日時代以来24年ぶりの日本一にチームを導きました。
そして、この時の顛末を含め、後にこう語っています。
「ロッテ監督時代、パ・リーグの繁栄のため、いろんなことをやった。太平洋との“遺恨試合”もそうだ。太平洋が、“給料を出すための現金がない。営業のために遺恨試合にさせてもらえないか”といってきた。ワシは盛り上げるためと思って快諾して、煽ったんだ。」
「おかげで閑古鳥の鳴いていたスタンドに、怒ったファンが押し寄せ、大成功だった。ただ、選手やファンは事情を知らないからね。ベンチの上を見ると、ワシにひっかけるためにイチモツを出してコップに小便を溜めて、待ち構えている奴らがいるんだ。ワシは砂をぶっかけて対抗してやったよ。いやァ、無茶苦茶だったな(笑)」
「退場は監督時代に6度か。選手が腹を立てているのに、監督が知らん顔をするわけにはいかん。抗議するときは、審判に小声で『すぐに帰るから、ちょっと辛抱してくれ』と声を掛けてから、『ばか野郎!!』と怒鳴った。ベテランの審判は分かってくれたが、若手の中にはその『ばか野郎!!』で退場にするやつがいたから参った(笑)」
そのユニーク過ぎるキャラクターと唯我独尊な言動から、いまの時代だと炎上どころでは済まないお方ですが、私は憎めなくて好きでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
コメント
こんにちは。
今回は端的に(笑)
当時のロッテの一応の本拠地は県営宮城球場(現楽天生命パーク宮城)ですね。
一方川崎球場は大洋の本拠地であり、S53年にハマスタが完成し大洋が移転してその後釜としてロッテが滑り込みました。
ロッテは本来首都圏が良かったのですが止む無く仙台を暫定的に本拠地としていた事情があります。なので川崎等を使わせて貰えるなら使いたい思惑であり、丁度その時に事件が起きたんだと思います。
当時のロッテはカネやん人気もありパリーグ1の人気球団だったみたいですね。
私見として、川崎移転後の迷走ぶりや今の楽天の盛り上がりを思うと、ロッテはライオンズと逆でそのまま仙台に居た方が良かった、もしくはどこかで仙台に戻っておいた方が良かったのではないかと考えています。
結果論にしかなりませんけど。
コメントありがとうございます!ロッテが宮城>川崎、大洋が川崎>横浜というのはほとんど話題にもなりませんし知らない方が多いでしょうね。