「空白の1日」〜1978 江川卓 巨人軍電撃入団

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プロ野球
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「空白の1日」ー

1978(昭和58)年のプロ野球ドラフト会議前日、読売巨人軍が野球規約の盲点をついて“怪物“江川卓氏と契約したことを指す言葉です。いまでは「江川事件」とも呼ばれますが、リアルタイム世代からしたらやっぱり「空白の1日」事件なのです。

この一件は世間を大いに賑わせ、マスコミは異常な「個人攻撃」「猛バッシング」を展開。

 

今回は江川氏本人のみならず巨人軍、コミッショナーなど数多くの関係者が「傷だらけ」になった、この事件について振り返ります。

 

“怪物“江川卓とは?

 

作新高校時代の江川卓投手は、まさに“怪物“でした。ちなみにもともとは「大きな耳が怪物くんに似てる」というニックネームだったのですが、彼はほんとうに”怪物”でした。

左足を高々と上げて繰り出すストレートで相手打者をなで斬り。バットに当てさせない。変化球もカーブだけで、あとはほぼ直球勝負。

 

のちに松坂大輔投手など甲子園には数多くの“怪物“が出現しますが、江川卓投手は別次元。まったく打てるどころかバットにあたる気もしない剛速球を軽々と投げ続ける江川投手は「同じ人間なのか」と思えるほどだった、当時を知る関係者は口を揃えて「高校野球史上最強の投手」と称します。

 

高校3年間で積み上げた記録は数知れず。1試合奪三振23、春の選抜奪三振記録60、連続145イニング無失点、春の選抜連続奪三振8。通算ノーヒットノーランは実に12回。

 

江川氏自身は「3×9=27三振が自分の野球」と考えていたそうです。

 

江川氏の「ピーク」は高校2年生(1972 昭和47)年夏から1973(昭和48)年の春にかけての時期。全国の高校球児がたった一人のピッチャーを打ち崩すことを目標に、死にもの狂いで練習するー。いまと違い情報の少ない時代に、こんな事をさせたのは江川氏だけでした。

夏の甲子園ではTV中継の過熱で電力が不足し、関西電力がエスカレーターと冷房のストップを要請するという“社会現象“に。

 

そんな“怪物“も遂に甲子園優勝は果たせず、卒業後は大学進学を選択。1973(昭和48)年ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けますが入団を拒否します。

 

江川氏は慶應大学から熱心な誘いを受け「受ければ合格」との確約をもらいながら、謎の不合格に。法政大学に進学します。

 

高校時代、高野連などから頼み込まれ全国を遠征して過酷な連投で摩耗していた肩を大学でさらに使い込んだ(東京六大学17完封、通算47勝、当時歴代最多の17完封に443奪三振)江川氏は、プロ入り後に慢性的な痛みを抱えながら投げ続けることになります。

 

「もし江川が高校からそのままプロ野球に進んでいたら、200勝は間違いなかった」と言われます(実際は135勝)。

 

クラウンからのドラフト1位指名を拒否

 

法大4年生時の1977(昭和52)年ドラフト会議では、福岡のクラウンライターライオンズから1位指名を受けますが「九州は遠すぎる」として入団を拒否。

 

この時クラウンは西武に身売り寸前で、後に西武帝国のドン、堤義明氏も乗り出して獲得に動きますが失敗。

 

大学卒業後は「作新学院職員」としてアメリカへ留学。これは「大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間はプロ野球入団が禁じられる」ことを避けるためでした。

 

●「空白の1日」1978.11.21

 

1978(昭和53)年ドラフト会議、11月22日開催の2日前に急遽帰国した江川氏は、ドラフト会議前日の11月21日、「後見人」である自民党副総裁、船田中氏の事務所にて読売巨人軍と電撃契約。

 

これは「前年のライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失した」との解釈での強行策でした。

 

翌21日、午前9時半から東京 平河町全共連ビル6階の「オークルーム」にて巨人軍オーナーの正力亨氏、球団代表の長谷川実雄氏、船田中氏が江川卓氏同席のもと、記者会見。「巨人が江川と選手契約を結んだ」と発表し、世間は騒然となります。

セントラルリーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下しましたが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコット。巨人はこの時、連盟脱退と新リーグ構想をチラつかせ、実際に複数の球団と水面下で交渉していました。

 

そして迎えたドラフト会議当日。異例の巨人を除く11球団での開催となります。

 

巨人の「抜け駆け契約」に抗議する意味で南海、近鉄、ロッテ、阪神の4球団が江川氏を1位指名。抽選の結果、阪神タイガースが江川氏の交渉権を獲得します。

巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議と江川氏に対する阪神の交渉権は無効」と表明しますが、マスコミ、世間は「巨人と江川の横暴を許すな」と猛バッシングを開始。

 

連日、スポーツ新聞だけでなく一般紙にも江川氏に対する個人攻撃、人格否定のヒステリックな論調が掲載され、プロ野球OBをはじめとする関係者による辛辣なコメントが並びました。

阪神の度重なる交渉も江川サイドは拒否し続け、問題はこじれにこじれます。

 

●金子コミッショナーの「強い要望」

 

プロ野球コミッショナーの金子鋭氏は12月21日、「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」としてドラフト会議の結果はそのまま有効、その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」という裁定を発表します。

 

しかし翌12月22日、金子コミッショナーは一転、プロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という「強い要望」を提示します。

 

これはあくまでも江川獲得の正当性やリーグ脱退を主張する巨人に対する批判が強まり今後のプロ野球運営に支障をきたすことを避けるため、と言われますが、「朝令暮改」として世間のさらなる反発を招きました。

●“悲劇のヒーロー“小林繁

 

期限である1979(昭和54)年1月31日、江川氏は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになりました。

 

小林繁投手は宮崎キャンプへ出発するため集合した羽田空港で呼び出され、車中でトレードの話を聞いたとされます。

 

2月1日午前0時より巨人は東京 大手町の読売新聞本社にて江川氏と小林投手のトレードを正式に発表。

 

小林投手は午前0時40分から同社8階で記者会見し「結論からいえば阪神にお世話になることになりました。その大きな理由は、野球が好きで、これからもずっとやっていきたいと思うからです。阪神の人たちに強く望まれていくんだから精いっぱいやりたい気持ちでいっぱいです」などと語りました。

 

対する江川氏は同日正午から平河町の船田事務所にて記者会見。冒頭、朝日新聞記者から罵声を浴びせられ「興奮しないでやりましょう」と切り出した上で、「僕は一貫して人に迷惑をかけないという信念でやってきたつもりだが、結果的には小林さんとのトレードという形になった。しかし、小林さんの阪神へ移籍する立派な記者会見を聞いたりして、非常に感謝している。いつか小林さんに追いつけるようがんばりたい」などと語りました。

 

この事によりさらに江川氏に対する世間の風当たりは強くなり、“太々しい悪玉=江川卓““潔い悲劇のヒーロー小林繁“という図式でさらに書き立てられ、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)、1960年代に子供が好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌われものの「江川・ピーマン・北の湖」などの流行語が生まれました。

●コミッショナー辞任

 

この後、球界内外から「新人選手の開幕前のトレードは野球協約違反」との批判が高まり、2月8日のプロ野球実行委員会で金子コミッショナーは「強い要望」を全面撤回。両氏のトレードについても白紙撤回し、改めて「小林投手の阪神への移籍は認め、江川の移籍は開幕日まで凍結する」と決定。

 

巨人は江川氏の公式戦出場を開幕から2カ月自粛することと表明し、金子氏は騒動の責任を取りコミッショナーを辞任しました。

 

金子氏は富士銀行の頭取だったお方で、大の巨人ファン。ドラフト制度の導入に尽力した方で、この事件については最後まで弁明せず、1982(昭和57)年にお亡くなりになりました。

 

辞任後、プロ野球に関わったことを悔やみ、新聞記事を見ることすら嫌い、葬儀の際にプロ野球関係から贈られた花輪は目立たないところにひっそりと飾られた、という逸話もあります。

 

●デビュー、因縁の対決

 

江川氏は春季キャンプへの参加が認められず、地元の栃木で自主トレ。開幕後の4月7日、巨人と阪神との間で譲渡手続きが行われ、ようやく江川氏の巨人入りが正式に決まりました。

 

江川氏は6月1日、一軍登録され、翌6月2日の阪神タイガース戦で初登板デビューとなりました。江川投手はラインバックの逆転3ランなど3ホーマーを浴び5失点で負け投手となりましたが、ペナント序盤の一戦がテレビ視聴率39.9%を記録、79年スポーツ中継で1位に輝くほど、異様な注目の中での登板でした。

 

江川×小林の直接対決は8月16日に実現。結果は5-3で巨人が勝利、江川投手が完投勝利。小林投手は5回に江川氏に勝ち越しのヒットを打たれて4失点で降板し、敗戦投手となるドラマチックな結果でした。

小林繁投手は「ジャイアンツだけには負けたくない」と巨人戦に合わせて自分のローテーション組むよう、ドン ブレイザー監督に直訴。開幕2戦目となる4月10日の甲子園球場での試合を皮切りに「巨人戦8連勝」。年間22勝、防御率2.89という成績を挙げて2年ぶりに沢村賞及びベストナインを獲得しました。

 

一方の江川投手の1年目は27登板、9勝10敗でした。

 

”ダーティイメージ”

 

江川投手はその後、文字通り巨人軍のエースとして華々しい活躍をみせますが、入団時のイメージが長期間にわたってつきまといました。

 

1980(昭和55)年には16勝、1981(昭和56)年には20勝を上げ最多勝タイトルを獲得しますが、「沢村賞」は受賞できませんでした。記者会見において「江川は沢村賞の人格に値しない」といった発言もあり、翌年からは明確な選考基準や沢村賞選考委員会が設けられ、公平公正な選考が実施されるようになりました。

 

もっとも、その圧倒的な実力には当時あれだけ批判的だった週刊誌も「悪くて強くて凄いダーティヒーロー。徳川家康、田中角栄、江川卓。こういうダーティーヒーローがいてこそ、世の中は面白くなる」などと掌を返し、徐々に愛されるキャラクターへと変貌していきました。

 

そんな江川投手は1987(昭和62)年、32歳で電撃引退。

通算成績は266試合登板、135勝72敗3セーブ、防御率3.02 でした。

 

●小林繁と江川卓

 

小林繁投手は1999年の自著で江川氏について「江川個人に対する恨みつらみはない。ただ、他人の人生を変えてしまったことは、まぎれもない事実」「一人の人間のとった行動が、別の誰かの人生を全く違う方向に押しやってしまったわけですよ。そういうわだかまりみたいなものはやっぱりあります」と述べた上で、

 

「結局、価値観の違う人間なんだと思っています。自分がこうしたいという望みがあるときに、それは自分の手でつかむものであって、何かを踏み台にしたり、誰かを犠牲にしたりして得るものではない、というのが本質的に僕の考え方だから。だから、僕には彼がまったく異質な人間としか思えない。 よく、あのときのバッシングによって、彼も苦しみを味わったんだと言う人がいる。でも、それは自分が前向きに選んだことでしょう。誰かに「そうしなさい」と言われてしたことじゃなくて。……だから本人は、そういう覚悟の上で、やらざるを得ないでしょう。そこでバッシングを受けたから可哀想なんじゃなくて、彼の立場からすれば、それは甘んじて受けるという覚悟で入らなければいけない。初めから、そうなるのはわかっていたことでしょう。」と語っています。

 

そして2007年、黄桜のCMで2人の和解をテーマにした対談がセッティングされました。

 

当初小林氏は「いまさら出るつもりはない」「俺がやると言っても、江川君はどうなの?断ると思うよ」と答えましたが、江川氏の「小林さんさえよければやりたい」という意向を聞いて承諾します。

撮影後、小林繁氏は「若い頃って、自分がしんどいことばかり考えているんですよ。だけど、たぶん江川も、すごくしんどかったんですよね。もしかしたら俺よりも苦しい人生を送ってきたのかもしれない…。だから結末をつけてやらなきゃいけないかなって思ったね。彼のしんどさに結末をつけないと、俺も結末がつかないからね。 あと江川と話して、もうひとつ解ったことがあるんだ。それは、あいつにも趣味がない。俺にも趣味がないように。事故が恐いからって、週末に家族をドライブに連れていこうともしなかったんだ。俺たちには、野球がすべてだった。家族を犠牲にしてまで、俺たちは野球をやっていた。あいつも夢中で野球をやっていたんだなぁって実感した。」と語っています。

 

コメント

  1. 1958年生まれのおじさん より:

    法や制度には、弱者を救うという側面と強者の既得権益を守るという二つの側面があります。プロ野球のドラフト制度でいえば、前者は当時の巨人一強を防ぐため、後者は球団側の買い手市場をキープする目的。
    しかし、私の専門に当てはめると、東大を目指して努力している受験生に、大学が談合・抽選して、「キミは今年は三流のA私立大学しか受けられないよ」といっているようなもの。当時阪神ファンだった私のオヤジも、「本人が巨人行きたがってて、その力があるねんから、行かしたったらええねん」とボヤいてました。
    それにしても、江川氏への当時のバッシングは酷く、世間一般からだけでなく、巨人のチーム内でも氏が登板する時には手抜きでプレーする選手もいたという話も…
    「高校時代が全盛期」といわれる江川氏がスンナリNPBに入っていれば、凄い記録やパフォーマンスを観れたかもしれないと思うと残念でしたね。
    長文で失礼します!

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。ホントに、江川投手が高校卒業してすぐにプロ野球に進めていたら、いったいどれほどの記録を残したのでしょうね。もっとも、高校時代から高野連をはじめとする大人たちの都合で全国遠征などで酷使されていたそうですが・・・才能がありすぎるというのもなかなか残酷なことなのだと思いますね。。。

  2. シュガー麗 より:

    ◇「『江川と巨人による入団契約は認めない』ことと『阪神の江川に対する交渉権獲得を認める』」がそもそもの間違い。これこそが~【ルール違反】。

    日本中1億総集団催眠に陥り平静さを失い、プロ野球の憲法である≪プロ野球協約≫というものを完全に反故にした。
    その間違いを未だに国民全体が気づいていない。

    『空白の一日』は存在するし、「24時間以内であれば、どの球団とも契約可能」。
    ※機会均等の「法の公正」に照らし合わせても完全合法

    上記の事実を”何十年も”見過ごしていた球界のボーンヘッド。
    自らの瑕疵を素直に認め「江川と巨人による入団契約は可」そのかわりに「今年のドラフト会議に巨人は参加させない」で決着を図るべきだった。

    球界は「私たちのミスでした」を「(ルール通りに)やった側が悪い」と責任転換。
    ドラフトに江川卓をまたかけ、阪神に指名させた。

    自分たちに非がある負い目から「コミッショナーの強い要望」という訳の分からぬことで
    両球団のトレードに。結局その尻拭いは「選手(江川・小林)に押し付ける」という最低最悪の結果を招く。

    で、しれっと「『空白の一日』はなかったことに・・・」でルール改正ときたもんだ。
    それまで何十年もやってきたルールは何だったんだ。「悪法も法」なり。

    「感情で法が歪められる」という法治国家としてやってはいけないことを国民全体が後押しした歴史的事件。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。まさに「日本中1億総集団催眠に陥り平静さを失い」「「感情で法が歪められる」という法治国家としてやってはいけないことを国民全体が後押しした歴史的事件」でしたね。
      巨人&江川氏がヒール(っぽい)キャラだったことも後押ししたとはいえ、国民総ヒステリー状態で人権無視の集団攻撃をした事実は忘れちゃいけないと思います。しかしあの法の隙間を見つけたのは誰だったんでしょうか。いろいろ文献をあたりましたが、曖昧な記述ばかりで・・・。

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