先日来、NHKで「伝説のライブ」と称して、1989年の中森明菜さんのライブが繰り返しオンエアされました。
令和の時代に世代を超えて再評価の声が高まるのは嬉しいのですが・・・このライブだけを取り上げて「伝説」扱いするのは、当時を知らない人が勝手に「後付け」で騒いでるように聞こえます。同様の違和感を覚える人は、少なくないでしょう。
リアルタイム世代からすると、中森明菜さんの”全盛期”はこれよりも数年前、1982-1985年の3年間であり、かつまた彼女は、TBS「ザ・ベストテン」日テレ「トップテン」、そしてフジ「夜のヒットスタジオ」など、歌番組こそが至高。
そこで今回は、昭和の歌姫・中森明菜さんの全盛期の真の魅力を、初期シングル10+1曲の懐かしい映像を通してご紹介します。
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- 「博多どんたく」での出会い
- 「スター誕生!」
- 花の82年組
- 地獄のキャッチフレーズ
- ① スローモーション 1982年5月1日/30位/17.4万枚
- ②少女A 1982年7月28日/5位/39.6万枚
- ③セカンド・ラブ 1982年11月10日/1位/76.6万枚
- ④ 1⁄2の神話 1983年2月23日/1位/57.3万枚
- ⑤ トワイライト -夕暮れ便り- 1983年6月1日/2位/43.0万枚
- ⑥ 禁区 1983年9月7日/1位/51.1万枚
- ⑦ 北ウイング 1984年1月1日/2位/61.2万枚
- ⑧ サザン・ウインド 1984年4月11日/1位/54.4万枚
- ➈ 十戒 (1984) 1984年7月25日/1位/61.1万枚
- ⑩ 飾りじゃないのよ涙は 1984年11月14日/1位/62.6万枚
- ⑪ ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕 1985年3月8日/1位/63.2万枚
- 80年代、栄光のアイドル・歌謡曲時代の終焉
「博多どんたく」での出会い
中学当時、周囲の「ちょっとツッパリ」な同級生の女子は全員、明菜ファンでした。セットの大変そうなレイヤードの髪型で、ペタンコなカバンに、長いスカートを翻していました。
私が最初に「中森明菜」を認識したのは、小学6年生の時に、たまたま通りがかった「博多どんたく」のステージ。当時の「博多どんたく」は5月の連休中という事もあり、その年のデビューしたての新人アイドル キャンペーンの檜舞台でした。
繁華街 中洲の川の上にヤグラが組まれ、たくさんの新人アイドルが歌っていましたが、たまたま私が通りがかったときに、彼女が出演していたのです。
と言っても、人だかりで本人はまともに見えず。「AKINA命」「あきなLOVE」などと書かれたハチマキに特効服、ハッピを着た怖そうな親衛隊が勢ぞろいして大声で声援を送っているのを眺めて、「アキナ、という名前のアイドルがいるらしい」と、妙に記憶に残りました。
そんな彼女、それからしばらくはあまりTVでは見かけませんでしたが、ある日突然「少女A」でブラウン管に登場。「あれ、あの時のアキナ、ってこの人か」「こんなの唄うんだっけ、なんかイメージ違うな」とか思っていたら、あれよあれよとトップアイドルに。
一度見かけただけなのですが、なんだか勝手に「よかったなぁ売れて」と変な親近感が沸いたのを覚えています。
「スター誕生!」
中森明菜は、1965(昭和40)年7月13日生まれ。日本テレビ系の伝説のオーディション番組「スター誕生!」に合格(当時16歳)して、1982(昭和57)年に歌手デビューしました。
明菜は母親からの強い勧めでこのオーディション番組に出演。本人は特に歌手志望ではなく「苦労している家族を少しでも楽にしてあげたい、という気持ちで応募した」と語っています。しかし、いきなり合格、とはならず、3度目のチャレンジでの合格でした。
1度目は岩崎宏美の「夏に抱かれて」を唄い、某女性審査員から「この曲はあなたには大人っぽすぎる、年相応の曲を歌うべき」と指摘され、不合格となります。
そこで2度目は松田聖子の「青い珊瑚礁」を唄うと、同じ女性審査員から「幼すぎる。童謡でも歌ったらどうかしら」と言われ、またも不合格に。さすがに憤りを感じた彼女は直接抗議しようとしましたが、母親に止められたのだそうです。
そして3度目。この時は自身の強い意志で山口百恵の「夢先案内人」を歌い、スタ誕史上最高得点の392点を獲得、レコード会社と芸能事務所選考も見事クリアしてデビューが決定しました(それでも某女性審査員は低評価だったそうですが)。
花の82年組
中森明菜がデビューした1982(昭和57)年は、後に「花の82年組」と呼ばれるアイドル黄金時代。
堀ちえみ、石川秀美、小泉今日子、早見優、松本伊代(前年末デビュー)、シブがき隊に加えて、原田知世、伊藤さやか、つちやかおり、三田寛子らが大量にデビューしています。
中でも中森明菜は歌唱力とルックスで「レベルが違う」感があり、山口百恵が引退した1980(昭和55)にデビューした松田聖子と並び称される、トップアイドルに駆け上がりました。
キラキラした王道アイドル、”陽”の魅力の松田聖子に比べ、”陰”があり、芯の強さを感じさせる中森明菜は、「百恵路線の正当後継者」的な魅力に満ちていたことも人気の要因だったと思います。他のアイドルがほぼ横並びで「量産型聖子ちゃん路線」だっただけに、余計に際立ちました。
地獄のキャッチフレーズ
中森明菜のキャッチフレーズは、「ちょっとHな美新人(ミルキー)っ娘」。
「ルーキーと美人をかけたんや!」とドヤ顔で言われても、真顔で「センスなさすぎ」と返すしかありません。周囲にもからかわれ、本人も相当イヤだったとか。
① スローモーション 1982年5月1日/30位/17.4万枚
作詞:来生えつこ/作曲:来生たかお/編曲:船山基紀
デビューシングルには、アルバムに収録された4曲の候補の中から「来生姉弟コンビ」が手掛けた本作が選ばれました。ドラマチックで美しいメロディ、私は大好きなのですが、当時の「新人アイドルのデビュー曲」としてはいささか地味でした。しかも、この楽曲に決まるまで二転三転し、同期アイドルに比べて少し遅れて5月発売となります。
いま聞くと初々しい歌声に驚きますが、伸びやかで岩崎宏美のような「正統派」の魅力を感じます。
ライバルが多いだけにオリコン初登場は58位、最高位も30位どまりでしたが、計39週に渡って100位以内に留まっています。
②少女A 1982年7月28日/5位/39.6万枚
作詞:売野雅勇/作曲:芹澤廣明/編曲:萩田光雄
82年夏、2ndシングル「少女A」をリリース。このスキャンダラスでセンセーショナルな楽曲が、彼女の最初のブレイクとなります。
巻き返しを図るため当初路線を変更してコンペで選ばれたこの楽曲は、作詞の売野雅勇氏が沢田研二に提供してボツとなっていた「ロリータ」という詞を改作、そこに芹澤廣明氏によるハードなギター、ロック調な楽曲が付けられました。重低音を活かしたこのテイストはほかの新人アイドルとは異色で、目立ちました。
まだ「ヤンキー」という呼び方はなく当時は「ツッパリ、不良、非行少年(少女)」。「外見や行動は不良だが中身は純情」というこの路線は山口百恵、三原順子から存在しており、80年代の「金八先生」「積み木崩し」「横浜銀蝿」などの世相を表現した楽曲、として注目を集めました(本人は歌うのを拒絶したそうですが)。
これにより松田聖子の清純路線に対抗する「ポスト百恵」的イメージも得た彼女は、一気に若い男性層の人気を獲得してオリコン5位にランクインし、「夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン」への初出演も果たしました。
③セカンド・ラブ 1982年11月10日/1位/76.6万枚
作詞:来生えつこ/作曲:来生たかお/編曲:萩田光雄
普通ならそのまま「ツッパリ路線」で行くところですが、3rd.シングル「セカンド・ラブ」はデビュー曲「スローモーション」と同じ、清純派路線に戻ります。
この楽曲では少し大人びた恋愛の心情を見事に歌い上げ、自身初のチャート1位を獲得。20代、30代の女性層からの支持が集まるようになります。
結果、見事に初のオリコン1位(通算6週)、「ザ・ベストテン」で8週連続1位を獲得、70万枚を超える彼女最大のセールス楽曲となり、一躍トップアイドルとなりました。
④ 1⁄2の神話 1983年2月23日/1位/57.3万枚
作詞:売野雅勇/作曲:大沢誉志幸/編曲:萩田光雄
そして1983年2月、4作目で再び「ツッパリ路線」のロックテイスト楽曲を持ってきます。当初は「不良1/2」というタイトルでしたが(ダサい)、「NHKで放送できない」との理由で変更されました。
作詞は売野雅勇氏、作曲は気鋭の若手アーティスト大沢誉志幸氏。前作に続いてのオリコン1位、60万枚に迫るビッグセールスとなり、ザ・ベストテンでは7週連続1位、年間ベストテンでも8位となりました。
⑤ トワイライト -夕暮れ便り- 1983年6月1日/2位/43.0万枚
作詞:来生えつこ/作曲:来生たかお/編曲:萩田光雄
そして来生コンビによる「スローモーション」「セカンド・ラブ」路線の楽曲「トワイライト-夕暮れ便り-」が5作目のシングル。40万枚を超えるスマッシュヒットとなります。しかし・・・この楽曲のオリコンチャートは2位。1位となったのは発売2週目の薬師丸ひろ子「探偵物語」でした。
それでも、
・清純路線、ミディアム調
・ツッパリ路線、ハード調
を交互にリリースする戦略は男性層、女性層に広くアピールし、彼女のファン層拡大につながりました。もし安易に「少女A」路線を続けていたら…一発屋で終わっていたかもしれず、彼女のブレーン、スタッフの戦略は見事です。
こんな映画音楽のようなドラマチックで良質な歌謡曲は、もはや絶滅してしまいましたね・・・
⑥ 禁区 1983年9月7日/1位/51.1万枚
作詞:売野雅勇/作曲:細野晴臣/編曲:細野晴臣・萩田光雄
続く6枚目は作詞 売野雅勇氏、作曲はYMOの細野晴臣氏です。シンセドラムの音色と、オトナとの危険な恋愛を描いた、細野さんらしい音階が印象的な不思議な楽曲です。
この楽曲はクールでテクノなレコーバージョンと、TV歌番組のオーケストラバージョンで印象が大きく違います。このいかにも”細野節”なオリジナルアレンジは、バンドでは再現難しかったでしょうね・・・。
彼女はここからバラエティ豊かな有名アーティストからの楽曲提供を受けて、さまざまなスタイルに挑戦していきます。
そしてこれらのシングル、そしてアルバムも名曲揃いでいずれも大ヒットし、1983年歌手別総合売上1位を獲得。さらに、日本レコード大賞「ゴールデンアイドル・特別賞」を受賞、ブロマイド売上実績の女性部門で首位に。
完全に数多くの同期アイドル達からアタマ一つ抜き出て、松田聖子と双璧をなす、「80’トップ オブ トップ アイドル」となりました。
⑦ 北ウイング 1984年1月1日/2位/61.2万枚
作詞:康珍化/作曲・編曲:林哲司
デビュー3年目となる1984年、この頃から「明菜本人によるセルフプロデュース」が鮮明になります。
7枚目のシングル「北ウィング」は作詞 康珍化氏、作曲 林哲司氏コンビの作品。エアポートを舞台にしたスケールの大きな大人の恋愛を描いています。
明菜はこのコンビが手掛けた杉山清貴&オメガトライブの「SUMMER SUSPICION」を聴いて惚れこみ、楽曲をオファーしたと言われています。
ちなみに林哲司さんは今なおJ-POPの名曲として世界中で再評価の声が高い松原みき「真夜中のドア」、竹内まりあ「SEPTEMBER」を手掛け、さらにこの後、菊池桃子の全ソロシングルの作編曲を手掛けたお方。
タイトルも当初予定の「ミッドナイト・フライト」から本人の意思で変更され、ジャケット写真も当時のアイドルとしては異例の「顔アップ」ではなく、これも本人の意向を反映したものだそうです。
非常に完成度が高く、ファン人気も高い本作ですが、シングルチャートでは2位止まりなのが驚きです。その理由は、前年12/21に発売された、わらべの「もしも明日が」(年間売上1位のミリオンセールス)に阻まれたからでした。
⑧ サザン・ウインド 1984年4月11日/1位/54.4万枚
作詞:来生えつこ/作曲:玉置浩二/編曲: 瀬尾一三
8枚目のシングル「サザン・ウインド」は、作詞 来生えつこ氏、作曲に当時、「安全地帯」で人気絶頂の玉置浩二氏を起用。
この楽曲から彼女の楽曲に「異国っぽさ」「エスニック」という新たな魅力が加わります。彼女の意向で間奏にYESの「LONERY HEART」を思わせるオーケストラヒットが入っています。
➈ 十戒 (1984) 1984年7月25日/1位/61.1万枚
作詞:売野雅勇/作曲:高中正義/編曲:高中正義・萩田光雄
9枚目「十戒(1984)」は作詞 売野雅勇氏、作曲にフュージョンギタリストとして有名な高中正義氏を起用。音楽業界でも話題になりました。
この楽曲は封印したと思われていたツッパリ路線に回帰し、集大成的なハード路線で大ヒットとなりました。なんたって「イライラするわー」ですよ。
ちなみに…この謎のタイトルは「10回 イクわよ」の隠語だ、という説を読んだことがあります…真意のほどはわかりません。
この時期、これまでのツッパリ路線、さらに来生コンビによる清純路線も終息、「アイドル」から「アーティスト」への方向性の転換が図られました。
⑩ 飾りじゃないのよ涙は 1984年11月14日/1位/62.6万枚
作詞・作曲:井上陽水/編曲:萩田光雄
10作目となる「飾りじゃないのよ涙は」は井上陽水氏の作詞 作曲。
まさに陽水ワールド全開のアーティスティックで難解な楽曲を見事に唄いこなし、幅広い層から支持されました。
⑪ ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕 1985年3月8日/1位/63.2万枚
作詞:康珍化/作曲・編曲:松岡直也
デビュー4年目となる1985年。11作目となるシングル「ミ・アモーレ」でレコード大賞を受賞。中森明菜は名実共に歌謡界の頂点に立ちます。
この楽曲は作詞 康珍化氏、作曲と編曲はラテンミュージック界の大御所、松岡直也氏によるものです。
「リオのカーニバル、サンバのリズム」という歌詞の通り異国情緒に溢れたこの曲は、別歌詞「赤い鳥逃げた」として当時流行りの「12インチシングル」も発売されこちらもオリコン1位の大ヒットとなりました。
80年代、栄光のアイドル・歌謡曲時代の終焉
この後、「SAND BEIGE -砂漠へ-」「SOLITUDE」「DESIRE -情熱-」などなど、中森明菜さんは多彩な作家陣による、バラエティ豊かなヒットシングルを連発します。
1980年代のシングル総売上げ932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数22曲と、どちらも当時の女性アイドル中、ナンバー1。
さらにはTBS「ザ・ベストテン」で1位週数69週で番組史上最多、1位獲得曲数も17曲で歴代1位と、まさに80年代を代表する女性歌手となりました。
1989年7月、交際していたトップアイドル、マッチこと近藤真彦さんの自宅マンションで自殺未遂事件を起こし、1年間の活動休止となりますが、復帰後の90年代もドラマ主演などで活躍。
しかし、80年代の終焉と共にテレビの音楽番組も曲がり角を迎え、栄光のアイドル、歌謡曲の時代も終わりを告げました。
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