今回は、リクエストにお応えしていまなお色あせない永遠のスーパースター、ブルース リーを取り上げます。
ブルース・リー(Bruce Lee/李小龍)は1940(昭和15)年生まれ。
香港の中国武術家、武道家、俳優、脚本家、映画プロデューサーでアジア人として初めてハリウッド スターになりました。截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストであり、現在では総合格闘技の始祖として語れることも多くなりました。
主演映画はわずか4本。
「ドラゴン危機一発」、「ドラゴン怒りの鉄拳」、「最後のブルース・リー ドラゴンへの道」
そして「燃えよドラゴン」で香港映画からハリウッドに舞台を移し、これから、というタイミングで当然の急逝。
死後5年後に生前残したシーンを拡張して公開された「死亡遊戯」を加えても、5本しかありません。
しかし、アクション映画にリアリティのある格闘戦を持ち込んだことで巻き起こした一大旋風は、後のカンフー映画だけでなくあらゆるアクション映画、そして格闘競技に多大な影響を与え、世界中にすさまじい数のフォロワーが存在ます。
さらにはマンガや格闘ゲームなどジャンルを超えていまだに彼をモデルにしたキャラが登場するほど、ブルース リーはオリジナリティとインパクトのある”カリスマ”なのです。
▼生誕80周年記念・4Kリマスターサイト
http://brucelee4k.com/
半ば神話となった、その生涯を簡単に振り返ります。
■生い立ち
リーは旅芸人であり映画俳優の父親(李海泉)と母親(ドイツと中国のハーフ)が家族を連れてアメリカ巡業中、1940(昭和15)年(辰年)の午前8時(辰の刻)にサンフランシスコの中華街の病院で生まれます。本名は李振藩。銀幕デビューはわずか生後8か月の時でした。
その後、家族は香港に帰国。当時の香港は白人に支配される英国領で、1941年12月からは日本軍の統制下に入る複雑な場所。中国本土から戦争を逃れた避難民が殺到し、街は混沌としていました。
リーは大戦終了後の8歳頃から、子役として数々の映画に出演。
上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の指導を受け、13歳から5年間、詠春拳の使い手、葉問(イップマン)のもとで修業しています。
香港時代は喧嘩に明け暮れる不良で、「このままではロクな大人にならない」と危惧した両親は、18歳のリーに単身渡米を命じます。
リーは100ドルだけを手にアメリカへ。シアトルで新聞配達のアルバイトをしながら職業訓練学校に通い高校卒業資格を得て、一念発起し名門・ワシントン大学哲学科に進学。東洋から西洋まで幅広く思想・哲学にのめり込みます。そして高校で哲学の講師をしながら、「振藩國術館」を開き、中国武術の指導を始めます。
そして大学を中退、截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始。将来はこの道場を全米各地に広げる夢を抱いていました。この頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人、リンダ夫人と結婚。
ちなみに香港時代に覚えたダンス(チャチャ)は大会で優勝するほどで、小遣い稼ぎにアメリカ人にレクチャーしていたのだそうです。
■香港映画スターへの道
1966(昭和41)年、国際空手選手権で演武したフィルムがTVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ「グリーン ホーネット」の準主役に抜擢。
リーは正義のヒーロー、グリーン ホーネットの助手兼運転手として、目の周りにマスクをつけた日系アメリカ人「カトー」役を演じて人気者になります。
あまりに動きが速すぎて撮影できず、「もっとゆっくりアクションしてくれ」と指示されたそうです。
これをきっかけにロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを相手に武術の個人指導を行うように(タランティーノ監督の最新作「ワンス アポン ア タイム イン ハリウッド」でこの辺りのリーの姿が描かれていますね。いささか悪く描かれすぎですが・・・)。
またこの頃、自身の主演による連続テレビドラマ「燃えよ!カンフー」を企画し売り込みを行いますが、当時、東洋人の主演はアメリカでは受け入れられず挫折(英語に訛りがあることも理由に挙げられました)。本作はデヴィッド キャラダイン主演で大ヒットし、1974年~80年代に日本でも放映され、リーは「原案」とクレジットされました。
さらにこの頃、練習中に腰の神経を負傷。医師からはカンフーはやめろと言われるほどの重傷でしたが、鍛錬を重ね奇跡的に回復。しかしこの頃からリーは己の肉体の限界との恐怖、残された時間への焦燥感に煽られるようになっていきます。
1970(昭和45)年、アメリカでの活躍に見切りをつけたリーは、香港に帰国。思いがけぬ歓待を受けます。この頃、香港ではTVドラマ「グリーンホーネット」が爆発的な人気。さらに米中国交正常化の動きの中で、アメリカ帰りのリーは新時代のスターとして注目を浴びたのです。
そしてリーは、新興映画会社ゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と契約。
1971(昭和46)年、主演映画「ドラゴン危機一発」が公開されるや、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットに。
そして1972(昭和47)年、主演第2作「ドラゴン怒りの鉄拳」(主演/武術指導)、3作目「ドラゴンへの道」(自らコンコルド・プロダクションを設立、製作/監督/脚本/主演)が立て続けに大ヒット。
この3作でリーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは香港最大の映画会社となりました。
この年の秋、監督として2作目となる「死亡遊戯」の撮影がスタート。「世界各国の強豪が待ち構える塔を上りながら戦う」というプロットは、後の格闘作品に多大な影響を及ぼすコンセプトでした。
しかし当時の香港映画界は予算もなく、作りもチープでリーの満足のいくものではありませんでした。完璧を求めるリーは周囲と衝突し、自ら監督から何から一手に引き受けるようになり、どんどん自らを孤独に追い込んで行きます。
そしてここでハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションの合作映画「燃えよドラゴン」の企画が持ち上がります。リーは「死亡遊戯」の撮影は中断し、再びハリウッドへ再進出を図ります。
■ハリウッドスターへの道、急逝
1973(昭和48)年、年明けから「燃えよドラゴン」の撮影が始まります。
晴れてアメリカ再進出を果たしたリーの意気込みは高く、エキストラへの武術指導、脚本や撮影にも詳細に意見を出し衝突も多かったそうです。結果、完成した作品への関係者の評価は高く、リーは本格的に「東洋人初のハリウッドスター」として売り出しが検討されました。
ところが7月20日、リーが急逝(享年32歳)。
遺作となった「燃えよドラゴン」がアメリカを皮切りに世界各地で大ヒットしたのは、リーの死後でした。
そして死後、これまでの主演作「ドラゴン危機一髪」などが立て続けに世界各国で公開され、ヒットを記録していくのです。
■日本での公開
日本でブルースリーの主演作が公開されたのは、リー没後の1974-75(昭和49~50)年。
公開順が一部、入れ替わっています。
「ドラゴン危機一発」(1971) →日本では1974年4月公開 洋画部門 配収 第4位、6億円
「ドラゴン怒りの鉄拳」(1972)→日本では1974年7月公開 洋画部門 配収 第4位、6億円
「燃えよドラゴン」(1973) →日本では1973年12月公開 洋画部門 配収 第2位、16億4200万円
「ドラゴンへの道」(1972) →日本では1975年1月公開 洋画部門 配収 第6位、7億7200万円
「死亡遊戯」(1978) →日本では1978年4月公開 洋画部門 配収 第5位、14億5000万円
ちなみに、1974(昭和49)年の邦画と洋画を合わせた日本での配給収入ランキングは、以下の通りの顔ぶれです。
1位「エクソシスト」(ワーナー) 27億3200万円
2位「燃えよドラゴン」(ワーナー)16億4200万円
3位「日本沈没/グアム島珍道中」(東宝)16億4000万円
4位「パピヨン」(東和) 13億0000万円
5位「ノストラダムスの大予言/ルパン三世 念力珍作戦」(東宝)8億8300万円
6位「砂の器」(松竹)7億0000万円
7位「ドラゴン怒りの鉄拳」(東和)6億0000万円
7位「ドラゴン危機一発」(東和) 6億0000万円
9位「スティング」(ユニバーサル) 5億6000万円
9位「ダーティハリー2」(ワーナー) 5億6000万円
「ドラゴン怒りの鉄拳」では日本人が極悪の敵役で登場、当時まだ知名度もない「カンフー映画」ということで配給会社は当初、ヒットしないのではと危惧したようですが…公開されるとそんな心配をよそに大ヒットを記録。
”怪鳥音”と呼ばれる独特な奇声、ヌンチャク、佇まいと表情から所作に至るまで爆発的な支持を受け、当時の子供たち(大人もですが)はこぞってモノマネ。学校では「ヌンチャク禁止令」が出されるほどの一大ブームを巻き起こします。
■主演作品解説&オリジナル予告編集
①「ドラゴン危機一髪(THE BIG BOSS)」
記念すべき香港凱旋第1作。日本では「燃えよドラゴン」に続いて公開されました。
当初は準主役の予定が、あまりのインパクトで急遽主演になったのだとか。
この時はまだ怪鳥音もヌンチャクも登場しませんが、後に音を被せ上映されています。
ちなみにタイトルは007 2作目のパクり(「ロシアより愛をこめて」は当初、「007危機一髪」だった)なのだそうです。
②「ドラゴン怒りの鉄拳(FIST OF FURY)」
日清戦争直後の調子に乗った日本人が敵役で複雑な気分になりますが、リーファンの間では影の名作と評価の高い作品。
怪鳥音とヌンチャクはこの作品から。若き日のジェッキー チェンもアクションシーンに登場し、ぶっ飛ばされます。
③「ドラゴンへの道(THE WAY OF THE DRAGON)」
リーが初めて監督・脚本・武術指導・主演の4役を務めた作品で、香港映画には珍しいローマロケを敢行。他の作品と比べると明るいリーが印象的です。
ラストのコロッセオにおけるガチ空手家チャック ノリスとの死闘は、ブルース リー作品中でベストに挙げられます。
④「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)」
知らない人はいないBGM、最も有名かつ代表作。かの有名な台詞「Don’t think. FEEL !(考えるな、感じろ)」。
ハリウッドらしく007のカンフー版的な作品で賛否あり、地元香港では(大スター死去の直後にも関わらず)これまでの作品の配収を凌ぐまでには至らず。
しかし、日本をはじめ世界中で大ヒットし、多くのフォロワーが生まれた作品です。
⑤「死亡遊戯(GAME OF DEATH)」
本作をブルースリーの主演映画とするかは異論あり。1972年秋、クライマックスのアクションシーンのみを撮影後に「燃えよドラゴン」の制作のため中断、そのまま急逝し未完となっていたものを、約5年後に完成、公開した作品だからです。
監督は「燃えよドラゴン」のロバート クローズとサモ ハン キンポー。
ハリウッドのキャストで脇を固め、リーの代役にユン ワーやユン ピョウが起用されました。
日本では大ヒットしましたが、世界的にはそれほどのヒットにはならなかったのだとか。
■截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)とは?
「ジークンドー」とはブルース リーが創設した、打撃・投げ・極めなどの全局面で戦うことを想定した総合技術体系。
当時はまだ「総合格闘技」という概念がなく、中国拳法をベースにボクシング、ムエタイ、フェンシング、柔道などの武道などの使える技術や戦術を取り入れ、通常は禁じ手とされているサミングや金的攻撃なども含め「最短で相手を倒す」ということに特化しています。
最大の特徴は、強い力を生み出せる利き手を前に構えて「最短距離で強打を相手に到達させる”ストレートリード”」。フェンシングのように遠い間合いから、一気に踏み込んで前に構えた利き手からの強打を相手に叩き込みます。
リーの人気とカリスマからもっとメジャーになってもよさそうですが、32歳の若さで死去してしまったため引き継いだ弟子たちの間で解釈が分かれ、アメリカで裁判まで起きる泥沼の派閥・利権争いも繰り返されまとまりがなく、現在も日本には同好会があるのみで、正式な常設道場がない状態なのだそうです。
■総合格闘技への影響
「燃えよドラゴン」冒頭のサモ ハン キンポーとの試合は、総合格闘技の原点とも言われます。
オープンフィンガーグローブを付けた打・投・極の攻防。これを1973年にやっていたとは・・・(冒頭のシーンですが実際の撮影は最後に行われ、リーの生前最後のアクションシーンなのだとか)。
日本における”総合格闘技”はアントニオ猪木の格闘技戦が有名ですが、その弟子である佐山聡氏(初代タイガーマスク)はリーの影響がもっとも色濃く、興味深いです。
なにせタイガーマスクになる直前のイギリス遠征時代のリングネームは「サミー リー」。”ブルース リーのいとこ”という設定でした。その後の初代タイガーマスク時代も、カール ゴッチ流のレスリングとメキシコのルチャに加え、カンフー映画さながらの美しい打撃技で世間を魅了。
その後、自ら創設した総合格闘技「修斗(Shooting)」はまさに、リーが志向した打・投・極の回転体でした。他の武術の優れたところを取り入れ、実戦に使えるところを残してブラッシュアップしていく思想も、まったく同じです。
現在の総合格闘技、MMAに続く体系構築に貢献した佐山聡氏のルーツに、新日本プロレス(アントニオ猪木)と共にブルース リーの存在があったのは、間違いないと思います。
■謎に包まれた死因
リーが亡くなったのは「死亡遊戯」で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイの香港の自宅です。頭痛を訴えたリーが鎮痛剤を飲み、そのまま昏睡状態に。病院へ搬送されましたが死亡が確認されました。
死亡原因は「脳浮腫」。背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用とも言われますが、原因ははっきりせず、香港政庁が1973年9月に開いた死因究明裁判の結論は「死因不明」。その他、「てんかん」「鎮痛剤による過剰反応(アナフィラキシーショック)」など、さまざまな説があります。
葬儀は香港とシアトルで行われ数万人のファンが参列。シアトルの葬儀にはリーの「弟子」としてジェームズ コバーンやスティーブ マックイーンも参列。遺体はシアトルのダウンタウン近く、レイクビュー墓地に埋葬されています。
■おまけ ブルース リー名場面集
コメント
フリッツ一家の悲劇は、フリッツがユダヤ系なのにナチのギミックを演じていた報いーという意見もありますね。案外モサドあたりが関係しているのかも知れません。ユダヤの執念深さは有名ですからね。
ケネディ一族は、最近もロバートの孫娘さんとその息子さんが湖で事故死されて…新聞記事を目にした時には絶句しました。
日本では、中川一郎・昭一父子の不審死、おまけに郁子夫人の不倫スキャンダルと、これも不思議な運命ですね。
世の中、下々の知らない所で、大きな恐ろしい力が働いているのかも知れないです。
また宜しかったら、色々と教えて下さいね(笑)
コメントありがとうございます。いわゆる「陰謀論」は興味深いですね(笑)。「ホントかよ」と言いたくなる気持ちもありつつ、そう考えた方が自然だったり・・・。正力さんがCIAだったり三浦甲子二さんがKGBだったりする世の中ですからね(笑)
ブランドン主演の「クロウ」は話題性だけで観ましたが、意に反して面白く、彼自身も、父親の七光りではなく、独特の雰囲気を持ったイイ俳優だったと記憶しています。存命であればハリウッドで成功出来たかもしれませんね。その死は、今では事故と結論付けられていますが、父子の相次ぐ不可解な死は出来過ぎていて、出来過ぎた話には、やはり裏があると勘ぐりたくなりますね。仮に二人の死に陰謀といいうモノが無ければ、逆にそれはそれで、巷間言われているようなオカルトチックな解釈がなされるのも頷けるのですが…
コメントありがとうございます!「クロウ」は未見でしたが、がぜん興味がわきました(笑)
ホントに親子二代に渡って・・・ケネディ家やフリッツ一家に通じるものを感じてしまいますね。
貴殿の言われるのが正論ですね。自らが感受性の強い頃に出会ったインパクトが、後年も美化された思い出となり、それは世代ごとに異なっているのでしょう。ボクシングスレなど覗くと、アリ、タイソン、フューリー等で誰が最強か揉めているのを見ても分かります(笑)
ブルース リーの場合、映画を観て衝撃を受け、「えっ!この人亡くなったの?」とその後知って驚いてーと二重のインパクトでしたからね。不遜ですが、ジェームス ディーンや赤木圭一郎同様、早逝というコトもカリスマ性を増し、伝説となる要素になるのでしょうね。
そうなんですよね。私の世代だと初代タイガーが凄すぎて、マスカラスはわからない、というのと同様に、世代世代で受け止め方は変わるんでしょうね。
私は小さかったのでブルースリーは生きているのか死んでいるのかもよくわからず映画を観ていた気がします。
ジェームスディーン、マリリンモンロー、赤木圭一郎、松田優作、アイルトンセナ、尾崎豊・・・息子のブランドン リーの死は何だったんでしょう・・・。
高校入試の帰り、友人達と映画館で観た「燃えよ、ドラゴン」の衝撃は、人生最大のモノでした!試験の結果も無頓着になる程の…60を過ぎた今でも毎日筋トレを欠かさないのは、今だにブルース リーの幻影を追い求めているんでしょうね。当時のブルース リー特集の番組の再現ドラマでやっていた、アグネス ラムのポスターをブルース リーのポスターに貼り替えて腕立て伏せを始めた世代の生き残りです(笑)ゲストの前田日明も、「私もこれやりましたよ」と言ってました。ジャキー チェンや初代タイガーマスクは、ブルース リーやマスカラスよりも高度な技を使っていましたが、自分の中では、初見のインパクトは、ブルース リーやマスカラスとは比べるべくもないですね。
いつもありがとうございます。ブルース リーの”衝撃”は、直撃世代にしか理解できないところはありますよね(マスカラスもしかり)。
いま見ても、あの鍛え抜かれた肉体と驚異的なスピードの説得力は色褪せないのがスゴイと思います。
必ず「ジャッキーチェンとどっちが」といった議論になりますが、比べたくなる気持ちはわかりますが同時代ではないですし、どちらもイイ、スゴイ、でいいじゃないかと思います(笑)。時代と共に変化するのが当然ですし、後発は後発なりの苦労もあったでしょう。でも、やはり何事も「最初にやった」のエポックメイキングは、リスペクトすべきだと思いますね。
早速、ブルース・リーを取り上げて頂いてありがとうございます。
実際の格技の実力から出される迫力、見栄の表情、まさに虜になりました。
実際、東洋の小柄な男ということで、舐めてかかった者から、ストリートファイトを挑まれ、みな、数秒て片付けたそうですね。
燃えよドラゴンでのオハラとの対決におけるスピードは、今の格闘技界でも匹敵する人はいないのではないでしょうか。
詳細な記事にとても楽しく読ませて頂きました。
さねもくさん、ありがとうございます!
ブルースリー、私も久々に映画を見まくりました。
「果たしてホントに強かったのか?」という議論はありますが、佇まいと動きを見ただけで、尋常じゃない身体能力とスピード、そして強さがわかりますよね。
もちろん映画では見た目重視のスタイルですが、それだけを見て難癖をつけるのは浅い見方だと思います。
あまりに生き急いだために、最盛期で真空パックされて本当に伝説になってしまったのが惜しくもあり、幸せだったのかもしれないですね。
ヒクソン グレイシーは、リーのオーラを学び、受け継いでいる印象がありました。