1976年公開「犬神家の一族」から始まった角川映画が40周年ということで映画祭イベントが開催され話題になっています。
角川映画は70年代後半から80年代に旋風を巻き起こした、狂熱のカルチャームーブメントでした。
今回から3回に渡ってその歩みを振り返り、私なりに映画界における功罪を考えてみたいと思います。
©KADOKAWA-Pictures,文中一部敬称略
●角川春樹氏が語る角川映画40周年
「角川映画とよく言われますが、角川春樹事務所や角川書店はあったけれど角川映画という名称はなかった。一般に通称されていたものが独立してそう呼ばれてきた。私自身は角川映画という言葉をあえて使ったことはないです。」「BS、CS番組を見ていると、私が手がけた17年間の作品ばかりが繰り返し放送される。だから私が去った後の23年間の作品を加えた40周年いうのがよく分からない。」
この言葉の通り、角川映画=角川春樹氏プロデュース映画であり、1976~1993年の作品を指すのが正しい、と私も思います。
角川春樹氏は麻薬取締法違反などの罪で懲役4年の実刑判決を受け2000年に確定。病気療養のため1年間の保釈を経て2001年に収監され、2004年に仮釈放されます。逮捕後、角川書店社長を退き、実弟である角川歴彦氏が就任。
2003年には、角川氏が手がけた角川映画59作品を巡り角川書店に著作権の確認を求めた訴訟で、東京地裁は「著作権は会社側にある」と認定し請求を棄却。この結果、角川氏は59作品の映画を手放すことになりました。
その後も「角川映画」は制作され続けていますが、言わばアントニオ猪木なき後の新日本プロレスと同じく、「似てはいるけど別のもの」なのでしょう。
●角川映画の誕生「犬神家の一族」
1976年、角川書店の2代目社長、角川春樹氏が個人事務所 角川春樹事務所を設立し、映画制作に乗り出します。
角川文庫キャンペーン「横溝正史フェア」とのタイアップ
「犬神家の一族」(市川崑監督、東宝配給)
が記念すべき1作目です。40年経ったいまでもオマージュやパロディのネタにされる、インパクトのある作品でした。
1975年にATG制作「本陣殺人事件」に宣伝協力、続いて松竹「八つ墓村」への協力を予定していましたが、松竹側の都合で制作が延期になった事が、自ら映画制作に乗り出した理由とされています。
当時の日本映画市場は洋画に押されて縮小の一途を辿っていましたが、本作は配収15.6億円の大ヒット。キネマ旬報ベストテン5位、読者選出1位を獲得します。
●「人間の証明」「野生の証明」
1977年
「人間の証明」(原作 森村誠一、監督 佐藤純彌)
が配収22.5億円の大ヒット。
岡田茉莉子、松田優作にジョージ・ケネディらのキャスト、「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね…」のキャッチコピー、ジョー山中の唄う主題歌による大量のテレビ、ラジオCMを投下して大反響となります。
また、本作は日活スタッフと撮影所で制作、配給は東映、興行は東宝洋画系という、既存日本映画界では考えられない組み合わせで関係者の度肝を抜きましたが、作品そのものの評価は賛否あり、キネマ旬報ベストテンでは50位の評価でした(読者選出では8位)。
1978年
「野生の証明」(原作 森村誠一、監督 佐藤純彌)
主演が高倉健、ヒロインにオーディションで選ばれた新人、薬師丸ひろ子を起用。
本作も「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格はない」といったキャッチコピーと共に大量のCMが打たれ、配収21.8億円の大ヒットとなります。(キネマ旬報ベストテン40位、読者選出7位)
この「証明2部作」の大ヒットにより、“角川映画”のイメージが確固たるものとなりました。
●「蘇る金狼」「戦国自衛隊」
1979年、岡田茂東映社長から手腕を見込まれプロデューサーとして
西田敏行が金田一耕助を演じた
「悪魔が来りて笛を吹く」(原作 横溝正史、監督 斉藤光正)
夏木勲、竜崎勝、千葉真一らが出演した
「白昼の死角」(原作 高木彬光、監督 村川透)
の東映作品を手がけます。この年には
松田優作主演の
「蘇る金狼」(原作 大藪春彦、監督 村川透)
そして、年末には制作費11.5億円の大作
「戦国自衛隊」(原作 半村良、監督 斉藤光正)
を公開。
自衛隊が戦国時代にタイムスリップ、武田騎馬隊と対決する本作はアクション監督を務めた千葉真一氏率いるJACの活躍で大反響となりました。
それと並行して1976年から1980年頃まで、角川映画と連動して毎日放送制作、TBS系「横溝正史シリーズ」「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を手がけるなど、まさに八面六臂の活躍で一躍、角川春樹氏はプロデューサーとして時代の寵児となりました。
●「復活の日」
勢いに乗る角川映画は1980年、
「復活の日」(原作 小松左京、監督 深作欣二)
を制作。
角川春樹氏が「これを映画化するために会社を継いだ」「この作品を作ることができれば、映画作りを辞めてもいいと。それくらいの想いがありました」と語る本作はアメリカ大陸縦断ロケ、世界初の南極ロケを敢行。
1980年邦画興行成績では黒澤明監督作品「影武者」に次ぐ24億円の配給収入を記録するヒット作となりますが、制作費が25億円とも32億円ともいわれ、宣伝費等を含めると赤字で終わります。
この結果を受けて、角川映画は大作主義からの方針転換を模索します。
●「野獣死すべし」「スローなブギにしてくれ」「魔界転生」「ねらわれた学園」「悪霊島」
同じく1980年には松田優作ハードボイルド2作目となる
「野獣死すべし」(原作 大藪春彦、監督 )
翌1981年には山崎務、古尾谷雅人、浅野温子主演
「スローなブギにしてくれ」(原作 片岡義男、監督 藤田敏八)
そして再び東映作品、角川春樹事務所企画協力として千葉真一、沢田研二 主演
「魔界転生」(原作 山田風太郎、監督 深作欣二)
で話題をさらいます。
また、後のドル箱スターとなる薬師丸ひろ子主演
「ねらわれた学園」(原作 眉村卓、監督 大林宣彦)
鹿賀丈史が金田一耕助を演じた
「悪霊島」(原作 横溝正史、監督 篠田正浩)
を公開。
「ねらわれた学園」は、近藤真彦主演、ジャニーズ事務所の「ブルージーンズメモリー」と2本立てでしたが、宣伝の扱いをめぐって配給する東宝とトラブルになりました。
そして、12月に公開した薬師丸ひろ子主演
「セーラー服と機関銃」(原作 赤川次郎、監督 相米慎二)
が、その後の方向性を決定付けました。
②へ続きます!
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