「主演映画三部作編」が先になりましたが、今回から吉川晃司さんのミュージシャンとしての遍歴を、シングル・アルバムのディスコグラフィ、関連する人物、ミュージシャンと共に、時系列でご紹介します。
最近では役者としての注目度が高く、音楽面は「COMPLEX以降」についてはある程度は語られていますが(それも少ないですけどね)、それ以前、1984-1988のいわゆる”アイドル期”については、まともに論評される機会が非常に少ないです。そしてディスコグラフィすら時系列できちんと整理されていないのは、当時の所属レコード会社が現存せず、移籍を繰り返したことも要因かもしれません。
しかしながら吉川晃司さんは、80年代中盤以降、BOφWYを頂点とするバンドブームの”火付け役”であり、それまで隔絶していた芸能アイドル界とロック界の垣根をブチ壊した「’80ミュージックシーンの超重要人物」なのです。
- ■1984(昭和59)年
- ●瀕死のナベプロに登場した”最終兵器”
- ●ナベプロ・ロックの正統後継者
- 1stシングル「モニカ」1984.2.1 4位 作詞:三浦徳子/作曲:NOBODY/編曲:大村雅朗
- 1stアルバム「パラシュートが落ちた夏」1984.3.1 4位 16万枚
- 2ndシングル「サヨナラは八月のララバイ」1984.6.1 6位 作詞:売野雅勇/作曲:NOBODY/編曲:大村雅朗
- ●バックバンド PaPa
- ●’84オールナイトニッポン スーパーフェスティバル(西武球場)
- ●尾崎豊さんとの関係
- 3rdシングル「ラ・ヴィアンローズ」1984.9.10 4位 作詞:売野雅勇 作曲:大沢誉志幸 編曲:大村雅朗
- 2ndアルバム「LA VIE EN ROSE」1984.10.5 1位 16万枚
- ●”12インチ シングル”ブームの火付け役
- ●”ニューロマンティック”路線
■1984(昭和59)年
世はTV歌番組とアイドル全盛の時代。
NHK「レッツゴーヤング」、TBS「ザ・ベストテン」、日本テレビ「紅白歌のベストテン」(後に「ザ・トップテン」に改題)、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」といった各局の人気番組がゴールデンタイムに生放送されるほか、夕方や朝の時間帯にもいわゆる”アイドル”が出演する歌番組が連日、軒を連ねていました。
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その主役は、松田聖子さん、田原俊彦さん、近藤真彦さん(1980年デビュー)、中森明菜さん、シブがき隊(1982年デビュー)などの80年代アイドル勢。彼ら(彼女ら)は大手事務所に所属し、芸能界・アイドルの王道を歩む存在です。
>「松田聖子さん」詳しくはコチラ
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そこに突如出現したのが”ニュージェネレーション”新型アイドル、ザ チェッカーズと吉川晃司さんでした。
チェッカーズは1984年、2nd.シングル「涙のリクエスト」でブレイクを果たし、オリコンチャートやランキング番組のベスト10内にデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」、3rd.シングル「哀しくてジェラシー」の3曲が同時ランクイン。その人気は社会現象となります。
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そしてこの年の2月、吉川晃司さんは「モニカ」で鮮烈なデビューを果たします。
チェッカーズのフミヤと吉川晃司のどこが”新しいアイドル”だったかと言うと「ジャニーズの外から出現」し、「男子中高生がファッションを真似する」存在だった点です。
これまでの男性アイドルは(今も、ですが)あくまでも女子中高生がターゲットでジャニーズ王国の独占市場。トシちゃんやマッチのファッションはあくまでも”衣装”でしたが、男子中高生はこぞってフミヤの長い前髪とサイドがカリアゲの髪形を、吉川晃司の着るDCブランドのスーツ&サングラスを真似しました。
82年デビュー組でありながら同時期にブレイクを果たした小泉今日子さんと共に、この3人がアイドルの枠を超えて、80年代中盤の中高生の”ファッションリーダー”的な存在となった点が、画期的な出来事でした。
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●瀕死のナベプロに登場した”最終兵器”
吉川晃司の所属するナベプロこと渡辺プロダクションは当時、存亡の危機に晒されていました。
”日本の芸能界を創った男”とまで言われる創業社長の渡辺晋さん率いる渡辺プロダクションは、クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、ザ・ドリフターズ、ザ・タイガース、沢田研二、布施明、森進一、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズといった人気タレントを抱え、日本の歌番組の草分け「ザ・ヒットパレード」、お正月の定番「新春かくし芸大会」など数々のヒット番組制作も手掛け、60~70年代には”我が世の春”を謳歌していました。
しかし、渡辺晋社長が日本テレビの井原高忠プロデューサーと”決裂”して以降、風向きが一変します。
決裂のきっかけは1973(昭和48)年 ― ナベプロがNET(現テレビ朝日)で計画していた”月曜夜8時”の新人発掘歌番組を巡り、同時間帯に「紅白歌のベストテン」を放送していた日本テレビは晋社長と昵懇の井原氏を通じて、放送枠の変更を打診。その井原氏に対し晋社長が言い放った「だったらそっちが打ち切るか、放送日を変えたらいいじゃないか」― この一言がきっかけでした。
「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」とまで言われた時代、ナベプロに反旗を翻した井原プロデューサーはホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーといった新興プロダクションと団結し、「紅白歌のベストテン」を成功に導きます。一方のNETでのナベプロ番組はわずか2クールで終了する失敗に終わります。
この出来事をきっかけに、ナベプロの芸能界における影響力が失墜します。それまでマスコミを抱き込んでおさえていた”独立しようとしたものは干す”といった圧力や、所属タレントのスキャンダルが続々と暴かれ、所属タレントや名物マネージャーも次々と独立。新興プロダクションが着々と勢力を伸ばし、もはや唯一の頼みの綱、大スター沢田研二さんも一時期の勢いを失い、独立に向け着々と動きを進める時期 ― 吉川晃司さんが登場したのです。
映画「すかんぴんウォーク」回でもご紹介したとおり、自筆で自画自賛の手紙を送りつけてスカウトされ、修道高校を中退して上京したものの、なかなかデビューさせてもらえないことに業を煮やし単身社長室に殴り込み、そのことで渡辺晋社長に気に入られた…という、もはやマンガのようなストーリー。
軍司貞則氏著「ナペプロ帝国の興亡」(文藝春秋/1992年)にある、晋社長が会議で放った言葉が有名です。
「ウチの金庫には、もう3億円の金しか残っていない。この金で何が何でも吉川晃司を売り出す! ともかく何でもいいから売れる方法を考えろ!」
●ナベプロ・ロックの正統後継者
晋社長は、「銀幕同時デビュー」の秘策(>映画「すかんぴんウォーク」についてはコチラ)と併せ、マネジメントチーフに長く沢田研二さんを担当した森本精人さんを付け、そして「歌手 吉川晃司」を、1人のプロデューサーに託します。
その名は木崎賢治さん。
ミュージシャンとしての吉川晃司さんの初期の世界観は、このセンスに溢れる名プロデューサーによって創り出された、と言って過言ではないでしょう。
木崎さんは沢田研二さんのプロデューサーを長く務めたお方で、デビュー間もない佐野元春さんの楽曲をアルバムに採用、理想のサウンド創りに伊藤銀二さんを起用、加えて大沢誉志幸さん、山下久美子さんなどの初期プロデュースも務めるなど、関連するミュージシャンの顔ぶれをざっと挙げただけでも”超キーマン”なことがわかります。
そんな木崎さんがデビュー前の吉川晃司さんに感じたのは、天性の”陽性”と”スケール感”だったようです。
出身地である広島からLAなどの”アメリカ西海岸”を連想し、「舞台は西海岸。ギターを持って踊れる大学生が主人公。女の子と出逢い、恋に落ちるが、夏休みの終わりと共に彼女と別れなければならなくなる」という短編を描いた楽曲「モニカ」を想起します。
木崎氏は吉川晃司さんに佐野元春、原田真二といった名を挙げ、「日本語をロックに合わせて歌う歌唱方」を示唆。楽曲をNOBODY、作詞を当時沢田研二さんのシングルなどを手掛けていた三浦徳子さん、アレンジャーに大村雅明さんを起用して創り上げます。
1stシングル「モニカ」1984.2.1 4位 作詞:三浦徳子/作曲:NOBODY/編曲:大村雅朗
▼ベストテン初登場
初期・吉川晃司さんのビジュアルコンセプトは、”ギターを抱いたマイケル ジャクソン””和製リック スプリングフィールド”。
「ギターを弾きながら歌いたい」という本人の希望は、ドン・晋社長に「オマエはボーカリストなんだから、正々堂々とマイクの前に立って、びしっと歌え」と却下されたそうですが、ピンクのスーツに身をまとい、足を高く上げ、カメラワークのフレームから見切れるように躍動しながら歌い、最後は片手バック転と、持ち前の身体能力をフルに発揮して躍動するスタイルは、連日放送されるTV歌番組においてあくまでもドメスティックに、「振り付け」で唄う他のアイドル歌手の中であまりにロックで、鮮烈でした。
この世界観は1か月後に発売されたデビューアルバム、4か月後に発売される2nd.シングルでも貫かれます。
1stアルバム「パラシュートが落ちた夏」1984.3.1 4位 16万枚
1.フライデーナイトレビュー/2.モニカ/3.I’M IN BLUE/4.彼女はアイスウォーター/5.Be my J-Girl/
6.パラシュートが落ちた夏/7.ハートショット/8.ペパーミントKIDS/9.ピンナップにシャウト!!/10.a day good night
作曲陣は原田真二さん、NOBODY、佐野元春さん、佐藤健さん。作詞陣に安藤秀樹さん、三浦徳子さん、小林和子さん、松尾由紀夫さん。アレンジャーは大村雅朗さんです。
参加ミュージシャンは、ギターに白井良明さん、松原正樹さん、今剛さん。キーボードに西本明さん、大村雅朗さん。ドラムが上原裕さん、ベースに奈良敏博さん、浅田孟さんというツワモノ揃いの超豪華な布陣。
全編を通じて初期の佐野元春さんのような軽快な8ビートに、大村雅明さんアレンジの美しい旋律のメロディが乗ったポップチューンが並び、そこにアヴェニュー、ブルーバード、ドライブインシアターといったアメリカナイズされたセンテンスが散りばめられます。佐野元春さんがジュリーに書いた「I’m In Blue」もカヴァーしています。
ちなみにタイトルの「パラシュートが落ちた夏」については諸説あり、真意のほどは明らかになっていません。
1つは、吉川晃司さん自身が学生時代に憧れたバカテク・フュージョン・バンド「パラシュート」の松原さん&今剛さんが参加している、ということ。そしてもう1つは「ナベプロと沢田研二との別離を暗喩した」というものです。
●2ndシングルも連続ヒット
2ndシングル「サヨナラは八月のララバイ」1984.6.1 6位 作詞:売野雅勇/作曲:NOBODY/編曲:大村雅朗
続く2ndシングルもヒットし、TV歌謡番組常連の仲間入り。この楽曲では「カチガツの~」と唄う歌唱法が話題となり、矢沢永吉さん、佐野元春さん、原田真二さん、桑田佳祐さんらが取り組んでいた”日本語ロック歌唱”を、第二世代としてお茶の間に浸透させる役割も果たします。
また、スーツに白いスニーカーという当時、アメリカのビジネスマンの間で流行していたファッション、前髪に金色のメッシュを入れてサイドはもみあげのないテクノカットの髪形も大流行しました。
5月1日、栃木会館を皮きりに初の全国ツアー「FLYING PARACHUTE TOUR」がスタート。9月12日から「FLYING PARACHUTE TOURⅡ」と続き、全国の女子中高生を熱狂させました。
▼1stツアー「フライデーナイトレビュー」
●バックバンド PaPa
デビュー以来、専属バックバンドを務めたのはPaPa。メンバーは椎野恭一さん(Ds)、山崎透さん(Key)、笠原敏幸さん(B)、稲葉智さん(G)で、稲葉智さん加入前の1979年から1983年半ば頃には「山下久美子 with PaPa」としてコンサートや学園祭などで活動していました。
演奏テクニックだけでなくコーラスワークにも優れ、レコーディングには参加しないものの、TVの歌番組、全国ツアーではデビュー曲「モニカ」以来、COMPLEX結成前のラストソロライブまでの約4年間、「吉川晃司 with PaPa」が一つのユニット。
これはかつての「沢田研二 & 井上堯之バンド」と同様のスタイルでした。
●’84オールナイトニッポン スーパーフェスティバル(西武球場)
7/22、この年はRCサクセションが主役のフェス。吉川晃司さんはこの時が初共演となるうじきつよしさん(子供バンド)をゲストギタリストに、鮎川誠さん率いるロケッツ、小山卓二さんらと共に出演。会場はほぼRCファンで埋め尽くされるアウェーの中で、孤軍奮闘しました。
忌野清志郎さんはそんな吉川晃司さんを気遣い、ブーイングを飛ばすRCファンに「キッカワはイイ奴です!」とエールを贈りました。
●尾崎豊さんとの関係
同い歳で同時期にデビューした尾崎豊さんの、数少ない親友が吉川晃司さん(自称親友は数えきれないくらいいますが)。夜な夜な六本木を飲み歩き、「お前の音楽は説教くさい」「お前のチャラチャラした音楽は好きじゃない」などと本音で語り合いながらも若くして芸能界、音楽マーケットでブレイクを果たした2人は「どこか根っこが通じ合っている」仲。「吉川、気を付けようぜ。俺らはまだまだ子供だ。頑張ろうな」などと語り合っていたそうです。
2人はこの年の8月5日、日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」で共演する予定でしたが尾崎さんが前日の「アトミック カフェ」出演中に5m近いトラスから飛び降りて足を骨折、幻に終わってしまいました。
その後、1986年1月31日にHOUND DOG日本武道館公演に2人で揃って飛び入り参加、これが生涯で唯一の共演となってしまいました。
●大沢誉志幸との邂逅、リゾートロックの完成形
3rdシングル「ラ・ヴィアンローズ」1984.9.10 4位 作詞:売野雅勇 作曲:大沢誉志幸 編曲:大村雅朗
3枚目のシングルは、大沢誉志幸さんの楽曲に売野雅勇さんが詩を付けた「ラ・ヴィアンローズ」。この「シングルジャケットの後ろに並ぶパラソルは渡辺晋社長自らが立てた」という、微笑ましいエピソードが残されています。
ロイヤルブルーのタキシードをラフに着こなして唄う姿は前2曲よりもオトナなイメージで、秋の新人歌謡祭シーズンを席巻します。「ザ・ベストテン」出演時にラストでプールに伸身バック宙で飛び込むパフォーマンスでお茶の間のドギモを抜きました(本人曰く、スタッフに「吉川さん、プールがあるんですよねぇ」と言われ、それは飛び込めってことだよな、と思った、とのこと)。
カップリングの「MISS YOU」は唯一の大村雅明さんの作曲。グリコ「カリフォルニアバー」の”旋風脚”CMで話題となり、後に両A面としてもリリースされました。
▼グリコ「カリフォルニアバー」CM
その1か月後に発売された2nd.アルバムは、デビュー以来の路線であるリゾートロックの一つの完成形と言える名盤です。
2ndアルバム「LA VIE EN ROSE」1984.10.5 1位 16万枚
1.No No サーキュレーション/2.LA VIE EN ROSE/3.ポラロイドの夏/4.サイレントムーンにつつまれて/5.サヨナラは八月のララバイ/
6.グッド・ラック・チャーム/7.Border Line/8.BIG SLEEP/9.She’s gone-彼女が消えた夜/10.太陽もひとりぼっち
作詞陣は前作から続く安藤秀樹さんに売野雅勇さん、麻生圭子さんが、作曲陣には原田真二さん、NOBODYに、大沢誉志幸さん、伊藤銀次さんが新たに加わりました。参加ミュージシャンはギターに今剛さんと北島健二さん。ベースが奈良敏博さんでキーボードに西本明さん、富樫春生さん、サックスに矢口博康さん。
本作は前作同様、大村雅朗さんのアレンジが素晴らしいことに加えて、”4人目のYMO”松武秀樹さんによるサンプリングの技が印象的です。YESの「ロンリーハート」で注目されていたオーケストラヒットや、ガラスの割れる音、機械的なシーケンス・・・メロディアスな楽曲にこれらの要素が加わり、新世代のリゾートロックの完成形となりました。
>アルバム「LA VIE EN ROSE」詳しくはコチラ
●”12インチ シングル”ブームの火付け役
1984.12.5 12インチシングル「MAIN-DISH」
この実験要素は、年末に発売された12インチシングルでも披露されます。「No No サーキュレーション」「モニカ」「サヨナラは八月のララバイ」の3曲をリミックス ロング バージョンで収録。
限定版として発売された本作は異例のヒットを記録し、以降、アイドル、ロック界に”12インチシングルブーム”が到来します。
>「80年代の12インチブーム」詳しくはコチラ
●”ニューロマンティック”路線
1980年代前半、海外では「ニューロマンティック(New Romantic)」といわれるムーブメントが巻き起こっていました。
デュランデュラン、カルチャークラブ、スパンダーバレエ、カジャグーグーなどに代表されるシンセサイザーを多用したエレクトロポップを主体とし、そのルーツにはデヴィッド ボウイやロキシー ミュージック等のグラムロック~ニューウェーブの流れ、ダンディズムがあります。
同時期にブームとなったMTVでのビジュアル戦略もあり、1980年代前半のアメリカでは「第2次ブリティッシュ インヴェイジョン」と呼ばれる一大ブームとなります。後に”ビジュアル系”として発展するこの流れは、日本では沢田研二さんが発祥で、その後を受け継いだのが、初期の吉川晃司さん。先の「12インチシングル」も、彼らが好んで行った”ダンスミックス””ロングバージョン”を輸入したものでした。
「芸能界」括りでいえば1984年日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。ナベプロが社運を賭けた「吉川晃司デビュープロジェクト」は”大成功”のうちに、センセーショナルな1年目に幕を下ろしました。
>2年目の1985編に続きます!
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