1982(昭和57)年11月4日。蔵前国技館において、前代未聞の”1対3 変則タッグマッチ”が行われました。
アントニオ猪木1人に対し3人で挑むのは「はぐれ国際軍団」ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇。
非常識ともいえるこの試合は、猪木のサディスティック、マゾヒスティックな魅力に溢れた「異色の名勝負」となりました。
●「はぐれ国際軍団」
1981年9月23日、田園コロシアム。新日本プロレスの興行にラッシャー木村とアニマル浜口が登場。殴り込みの決意表明をするべくマイクをとったラッシャー木村の第一声は「こんばんは」。来月に迫る一騎打ちに際し、猪木に「ぶっ殺してやる」くらいのことを言わねばならない場面なのに、生真面目に挨拶してどうする、とファンから失笑が。それを察知したアニマル浜口がマイクを奪い、慌ててフォローしなければなりませんでした。
これが伝説の”こんばんは事件”として語り草になっています。
1981年8月に国際プロレスが崩壊し、新日本プロレス参戦の道を選択した3人は「殴り込みをかけて来た、ならず者の落ち武者」として扱われました。3人以外の全日本プロレスに移った元国際選手たちが「中途入社メンバー」として全日のジャージを着て扱われたのとは、天と地ほどの差があります。
これが猪木と馬場の「やり方」の違いです。観客のヒートをいかに買うか、動員を最優先する猪木・新日と、常識と良識に基づいて運営する馬場・全日。両者のキャラクターの違いがよく現れています。
新日本プロレス参戦後の元国際3人は「自団体が潰れたくせに、天下のアントニオ猪木に楯突く、身の程知らずの姑息な悪い奴ら」という扱いを受け、彼らは愚直にその「悪役」を演じきります。国際勢は見た目にいかにも悪そう、怖そうな風貌。対する猪木はあか抜けてカッコイイ見た目、ということもあり、「悪の3人組vs正義のヒーロー」という図式が非常にわかりやすかったのです。
●1vs3までの流れ
1981(昭和56)年10月8日、蔵前国技館。
アントニオ猪木と、国際軍団の大将・ラッシャー木村の初の一騎打ちが行われます。強烈な張り手合戦で始まった対決は、顔面を地に染めた猪木が極めた「腕ひしぎ逆十字」を耐える木村、となったところで「ロープブレークを無視した猪木の反則負け」となります。
1981(昭和56)年11月5日、蔵前国技館。
再戦は次シリーズの最終戦で行われました。セコンドがリングを取り囲み逃れられないようにする”ランバージャック デスマッチ”で行われた試合は再び猪木の”腕ひしぎ逆十字”が完璧に極まり、セコンドがタオルを投入して猪木のTKO勝ちで決着しました。
1982(昭和57)年9月21日、大阪府立体育館。
「もう決着はついた」とする猪木に執拗に対決を迫る木村に対し、猪木は「負けたら髪を切るヘア ベンド マッチ」を要求。猪木が勝利しましたが、勝負が決まる直前の場外乱闘中に、本部席に座っていたストロング小林がアニマル浜口にハサミを手渡し、どさくさに紛れて猪木の髪を切るという暴挙。さらには試合後、敗れたラッシャー木村が髪を切らずに国際勢と共に”遁走”したことで、猪木と新日本プロレスファンの怒りは頂点に達します。
この当時の新日本プロレスは、猪木ら新日本隊に対して、ガイジン勢、はぐれ国際勢と、長州力、小林邦昭らの「狼軍団」の四つ巴の様相。猪木からすると木村ばかりを相手にしてられない、というスタンスです。一方の国際勢は生き残りをかけて猪木への対戦を執拗に迫り、乱入や控え室への拉致監禁など、無法の限りを働きます(当時の全国のちびっ子は“拉致”という言葉はコレで覚えました)。
激怒した猪木は「しゃらくせぇ、束になってかかっこい!3人まとめてぶっ倒してやる!」と言い放ち、その言質を捉えた国際側が「だったらほんとに3対1で試合しろ!」と迫った…というのが、当時の「ストーリー」でした。
●屈辱的な”変則”ルール
“猪木信者”と呼ばれる当時の狂信的な新日ファンは彼らを蔑視、憎悪の対象としてバッシング。生卵がぶつけられ、自宅にも石が投げられるなど嫌がらせが続き、木村の飼っていた犬がノイローゼで死んだ、というウワサも囁かれるほどでした。
一方、良識のあるオトナのファン、国際プロレス好きだった人たちからすると、この猪木流のやり方、扱いの酷さに嫌悪感を抱く人もいました。冷静に考えれば、倒産して吸収した社員に対するこの仕打ちは、いまならパワハラ、炎上どころの騒ぎではありません。人権問題です(笑)。
そこへ来てのこの“1対3”。1対2、3などの試合はアンドレ ザ ジャイアントやヘイスタック カルホーンなどの巨体レスラーがよく行う形式です。しかし、この試合のように同体格の選手同士の”変則マッチ”というのは、前代未聞です。
この試合、当初は文字通り「1対3」かと思いきや、「リング内で猪木と相対するのは1名のみ。国際側のタッチ(交代)は自由。ただし、2、3人がかりの攻撃は反則」という形式となりました。
とはいえ「時間無制限」で、猪木は3人を倒さなければならず、対する国際側は誰か1人が猪木を倒せば勝ち、という、圧倒的猪木不利の状況には変わりません。裏を返せば国際勢にとっては「3人で1人前」という屈辱的な試合形式です。
これにはさすがに「いくらなんでもそれは屈辱的、ヒド過ぎ」と怒りの声も上がりましたが、当時の猪木・新日人気の凄まじさの前にはかき消されてしまっていました。
●猪木プロレスの魅力―”怒り”
実はこの頃、アントニオ猪木のコンディションは最低、最悪でした。春に膝の半月板を損傷、夏には糖尿病を理由に年間2度の長期欠場を余儀なくされ、見た目にも筋肉が落ち、特に脚の細さが目立つようになって来ていました。フィニッシュに延髄斬りを多用するようになり”省エネファイト”と揶揄されるようになった時期です。
しかしこの「はぐれ国際軍団」との抗争は、久々に猪木の”ケンカ殺法”と”怒った時の凄み”を引き出す一面がありました。
かつて、猪木が人気爆発したのは70年代のタイガー ジェット シンとの抗争で見せた、”いざとなると腕折りも辞さないケンカ殺法”、”怒髪天を突く本気の怒りの凄み”でした。
プロレスラー アントニオ猪木の魅力は「驚異的なスタミナ」「高いグラウンドの技術、テクニック」「インサイドワーク」などさまざまありますが、師匠・力道山譲りの「怒りの表現力」は、ほかの選手にマネできない天才的なものがありました。
猪木が拳を握り、相手を睨みつけるだけで、初めてプロレスを観る者、会場の二階席の観客までもが腰を浮かせて大興奮する、という”魔力”。「姑息で卑怯な格下」である国際勢との抗争では、猪木は”サディスティックな狂気”を振りまいていました。
●予想を裏切りまくりの試合展開
1982(昭和57)年11月4日。蔵前国技館。異様な興奮状態の中で試合開始となります。
新日本側はメイン山本小鉄、サブに柴田勝久、栗栖正信のレフェリー3名による厳戒態勢で臨みます。国際勢が2人がかり、3人がかりで加勢しようとすると、小鉄レフェリーのものすごいタックルが爆発、阻止されます。これには観衆もヤンヤの声援です。
リング上では、猪木が久々に見る、目の覚めるような見事なグラウンドテクニックで国際勢を翻弄します。タックルを上から切り、体を入れ替えて腕をとる、足をとる。フェイスロックなどの基本的なムーブも、いつもとは違う遊びを排除したキレを見せます。この大一番ですさまじいケンカ、乱打戦になるかとの観客の予想を裏切るあたりが、猪木の面目躍如です。特にこの1本目の猪木のテクニックは、総合格闘技で目が肥えたファンにも見てもらいたい、理にかなったプロの技術が堪能できます。
そして13分03秒、猪木は首を取りに来た寺西を見事に切り返して完璧な腕ひしぎ逆十字を極め、ギブアップ勝ち。1本を先取します。
2本目。まだ体力に余裕のある猪木は、9分27秒、トップロープからリングインしたアニマル浜口に見事なタイミングで延髄斬りを一閃。ピンフォールで勝利。
いよいよ残るは大将、木村ただ一人です。「これは猪木の3タテ間違いなし」。観客の誰もがそう思った刹那、猪木の動きが鈍くなります。めずらしく汗をかき、木村のパワーの前に押され出します。
絶体絶命のピンチ!ここからの大逆転、というカタルシスが猪木のプロレス、なのではありますが・・・この夜は違っていました。ロープに片足を絡め、エプロンから場外に逆さづりになった猪木はそのまま力尽き、壮絶なリングアウト負け。予想外のバッドエンドに場内は騒然となります。
1本目:○猪木(13分03秒 逆十字固め)寺西●
2本目:○猪木(9分27秒 体固め)浜口●
3本目:○木村(4分37秒 リングアウト)猪木●
*国際軍の勝利
試合後、疲弊して手を挙げる猪木に対し、観客から万雷の拍手と歓声が送られます。サディスティックな猪木を期待して、マゾヒスティックな敗者猪木に魅せられる・・・この、予想を覆す”衝撃の敗戦”で次につなげる、というのもまた、猪木プロレスの妙技なのです。
この試合はワールドプロレスリング中継史上でも高い視聴率を記録し、興行も超満員で大成功をおさめます。
翌年、1983(昭和58)年2月7日にも同じ蔵前国技館において1対3の再戦が行われ、猪木は大将格の木村をまず倒し、寺西も破りますが、最後に残った浜口を猪木が場外フェンスの外に投げてしまい、反則負け。
1本目:○猪木[10分10秒体固め]木村●
2本目:○猪木[5分10秒アバラ折り]寺西●
3本目:○浜口[5分56秒反則勝ち]猪木●
*国際軍の勝利
史上2度、行われた”1vs3変則マッチ”は、結果としては「国際軍団の2連勝」となりました。
●アニマル浜口氏が語る「アントニオ猪木」
国際軍団の副将を務めたアニマル浜口氏は、後に新日本プロレス参戦時代と、アントニオ猪木についてこのように語っています。
「重厚なファイトをするラッシャー木村さんが大将としてドンと構え、アニマル浜口がチョロチョロしながら吠えて突っかかっていく切り込み隊長。そして、寺西勇さんが華麗なレスリングで締めるという”三者三様”の役割を果たしながら、僕が言うのも何ですが、3人ともよくがんばりました。新日ファンだけでなく、日本中すべてのプロレスファンを沸かせ、熱狂させた。それだけは、僕たちは自信を持って言えますよ」
「新日本プロレスとの抗争を繰り返すなかで、僕は気づいたんです。プロレスは、”眼”なんです。敵と対峙する戦いにおいて、いかに眼の力が重要か。僕はそのことを、アントニオ猪木さんに教えていただきました。 僕は田園コロシアムで猪木さんと出会ってから、悩み、考え続けました。『新日本プロレスとは何か』『プロレスとは何か』をね。答えは、アントニオ猪木という不世出のレスラーにありました。新日というのは、すなわちアントニオ猪木さんであり、アントニオ猪木さんの”眼”にこそ、プロレスの真髄があったんです」
「プロレスラーというのは、パワー、スタミナ、馬力がなければ始まりませんが、スター選手となるにはそれだけでは足りない。キラリと光り輝く、個性と華がなくてはならない。アントニオ猪木という偉大なレスラーには、それがすべて備わっていた。だからこそプロレスファンはもちろん、子どもたちからも女性からも絶大な人気を博している。それがわかったんです」
「そんな猪木さんから、一度だけ認められたことがあるんです。といっても、直接ではなく、ある新聞記者から聞いた話ですが。ある日の試合前、猪木さんは新日本の選手を全員集めて檄を飛ばしたそうです。『俺はもう我慢がならない。お前らは俺と一緒にいながら何も盗んでない。アニマル浜口を見習え!アイツは俺の弟子でもなければ、新日の選手でもない。それなのに、俺が持っているものをみんな盗みやがった』・・・嬉しかったですね!猪木さんというのは実によく人のことを見ている方だと思っていましたが、まさか自分のところに殴り込んできた人間のことまで見ていたとは……。あの時代の、いい思い出です」
完
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