●プロフェッショナルレスリング藤原組~バトラーツ
1991年3月、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。設立当初の団体名は「新UWF藤原組」でした。
メガネスーパーがメインスポンサーとしての支援を受けていたことで、旗揚げは早かったもののネガティヴなイメージもあり。
団体としてのコンセプトも曖昧で、SWSとの合同興行なんかもやってましたが、私はほとんど、観る機会がありませんでした。
1992年10月には強引に東京ドーム大会を開催しますが、その後により格闘技的路線を志向する船木、鈴木らと藤原との溝が深まり1992年12月に船木、鈴木、冨宅、高橋、柳澤らが退団してパンクラスを設立。
所属選手が藤原と石川だけになり、藤原は石川らと組んで新日プロへ参戦したりしながら、1995年石川が藤原から離れ、格闘探偵団バトラーツを設立。
みちのくプロレスらと連携しながらバチバチプロレス路線で生き残りを模索し両国大会開催などプチブレイクして検討しましたが、石川のエースとしての魅力は薄く、歴史の波に飲み込まれていきました。
パンクラス
船木、鈴木らが立ち上げたパンクラスは1993年9月、東京ベイNKホールで旗揚げ。
「パンクラシストによるハイブリッドレスリング」を標榜し、階級やジム制度などを取り入れながら秒殺スタイルの真剣勝負を標榜してコアなファンの支持を集めます。
船木の肉体的なピークはちょうどこの頃、90年代前半でした。鈴木みのる、ケン・シャムロック、フランク・シャムロック、バス・ルッテンらトップ勢と勝ったり負けたり、大怪我したりしながら文字通り死闘を展開していきます。
その意気込みはわかるものの、所属選手を抱えた興行会社でのシュートマッチの連続、という限界と、悲哀を感じさせました。
エースのケン・シャムロックは1993年11月、UFC 1トーナメント準決勝でホイス・グレイシーと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。結果としてグレイシー一族の踏み台となってしまいます。
その後、1997年にPRIDEが発足すると話題性でも興行のスケールでも太刀打ちできず、マニアックな存在となっていきます。
そして2000年5月、「コロシアム2000」でヒクソン・グレイシーと対戦した船木もチョークスリーパーで失神負けし、試合後に引退を表明しました。
いまとなっては「全試合シュートマッチを実現した初のプロレス団体」という評価も得ていて、体制は変わりましたが現在も存続しています。
次回、⑦リングス編につづきます!
~「UWF」とは何だったのか?~
①佐山引退から第一次UWF
②新日プロUターン/前編
③新日プロUターン/後編
④新生UWF旗揚げ~崩壊
⑤UWFインターナショナル編
⑥藤原組、バトラーツ、パンクラス編
⑦リングス編
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