シリーズ、アントニオ猪木 NWF激闘史。
その①~1973 NWFとは何か?猪木とパワーズの不思議な因縁
その②~1974-1976 S小林、シン、大木、テーズ、ロビンソン
に続く③は、1977年から1979年をご紹介します。
<1977(昭和52)年> ハンセン初登場!
この1977(昭和52)年は王貞治選手がホームラン世界記録を樹立し、初の国民栄誉賞を受賞した年。
プロレス界では全日本プロレスのジャンボ鶴田がミルマスカラスとのUN選手権で初のプロレス大賞・ベストバウトを受賞、伝説のザ ファンクスvsブッチャー&シークが行われました。
「プロレス入場テーマ曲」が定着し始めたタイミングでもあり、アントニオ猪木は「アリにもらった友情の曲」として、”炎のファイター INOKI Bom-Ba-Ye!”を使用し始めます。
格闘技世界一決定戦シリーズでザ・モンスターマン、チャック・ウェップナーらと戦い、シン&上田コンビと連日、激闘を繰り広げていました。
NWF防衛戦では、シン、アンドレに続く新たなライバルとしてスタン・ハンセンが初登場します。
新間寿・新日本プロレス営業本部長がWWWF(先代の)ビンス マクマホンと”反NWA”連携を強め始めた時期で、ようやく新日プロ旗揚げ以来の課題であった、ガイジン招聘ルートの強化が実現し始めました。
ハンセンはNYの帝王で馬場の盟友でもある”人間発電所”ブルーノ・サンマルチノの首を試合中のアクシデントで負傷させ、あわやお払い箱になりそうなところでの新日本マット登場でした(ハンセンの初来日は1975/昭和50年 全日本プロレス)。
2月10日 日本武道館 *V7
〇アントニオ猪木(22分55秒 レフェリーストップ)タイガー ジェット シン●
3月31日 蔵前国技館 *V8
〇アントニオ猪木(20分33秒 体固め)ジョニー パワーズ●
前王者のパワーズはこの試合が最後のNWF挑戦。一度も猪木からタイトルを奪い返すことなくタイトル戦線から消え、来日感覚も開き気味に。1980年の最後の来日となる1980(昭和55)年はシングルとタッグの両MSGリーグ戦に参加するも、ともに全敗で途中帰国という憂き目に…。試合はともかくとかくドレッシングルームでの悪評が高く、周囲のレスラーたちに嫌われていたのは有名です。
6月1日 愛知県体育館 *V9
△アントニオ猪木(23分14秒 両者リングアウト)アンドレ ザ ジャイアント△
9月2日 愛知県体育館 *V10
〇アントニオ猪木(25分13秒 体固め)スタン ハンセン●
ハンセンは1月に新日本マットに初登場。、秋の再来日では早くも外国人エースに抜擢されましたが、まだまだ本領は発揮されず、あくまでも猪木のライバルはシン。ハンセンは粗削り、不器用なパワー&ラフファイターであり「今後のライバル候補」という位置づけでした。
12月1日 大阪府立体育会館 *V11
〇アントニオ猪木(24分01秒 卍固め)パット パターソン●
12月のパット パターソンは当時、パワーズとのコンビで北米タッグ王者でした。いまや「WWEロウ/スマックダウンのあの人」と言ったほうが有名ですね。
<1978(昭和53)年> バックランドとのW選手権、モラレスに苦戦!
1978(昭和53)年、1月に藤波辰巳がニューヨークMSGでWWWF世界Jr.ヘビー級チャンピオンとなり凱旋帰国。”ドラゴンブーム”が巻き起こりました。
ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは国際プロレスと共闘、猪木は対抗措置としてヒロマツダ、マサ斉藤ら海外で活躍するフリーランスを招集しての「プレ日本選手権シリーズ」を開催。年末にはあの”狂気の欧州遠征”を敢行した年でもあります。
2月3日 札幌中島スポーツセンター *V12
〇アントニオ猪木(21分23秒 リングアウト)タイガー ジェット シン●
3月30日 蔵前国技館 *V13
〇アントニオ猪木(24分58秒 卍固め)マスクド スーパースター●
「流星仮面」マスクド スーパースターは、1974(昭和49)年に来日していた「モンゴルズ」のボロ モンゴルの変身。ヘビー級大型マスクマンとして全日プロの人気者ミル マスカラスへの対抗キャラ的な意味合いもありました。スーパースターは後に何度も猪木と対戦し、ディック・マードックとのタッグや、アンドレと共にマシン軍団入りするなど長年、新日マットで活躍しました。
6月1日 日本武道館 *WWWFヘビー級とのWタイトルマッチ V14
〇アントニオ猪木(1-0)ボブ バックランド●
1本目 猪木(40分08秒 リングアウト)バックランド
2本目 時間切れ引き分け
*両タイトルの移動なし
この年のNWF防衛戦最大のトピック、WWWFチャンプであるボブ・バックランドとのWタイトルマッチ。バックランドはこの年の2月にスーパースター ビリー グラハムを破り新チャンピオンになり、待望の初来日でした。
スコア上は1-0で猪木の勝ち、ですがフォール勝ちではなくタイトル奪取ならず。久々の”猪木のフルタイム戦”、白熱の攻防となりました。
7月24日 広島県立体育館 *V15
〇アントニオ猪木(22分34秒 逆さ押さえ込み)ペドロ モラレス●
このモラレス戦は猪木が大苦戦し、「収録されたのに何故かTV中継されなかったタイトルマッチ」として有名な一戦です。
ペドロ モラレスは1942(昭和17)年生まれで当時36歳。猪木より1つ歳上です。プエルトリコ出身で「ラテンの魔豹」の異名をとり、ドロップキックの名手でジャイアント馬場の「32文ロケット砲」は”モラレスを参考にして生まれた”と言われるほど。WWWF(現WWE)で旗揚げ時期から活躍し、NY在住のプエルトリコ移民からの人気を集めていました(第4代WWWF王者)。
1966年に日本プロレスに初来日、1974年には全日本プロレスにも登場。ジャイアント馬場とPWF、MSG杯を争った、立ってよし、寝てよし、ラフにも強い超・実力者です。
猪木はこの時、脊髄を痛めていてコンディションは最悪。当時の雑誌によれば試合は終始、モラレスのペースで、ラフファイトにシュミット流バックブリーカーに、圧倒され続けます。
それでも22分もの激闘を戦い抜き、最後はモラレスのブレーン バスターを切り替えし逆さ押さえ込みでなんとか勝利、薄氷の防衛でした。猪木首と肩をさらに痛め、試合後はシャワーも浴びず、試合着のままタクシーでホテルに戻るほどでした。
しかしながら、スゴいのはここからです。
なんとボブが6月の結果に納得せず再び来日。このモラレス戦からわずか3日後、7月27日に日本武道館で、今度はWWWFヘビーのベルトのみを賭けて、”チャンピオンのボブがチャレンジャー猪木に挑戦する”、という異例のタイトルマッチが行われます。
猪木は第4頸椎が飛び出しズレる、という重症を負いながら麻酔を打って試合を強行し、なんとまたもや61分フルタイム戦をやってのけたのです(1本目は猪木の卍固め、2本目はボブ、3本目がタイムアップ)。
モラレス戦のみを取り上げてどうこうではなく、この一連の流れを知らないと猪木の凄み、は理解できないのです。
9月21日 品川プリンスホテル ゴールドホール *V16
〇アントニオ猪木(25分37秒 体固め)タイガー ジェット シン●
11月1日 愛知県体育館 *V17
〇アントニオ猪木(11分41秒 卍固め)クリス マルコフ●
マルコフといえば日本プロレス時代の若き猪木が宿願の初優勝を遂げた1969(昭和44)年、第11回ワールド大リーグ戦の決勝戦の相手です。9年の時を経て両社が再び激突したこの試合は、再び卍固めで猪木が勝利しました。
<1979(昭和54)年> 海外防衛戦を連発、ループとの不穏試合!
1月12日 川崎市体育館 *V18
〇アントニオ猪木(27分02秒 反則)ボブ・ループ●
この1戦は(特にアンチ猪木派の人々の間で)、「猪木がループのアマレス テクニックの前にキリキリ舞いさせられ、手も足も出せず苦戦した試合」として有名です。
ループは1968年 メキシコ五輪のアマレス全米代表で、ここぞとばかりにテクニックを見せつける展開に終始。タックルにフォールに、とやりたい放題ですが、猪木はまだ昨年末の欧州遠征の後遺症で負った肩の負傷が癒えていないバッドコンディションの中、ループの”空気の読めなさ”に手を焼き、プロとして試合をどう盛り上げるかに苦戦しただけの印象です。
いきなりそれまでのストーリーを無視してアマレススタイルで登場し、独り善がりにさんざん引っ掻き回した挙句にマネージャーのグレート マレンコの介入で反則決着、という「いったい何がしたいのかわからない」後味の悪い1戦に。そりゃ2度と呼ばれませんよね。
しかしながら当の本人は近年、雑誌のインタビューで「イノキ戦が我が20年のプロレスラーキャリアでベストな内容」「イノキはレスリングの幅が広く、体の芯からエンジョイできた」のだそうです。。。
4月5日 東京体育館 ランバージャック デスマッチ *V19
〇アントニオ猪木(20分26秒 体固め)タイガー・ジェット・シン●
4月17日 米ペンシルバニア州アレンタウン アグリカルチャーホール *V20
〇アントニオ猪木(10分11秒 弓矢固め)ニコリ・ボルコフ●
4月22日 メキシコ市エル トレオ デ クワトロ カミノス *V21
〇アントニオ猪木(2-0)カネック●
1本目 猪木(11分40秒 反則)カネック
2本目 猪木(07分50秒 体固め)カネック
5月10日 福岡スポーツセンター *V22
〇アントニオ猪木(16分49秒 首固め)ジャック・ブリスコ●
5月、福岡で対戦したジャック・ブリスコはこの8年前に日本プロレス時代にUNタイトルを賭けて名勝負を繰り広げた戦った相手であり、いまや元・NWA世界王者です。
8年ぶりの因縁の対決は「賞金マッチ」として行われ、勝った猪木が試合後のリング上で10,000ドル分の千円札束を引きちぎってバラ撒き、ダー!
坂口をはじめとする関係者が大慌てで回収する姿が印象的でした。社長、やめてください…。
8月2日 品川プリンスホテル ゴールドホール *無効試合
―アントニオ猪木(17分59秒 ノーコンテスト)タイガー・ジェット・シン―
8月10日 米カリフォルニア州ロサンゼルス オリンピック オーデトリアム *V23
▲アントニオ猪木(07分03秒 両者リングアウト)タイガー・ジェット・シン▲
8月17日 カナダ カルガリー スタンピート グラウンド ビクトリア パビリオン *V24
〇アントニオ猪木(09分15秒 体固め)スタン・ハンセン●
10月4日 蔵前国技館 インディアン オイルデスマッチ *無効試合
―アントニオ猪木(20分22秒 ノーコンテスト)タイガー・ジェット・シン―
この時期、猪木とシンの抗争も反則決着の多さでマンネリが否めず、ついに「両者が全身にオイルを塗り、反則カウントとリングアウトなし、3カウントの後、さらに10カウントを取らないと勝ちと認めない」という完全決着を謳うデスマッチが敢行されました。
試合は猪木のスリーパーとシンの足四の字固めの応酬となり、ついにシンが凶器で猪木とレフェリー暴行。双方のセコンド陣が飛び出してノーコンテスト決着に。猪木はマイクで不完全決着を謝罪、「今度こそは完全決着」と再戦を約束します。
11月1日 札幌中島スポーツセンター *V25
〇アントニオ猪木(17分01秒 反則)ダスティ・ローデス●
マードックとの「アウトローズ」で有名な、ダスティ ローデスとの異色対決も面白かったです。
典型的な”アメリカンスタイル”のローデスは、シリアスな猪木とは手が合わないのでは?という下馬評を覆し、好勝負を展開。
それもそのはず、ローデスはマードックとの”アウトローズ”時代から、ケンカには自信のあるタフファイター。「将来のNWA王者」とも噂されており、当時の新日本プロレスとしては高額なギャランティを支払ってでもつなぎ留めておく必要がある重要人物でした。
猪木の眼前で尻振りダンスをするかと思えば強烈なバイオニック・エルボー、パンチやニードロップで攻め立てて、猪木のケンカ殺法にもまったく怯むことなく場内を沸かせます。
最後はレフェリー失神中に猪木のジャパニーズ レッグクラッチによる”幻の3カウント”からの場外反則暴走、となりました。
ローデスはその後も新日本の常連外国人となり、アンドレやハンセンとの対戦、マードックとのアウトローズ再結成、猪木やバックランドとの夢のタッグ結成など数々の名場面を残しました。
12月4日 大阪府立体育会館 *V26
〇アントニオ猪木(08分29秒 体固め)ペドロ・モラレス●
前年の雪辱戦。今回は10分に満たない短時間で勝利してみせたあたりが猪木らしいですね。
12月17日 米ニューヨーク州マジソン スクエア ガーデン *V27
〇アントニオ猪木(14分59秒 体固め)グレート・ハッサン・アラブ●
この年は海外遠征も積極的で、NWF防衛戦もシン、ハンセン、カネックを相手にアメリカ、カナダ、メキシコで行われています。新間寿氏はついに師匠 力道山もたどり着けず、ライバル ジャイアント馬場だけの自慢であった「MSGでのタイトルマッチ」を、猪木がチャンピオンとして実現させたのです。
コメント
10分以内の試合はどちらかの体調不良の為に早く終わらせるとか言う夢のない話がありまして。
普通の試合時間だとグダグダの展開になるとか。
ま、ウォリアーズは別ですがね。