「シュツットガルトの惨劇」~1978 アントニオ猪木 狂気の欧州遠征

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プロレス
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後年の猪木しか知らず「アントニオ猪木ってなにがすごいの?」「猪木ってほんとに強かったの?」という世代の方に知ってもらいたい”アントニオ猪木の裏歴史”ともいえる1戦を、過酷な欧州遠征の全戦績と共に、ご紹介します。

 

 

>この内容はYouTubeでも解説しています!

 

 

●”シュツットガルトの惨劇”とは

 

「アントニオ猪木の全盛期は?」そして「アントニオ猪木のライバルの中で最も強かったのは?」この2つの質問に、マニア層から必ず出てくるキーワードが”シュツットガルトの惨劇” ”ローラン ボック”というキーワードです。

 

1976年、”モハメド アリと戦った男”として名を馳せたアントニオ猪木のもとに、ヨーロッパから招聘話が舞い込みます。

 

実に23日間で20試合、6か国を巡るという”狂気の欧州遠征”のクライマックスが、1978(昭和53)年11月25日、西ドイツ シュツットガルトで行われたアントニオ猪木vsローラン ボックの一戦でした。

 

この試合は同年末「ワールドプロレスリング」で放送され、猪木が投げられ、リングに叩きつけられまくるその異様な試合内容と「猪木の判定負け」という衝撃の結末から”シュツットガルトの惨劇”と呼ばれる伝説となっています。

 

そしてこのツアーのエピソードの数々は、猪木本人をして「俺を倒せるヤツってそういないと、今でも豪語できるのはそんな経験をしてきているからなんです」と言うほど過酷なものでした。

 

ちなみに・・・「シュツットガルト」は、ベンツやポルシェの本社があることでモーターファンの間では有名な街です。サッカーファンにもよく知られていますね。そしてもう一つ、この1戦の影響で昭和のプロレスファンにとっても幻想膨らみまくりの街なのです。

 

私は1993年2月、大学の卒業旅行でヨーロッパを一周した際に、何の用もないのにわざわざ立ち寄りました(ただただ寒くて暗くて、イメージ通りの街でした)。

 

▲Feb.1999. Stuttgart station.

 

●1978 「KILLER INOKI」欧州選手権シリーズ

 

1976(昭和51)年6月26日、日本武道館で行われた”異種格闘技世界一決定戦”アントニオ猪木vsモハメド アリ。当時、その試合内容と引き分け決着には”世紀の茶番劇”などと非難轟々でしたが、世界中から”アリと戦い、引き分けた男”として猪木への招聘オファーが殺到します。その中の一つが、この欧州遠征でした。

 

 

オファーをしてきたのは無名のプロモーターであるローラン ボック。自身もアマレス出身のプロレスラーでした。提示されたギャランティは11試合のシリーズで750万シリング。日本円にすると約1億円と言われます。

 

アリ戦で背負った10億円ともいわれる巨額の負債を返済したい猪木からすると魅力的ではありますが、日本のシリーズを欠場して臨まなければならないこと、さらには情報不足で謎に包まれた、完全アウェーでの連戦であることに当時のマネージャーである新間寿氏(新日本プロレス営業本部長)は”危険すぎる”と反対しますが、”世界制覇の野望”に燃える猪木自身の希望でこれを受諾。

 

用心棒役に藤原喜明を帯同し、1979年11月3日、欧州に向けて出発します。

欧州遠征は11月末までの約1か月間。その間、日本では「プレ日本選手権シリーズ」が11月17日から12月16日の日程で開幕していました。

 

 

●”地獄の墓堀人”ローラン ボックとは

 

ボックは1944年生まれ。1968年メキシコ五輪にレスリングの西ドイツ代表として出場。高地での環境に馴染めず5位入賞に終わりますが、1970年の欧州選手権で優勝。1972年のミュンヘン五輪にも出場予定でしたが同年の欧州選手権の当日に体調不良で欠場し、ナショナルチームを除名されてしまいました。

 

これに失望したボックは1973年、プロレスラーに転向。同年9月にデビューします。

 

翌1974年8月、ミュンスターにてジョージ ゴーディエンコからシュートマッチを仕掛けられ、敗れはしたものの足首を骨折させ、10月にはミュンヘンでミル マスカラスに勝利。この時期、海外武者修行中だった吉田光雄(のちの長州力)とも対戦しています。

 

1975年「ヨーロピアンカップ」、1976年「ワールドカップ」優勝。
1978年4月8日にシュトゥットガルトで行われていたトーナメントでは対戦相手のラフ攻撃に逆上し、足をヘシ折って引退に追い込んだとも言われます。

 

当時、ボックはプロレス界では世界的には無名で、NWAやAWAといった当時のメジャータイトルとは無縁です。とはいえ、これらのエピソードを見るとなんとも危険な”要注意人物”でした。

 

●過酷過ぎる日程、対戦相手と環境

 

猪木は1979年11月3日、日本からダイレクトに欧州に向かったかというと、なんとパキスタンを経由しています。

 

1976年、現地の英雄アクラム ペールワンと戦い、腕をへし折って勝利したアントニオ猪木は、パキスタンでは英雄、国賓待遇されるスターなのです。北京でトランジットしてパキスタンの首都、イスラマバードへ。そこからカラチに向かい、11月4日早朝6時から記者会見。日中は海水浴とトレーニングをして夜9時からパキスタン政府の大臣を含む現地有力者と食事会。午前1時半に開放され、翌5日、朝6時発の飛行機で8時間かけてフランクフルトへ。ベルリンのホテルに着いたのは23時だったそうです。

 

7日からスタートするアントニオ猪木の欧州ツアーは、当初に予告されていた「11試合」とは程遠い「6か国を巡り、23日間で20試合(+1エキシビジョン)」という、地獄の過密日程でした。

 

改めて記録を見る(後述)と、国境を越え、時差があるため同日でのダブルヘッダーが2試合もある、正気の沙汰とは思えないスケジュールです。

 

猪木自身はこの遠征をこのように語っています。

「何よりも冬のヨーロッパっていうのは、信じられないくらい侘しくてね…。もう草木もないし、夜は早いでしょう。試合が終わってホテルに帰ると、もうレストランも閉まってて食事もできない…。しょうがないからそこのコックさんに無理にお願いして、サンドイッチだけ作ってもらったりね…。なかなかいい経験をさせてもらいました(笑)」

このコメントだけ読むとご本人はノンキな感じですが、真に受けてはいけません(笑)。

 

計20試合中、76年に「異種格闘技世界一戦」を行った柔道のウィリエム ルスカと計5度、プロモーターであるボックとは計3度、対戦しています。

 

なぜか、と言えば、当時「ヨーロッパでのプロレス」はすでに落ち目で、”世界のアントニオ猪木”と対戦できる技術と、ネームバリューのある「まともな選手」がいなかったから、に他なりません。

 

3戦目のカール ミルデンバーガーはかつてアリとも戦ったプロボクサーでプロレスラーではありません。急遽、異種格闘技戦として行われました。

 

8、13試合目で対戦したウィルフレッド デートリッヒはアマチュアレスリングのドイツ代表選手で、1958年メルボルンのグレコで銀、60年のローマではフリーで金、グレコで銀、64年の東京ではグレコで銅、68年のメキシコではフリーで銅といった数々のメダルを手にした、日本で言えば山下泰弘氏のような、地元の英雄です。なんとこの時の猪木戦がプロデビュー戦というのですから、無茶な話です。

 

これ以外にも、実現しませんでしたが柔道界からプロレス転向した東京五輪金メダリストのアントン ヘーシンクとの対戦も予定されていました。

 

要するに、「対戦相手の良いところを引き出し、さらに相手に怪我をさせないように試合を組み立てる」というプロレスラーの基本的な技量と、「最低限のお約束」すら通用しないかも、という状況なのです。

 

プロレスの仕組み、セオリーの理解すら危うい、アマ選手にありがちな「自身の強さだけを見せたい」というリスキーなスタイルの選手を相手に連戦をこなすのは、いくら百戦錬磨の猪木であってもタフすぎる状況です。

 

プロモーターであるボック自身も「プロレスというビジネス」について理解はしていながらも、リング上においては一切の妥協を許さない、シビアすぎるスタイルのプロレスラーでした。

「日本やアメリカと違って、ドイツではプロレスはそれほどメジャーではないからね。特にアマチュアのレスラーはプロレスを真剣な競技とは考えておらず、単なるショーと捉えていた。だから私がプロに転向した時、メディアからは随分ネガティブなイメージで叩かれたもんだよ。しかし、プロレスというものが単なるショービジネスではなく、非常に過酷なスポーツであり、時にはアマチュア・レスリングよりもハードで、アマチュアのルールでは禁止されているものさえ存在することを私は数ヵ月の練習を通じて知った。だから世間の目など気にせずに自分の道をベストな形で進み、この世界で成功を収めようと思ったんだ」(ボック談)

 

さらに猪木を苦しめたのが、慣れないラウンド制のルールと、異様に固いマットのリングです。

 

同行した藤原喜明氏の証言では「リングは木の板の上におが屑を撒いてシートを張っただけ」であり、猪木は連日、その上にぶっこ抜いてスープレックスで叩きつけられ、得意のグラウンドで捕まえてもラウンド制で逃げられてしまう、という不利な状況の中での戦いを連日、強いられました。

 

猪木は2戦目のボック戦でフロントスープレックスで叩きつけられ右肩を負傷。4,8戦目のデートリッヒ戦でも更なるダメージを負い、左足も負傷。連戦のダメージで文字通り満身創痍の状況で迎えたのが16戦目、11月26日 シュツットガルト キーレスバーグでのボックとの決戦でした。

 

●アントニオ猪木vsローラン ボック戦

 

前述の通り、この試合は1978年末最終の「ワールドプロレスリング」で、放送されました。

 

金曜夜8時のお茶の間のブラウン管に映し出される遠い異国の地でのプロレスは、いつもの明るい雰囲気とはまるで違う、薄暗く陰湿で異様な、”地下プロレス”のような空気でした。

 

試合中は当然、ボックへの声援一色です。そして試合中盤から、”ボックを称える唄”の大合唱が起こります。

 

 

いま、ここに至るまでの過酷な連戦や、猪木のコンディション、そして固すぎるリングなどなどの状況を知った上で冷静に試合を観れば、猪木の強靭なスタミナと精神力の凄さ、強さがよくわかる試合であり、決して「一方的」でも「惨敗」でもないのです。…が、リアルタイムで見た視聴者の感想はまるで違うでしょう。

 

「勝って当然、いつもカッコイイ我らがアントニオ猪木」が、組み付けば投げられまくり、それもこれまで見たこともないタイミングでぶっこ抜く、強烈無比なスープレックスの衝撃。

 

 

そして猪木が「0-3の判定で敗れる」という結末。

 

 

この中継を見た全日本プロレスの某選手が「こんな試合が放送されたら、普段のプロレスが八百長だと言われる」と懸念を示した、というウワサがありましたが、それもうなづけるほど、とにかく「普通のプロレス」とは何もかもが異質でした。

 

対戦相手のボックの、落ち武者のような無表情なルックスもその空気を倍増させます。191cm 120kgの巨体は見せるための筋肉も大げさなリアクションもなく、冷徹に攻めるだけ攻めるその残虐なスタイルは不気味で、多くのオールドファンが”ボック最強説”を唱えたくなる気持ちもわかります。

 

家庭用VTRも普及していない、さらにいまのような「ホームとアウェー」の概念もない時代に、この異質な試合はいつしか”全盛期の猪木が惨敗した試合”となり、”シュツットガルトの惨劇”として、長く語り継がれていくのです。

 

▲実況は若き日の古舘伊知郎アナウンサーです

 

●その後のローラン ボック

 

この猪木戦が放送されたことで日本における”ボック幻想”は高まり「地獄の墓掘り人」「欧州の帝王」と呼ばれるようになり、来日が待望されます。

 

しかし、ボックは自らがプロモーターとして手掛けた猪木欧州ツアーが興行的には失敗に終わり、多額の負債を抱え自身の会社が倒産に追い込まれます。猪木へのギャランティが約束通り支払えなくなったボックは、1979年7月に来日して猪木と再戦する約束をしますが、自動車事故による負傷で来日中止となってしまいます。

 

自国での復帰後、12月16日にジンデルフィンゲンでアンドレ ザ ジャイアントと対戦。

 

 

アンドレをバックドロップで投げ(一説ではスープレックスで投げたとも)ますが左足を負傷。その際に心臓麻痺につながる血栓症を誘発させてしまいました。

 

その後、ボックは1981年、待望の来日

 

木村健吾を1分、長州力を3分程度で下し、圧倒的な強さを示しさらに幻想を膨らませます。

 

 

しかし、実際は血栓症の後遺症に苦しみ、コンディションは最悪でした。

 

1981年12月、「第2回MSGタッグ・リーグ戦」終盤戦に特別参加で再来日。

再び長州力を3分で下すと、スタン ハンセンと夢のタッグを結成して蔵前国技館で猪木&藤波組と対戦。藤波からダブルアームスープレックスでピンフォールを奪います。

 

 

 

その後はラッシャー木村、全日本から移籍したばかりのタイガー戸口にそれぞれ3分程度で圧勝。

 

 

そして翌1983年1月1日、後楽園ホールでの元日決戦でアントニオ猪木と待望の再戦が実現

 

 

試合は5分10ラウンドの特別ルールで行われました。開始早々、フロントスープレックスで猪木を叩きつけてみせたボックでしたが、3ラウンドになると明らかにスタミナ切れし、アリキックからの延髄斬りで戦意喪失状態に。

 

最後はロープブレークを無視してスリーパーホールドをかけ続けるボックの反則負け、となりますが、この一戦で”ボック最強幻想”は薄れてしまいました。

 

 

それでも「事故による体調不良」が報じられていたので、翌1984年の第1回IWGP決勝リーグ戦の欧州代表に間違いなし、と復活が期待されましたが・・・

 

その後、ボックは消息不明となり、逮捕の噂が流れ、一時は薬物を売って逮捕されたとか、殺人を犯したとか、果ては死亡説まで流れます。

 

そのため、ボックは圧倒的な強さの全盛期の印象だけが残り、”最強幻想をまとった伝説の強豪”となっていきました。

 


 

時は流れて2012年。

プロレス雑誌「GスピリッツVol.23」に、ボック本人のインタビューが掲載され、”ボックが生きていた!”と大きな話題となりました。

 

 

1983年元日の猪木戦で引退を決意していたこと、帰国後にツアーの資金調達に関係していた第3者の個人投資の損失により懲役2年の有罪判決を受け、個人資産、経営していた所有地を失い収監されたこと、出所後は事業に専念し、シュトゥットガルトに居住して靴部品の販売会社を経営し余生を過ごしていること、などが本人の口から、明らかとなりました。

 

 

●猪木自身が語る欧州遠征、ローラン ボック

 

完全アウェーの状況下で残した「20戦12勝1敗7引き分け」の結果。これについて猪木は、

 

「リングなんて板の上にシート敷いただけですから、それこそスープレックス一発が必殺技になっちゃうんですよ。一回投げられたら腰が痺れて…。”受ける”なんてとんでもない、それどころか、延髄斬りのあと着地したときに、自分がヒジとかヒザにダメージを受けちゃってね。肩も外しちゃったし、ヒザも打撲でやられてひどい状態でしたね」

 

「引き分けが多かったでしょう。もうね、ダメージがあまりに大きくて、倒すことよりも倒されないだけで精一杯でしたね。それでも反面ね、俺のコンディションが悪いことで、逆に相手も俺を極めきれなかった部分もあったんですよ。肩を痛めていたことで右腕が全然使えなかったんだけど、技っていうのはね、相手が全く力を入れていないと逆に完全にはかからないんですよ。相手のパワーや反発も利用して、初めてがっちりと入ったりするんだけど、俺のパワーが落ちてるんで、腕を取ることすらできないという局面はあったね。もちろん俺も技を仕掛けることはできないんだけど、相手はそれ以上に難しかったと思うね。俺を倒せるヤツってそういないと、今でも豪語できるのはそんな経験をしてきているからなんです」

 

ローラン ボックについては、

「あとからスープレックスを武器にしたロシアのレスラーとかが出てきたけど、あの時点ではああいうスープレックスっていうのはなかったですからね。闘ってみて初めてわかったんだけど、ボックの技はレスラーの範疇を超えてて、異種格闘技戦みたいなものだったね。うむを言わさずボーン!ってもってかれるというか、本当に体の反りで投げるから、抵抗する間もなく飛ばされてしまうんですよ。大きいだけじゃなく体も柔らかくて、ブリッジも強くてね。大きさ、柔軟性の他に足も強くて、身体的な素質では言う事ないんで、こいつのどこをどう攻めればいいんだという感じでしたから。(スリーパーホールドでの首攻め以外に)他の部分は攻めきれなかったというのが本当のところかな。関節技も使えなかったんですね。アキレス腱固めは、かかれば効いたと思いますよ。でもかけるまでに足の力ではじき返されてしまう」

 

「凄い野心家だと思うんですね。その野心家の中で、ただ戦略的に成功しなかったというか、非常に我々の考えてるものとは違う、という部分でね。ただ、そのやはり一つの殻から飛び出して行こうというエネルギーというのは凄かったと思うね。彼によってずいぶん多くの選手が怪我をして、再起不能になったというのもね、知ってますしね」

 

●ローラン ボックが語るアントニオ猪木戦

 

試合直後、ボックは

「ミスターイノキはヨーロッパにセンセーショナルを起こしてくれた。彼と戦うことによってプロレスは真剣にファイトするスポーツだと我々の国では認められた」

とコメントしていますが、あれから数十年が経過し、すでに業界とも関わり合いを持たなくなっているボック自身は、あの試合についてなんと語るのか。「GスピリッツVol.23」からその一部をご紹介します。

 

「実を言うとこの試合の後、私は3日間ホテルに閉じこもってベッド゙に臥せていたんだ。猪木との激闘の疲れを回復させるためにね。だから試合後の祝勝会も参加することができなかった。あの試合のあとの写真を見てもらえれば、私がどんなひどい状態だったかわかってもらえると思う。私の最強のヘッドバットでも彼を倒すことができなかった。あの日以来、彼のことは本物のファイターとして尊敬している」

 

「プロレスラーとして最もタフな戦いといえば、シュツットガルトで行われた猪木との試合だ」

 

「プロレスは私にとって冒険だった。最初は何に立ち向かうことになるのかも、このビジネスでどう自分をうまく売り出していけばいいのかもわからなかった。今、自分のキャリアを振り返ってみて、プロレスはもっとショー的要素の少ない、真剣な闘いにするべきだと断言できる。アマチュア・レスリングと同じであるべきとまでは言わないが、プロレスもまたレスリングであり、ただの面白いショーだけではないことを示すべきだと思う」

「日本のプロレスを観戦して感じたことは、日本の観客はショー的な試合だけで満足するような人々ではないということだ。会場に集まった観客がシリアスさを信じているのなら、最低でも試合の一部くらいは本当にシsリアスでなければならない」

 

そして最後に、

 

「あなたたちのヒーローであるアントニオ猪木を、いつまでも大切に思って欲しい。彼はスポーツ界において最強で素晴らしいレスラーのひとりというだけではなく、フェアな精神の持ち主だ」

 

1978 「KILLER INOKI」欧州選手権シリーズ 対戦結果

 

①11月07日 西ドイツ ラーベンスブルグ オーバーショワルツェンスタジアム
      4分10R ○A.猪木(体固め 5R1:33)ウイリエム ルスカ●

②11月08日 西ドイツ デュッセルドルフ フィリップスホール
      4分5R ○A.猪木(反則 5R3:40)ローラン ボック●

③11月09日 西ドイツ フランクフルト フェストホール
      3分15R ○A.猪木(逆エビ固め 4R1:15)カール ミルデンバーガー●

④11月10日 西ドイツ ハンブルグ スポーツホール
      4分10R △A.猪木(10R 引き分け)ジャック デラサルテス△

⑤11月11日 西ドイツ ハノーバー市 メッセホール
4分10R ○A.猪木(逆腕固め 5Rタイム不明)ジャック デラサルテス●

⑥11月12日 西ドイツ ベルリン ドイッチェランドホール
4分10R ▲A.猪木(両者リングアウト 5R1:11)ローラン ボック▲

⑦11月13日 西ドイツ カッセル市 エセスホール
4分10R ○A.猪木(体固め 5R0:53)ジャック デラサルテス●

⑧11月16日 西ドイツ キール コンサートマネージメント
4分10R ○A.猪木(腕固め 4R2:20)ウィルフレッド デートリッヒ●

⑨11月17日 西ドイツ ミュンヘン セベルスメイヤー スポーツホール
4分10R △A.猪木(10R 引き分け)ウイリエム ルスカ△

⑩11月19日 スイス バーゼル市 セントヤゴス スポーツホール
4分10R ○A.猪木(反則 5R2:35)ジャック デラサルテス●

⑪11月19日 オーストリア ウイーン市ウイナー ホーレン スタジアム
4分10R ○A.猪木(反則 4R1:32)オイゲン ウィスバーガー●

⑫11月20日 西ドイツ ザールブルッケン ザーランドホール
4分10R ○A.猪木(体固め 4R0:57)ジャック デラサルテス●

⑬11月21日 西ドイツ ルートウィフハーヘン エバートホール
4分10R ▲A.猪木(両者リングアウト 4R2:51)ウィルフレッド デートリッヒ▲

⑭11月23日 オランダ ロッテルダム マホイ スポーツランド
4分10R △A.猪木(10R 引き分け)ウイリエム ルスカ△

⑮11月24日 西ドイツ ドルトムント ベストフォーレン ホール
4分10R △A.猪木(10R 引き分け)オットー ワンツ△

⑯11月26日 西ドイツ シュツットガルト キーレスバーグ
決勝戦4分10R ●A.猪木(10R 判定)ローラン ボック○

⑰11月26日 ベルギー ルーティッヒ カントリー ホール
4分10R ○A.猪木(逆さ押さえ込み 4R1:42)チャールズ ベルハルスト●

⑱11月27日 ベルギー アントワープ スポーツパレス
4分10R ○A.猪木(反則 4Rタイム不明)ウイリエム ルスカ●

⑲11月28日 西ドイツ シュウェニケン アルセラング ホール
4分10R ○A.猪木(反則 2R)ウイリエム ルスカ●

⑳11月29日 オーストリア リンツ スポーツ ホール
4分10R △A.猪木(10R 引き分け)オイゲン ウィスバーガー△

外11月29日 スイス チューリッヒ
エキシビジョン A.猪木(勝敗なし 10分)ルーズ ハンスバーガー

 


 

コメント

  1. サムラ より:

    とても良い、ジャンルに対するリスペクトのあるコラムでした。
    たまたまブロディと猪木のフルタイム戦のことを思い出し、検索していて見つけました。
    これからたくさん読ませていただきます。

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