“怪物”ジャンボ鶴田さんが亡くなって、もう20年が経ちます。
今回は、全日本プロレスの”若きエース”としてジャイアント馬場の後継者と目された時代、ジャンボ鶴田選手が行った「試練の十番勝負」をご紹介します。
- ■「ジャンボ鶴田 試練の十番勝負」とは?
- 第1戦 1976年3月10日 両国日大講堂 ジャンボ鶴田vsバーン ガニア
- 第2戦 1976年3月28日 蔵前国技館 ジャンボ鶴田vsラッシャー木村
- 第3戦 1976年6月11日 蔵前国技館 ジャンボ鶴田vsテリー ファンク(NWA世界選手権)
- 第4戦 1976年7月17日 北九州市・三萩野体育館 vsビル ロビンソン ジャンボ鶴田vsビル ロビンソン
- 第5戦 1976年9月9日 大阪府立体育会館 ジャンボ鶴田vsボボ ブラジル
- 第6戦 1976年10月22日 愛知県体育館 ジャンボ鶴田vsアブドーラ ザ ブッチャー
- 第7戦 1976年12月2日 川崎市体育館 ジャンボ鶴田vsクリス テイラー
- 第8戦 1977年6月11日 世田谷区体育館 ジャンボ鶴田vsハーリー レイス (NWA世界選手権)
- 第9戦 1977年7月28日 品川スポーツセンター ジャンボ鶴田vs大木金太郎 (UN/アジア両ヘビー級選手権)
- 第10戦 1979年1月5日 川崎市体育館 ジャンボ鶴田vsフリッツ フォン エリック
- 3年半の十番勝負、通算成績は4勝2敗4引き分け
■「ジャンボ鶴田 試練の十番勝負」とは?
1976(昭和51)年、「プロレスファンの手で鶴田を世界のスーパースターに」というコンセプトでスタートしたプロジェクト。全日本プロレス旗揚げ時に行われた「ジャイアント馬場 世界選手権争覇十番勝負」と「ザ デストロイヤー 覆面世界一決定十番勝負」が好評で、それに続く企画でした。
実行委員長は「日本レスリング界の父」と呼ばれたアマレス界のドン、八田一朗氏。当時のプロレス界とアマレス協会は良好な関係にあり、鶴田の全日入り、長州の新日入りを後押ししたのも八田氏。十番勝負の試合前には、八田氏による認定宣言が恒例でした。
対戦相手が一般公募されると、投票総数8万票を超える大反響。プロレス界の「政治」と関係なしにバラエティに富んだビッグネームが揃い、名前の挙がったレスラーはなんと500人超と言われています。
最終候補、として発表されたのは以下の15選手。
NWA王者テリー ファンク、WWWF王者ブルーノ サンマルチノ、AWA王者ニック ボック ウィンクルの当時の3大世界王者を筆頭に、ルー テーズ、バーン ガニア、ドリー ファンクJr.、ビル ロビンソン、アブドーラ ザ ブッチャー、ハーリー レイス、ディック ザ ブルーザー、アンドレ ザ ジャイアント、ザ シーク、大木金太郎、ラッシャー木村、そしてなんとアントニオ猪木。
当然、実現はしませんでしたが、ライバル団体のエースであり、師匠ジャイアント馬場の宿敵、アントニオ猪木の名前が挙がっただけでも画期的でした。そこから”現実的に招聘可能な選手”ということで、下記の10番勝負が行われました。十分に豪華な顔ぶれです。
第1戦 1976年3月10日 両国日大講堂 vsバーン ガニア
第2戦 1976年3月28日 蔵前国技館 vsラッシャー木村
第3戦 1976年6月11日 蔵前国技館 vsテリー ファンク
第4戦 1976年7月17日 北九州市・三萩野体育館 vsビル ロビンソン
第5戦 1976年9月9日 大阪府立体育会館 vsボボ ブラジル
第6戦 1976年10月22日 愛知県体育館 vsアブドーラ ザ ブッチャー
第7戦 1976年12月2日 川崎市体育館 vsクリス テイラー
第8戦 1977年6月11日 世田谷区体育館 vsハーリー レイス
第9戦 1977年7月28日 品川スポーツセンター vs大木金太郎
第10戦 1979年1月5日 川崎市体育館 vsフリッツ フォン エリック
試合形式は全試合、「60分3本勝負」。
現在はシングルは1本勝負ばかりですが、当時のビッグマッチはこのスタイルが主流でした。
第1戦 1976年3月10日 両国日大講堂 ジャンボ鶴田vsバーン ガニア
○ガニア(裸絞め19分12秒)鶴田●
○鶴田(原爆固め 9分54秒)ガニア●
△鶴田(両者カウントアウト13分51秒)ガニア△
*引き分け
第1戦はいきなり”AWAの帝王”との対決。
ガニアは前年11月にニックボックウィンクルに王座を明け渡してはいましたがまだまだトップ選手(当時49歳)。それまで国際プロレスの常連だっただけに、この招聘はサプライズでした。
試合は1本づつ取り合った後、バックドロップをねらったガニアの体制が崩れ、両者ノックアウトで引き分け。デビュー3年目の鶴田としては堂々と大物と渡り合った”価値ある引き分け”でした。
第2戦 1976年3月28日 蔵前国技館 ジャンボ鶴田vsラッシャー木村
○木村(片エビ固め 13分27秒)鶴田●
○鶴田(体固め 6分34秒)木村●
△鶴田(両者カウントアウト 4分53秒)木村 △
第2戦は、同日行われた全日本vs国際 全面対抗戦の第8試合として行われました。
この試合は対戦を迫った木村に対し馬場が「鶴田に勝ったら挑戦を受ける」とのテストマッチとしての意味合いも含まれています。
特別レフリーは芳の里氏、両者リングアウトなしのルール。
1本目は木村がブレーンバスター、2本目は鶴田がダブルアームスープレックスで取り合い、決勝の3本目は鶴田のジャーマンが崩れ、両者フォールという結果に。
この試合は1976年プロレス大賞年間最高試合に選ばれています。
第3戦 1976年6月11日 蔵前国技館 ジャンボ鶴田vsテリー ファンク(NWA世界選手権)
○鶴田(回転エビ固め 15分50秒)テリー ●
○テリー(回転股裂き固め 6分5秒)鶴田 ●
○テリー(片エビ固め 5分12秒)鶴田 ●
第3戦はテリーがNWA世界王者として日本で行なった唯一の防衛戦。
互いに1本づつ取り合った3本目、ロープ際で鶴田が放ったフライング ボディ シザースをロープに打ち付けたテリーがエビ固めで勝利。
この試合を2階席から観戦した天龍が相撲からプロレス転向を決意したことでも有名です。
第4戦 1976年7月17日 北九州市・三萩野体育館 vsビル ロビンソン ジャンボ鶴田vsビル ロビンソン
○ロビンソン(欧州式足折りエビ固め 29分5秒) 鶴田●
○鶴田(回転エビ固め 21分52秒)ロビンソン●
△鶴田(時間切れ引き分け)ロビンソン△
10分延長
△鶴田(時間切れ引き分け)ロビンソン△
前年12月に猪木と伝説の名勝負を繰り広げたロビンソンを招聘しての第4戦。
ロビンソンはそのまま新日本に定着するとみられていただけに、この招聘もサプライズでした(ロビンソンは新日プロのギャラ値下げ交渉に嫌気がさし、ドリーを通じて全日プロへの転身を図りました)。両者は1本づつ取り合い60分フルタイムドロー。さらに10分延長して引き分けに。猪木よりも10分多いところがポイントです。
さらにこのシリーズで馬場はロビンソンのPWF挑戦を受け、2-1で撃破。要するに「ロビンソン=鶴田・猪木、オレはロビンソンより上」というジャイアント馬場のプライドです。
第5戦 1976年9月9日 大阪府立体育会館 ジャンボ鶴田vsボボ ブラジル
○ブラジル(体固め 11分15秒) 鶴田 ●
□鶴田(リングアウト 5分15秒)ブラジル ■
○鶴田(片エビ固め 2分57秒) ブラジル ●
日本プロレス時代、ジャイアント馬場と幾度となく戦った強豪ブラジルですが、この時すでに52歳。
1本目は必殺ココバットが炸裂して先制しますが、2本目はリングアウト、決勝の3本目は鶴田のジャンピング ニーパットでフォールを奪い2-1で勝利。鶴田は5戦目にしてようやく初白星。
しかし、ブラジルはファン投票ランキングでも中位で「鶴田に勝ち星を与えたいばかりに組まれた温情カードではないか」と言われました。
第6戦 1976年10月22日 愛知県体育館 ジャンボ鶴田vsアブドーラ ザ ブッチャー
○ブッチャー (体固め 5分55秒)鶴田 ●
○鶴田 (片エビ固め 3分49秒)ブッチャー ●
◇鶴田 (反則勝ち 3分45秒)ブッチャー ◆
第6戦はこの頃既にガイジンのエース格だったブッチャーとの対決。「鶴田はラフに弱い」と言われていただけに注目を集めました。これまで通り1-1を取り合った末、ブッチャーが苦し紛れの反則負け。「鶴田はラフもやれる」と示しました。
第7戦 1976年12月2日 川崎市体育館 ジャンボ鶴田vsクリス テイラー
○鶴田(体固め 11分20秒)テイラー ●
○ティラー(体固め 3分07秒)鶴田 ●
□鶴田 (リングアウト 3分26秒)ティラー ■
第7戦の相手はこれまでと違い、知名度の低いテイラー。しかしテイラーはミュンヘンオリンピック米代表で銅メダルを獲得した実力者。鶴田もミュンヘンオリンピック日本代表ですので「オリンピック対決」として注目されました。
1本目は鶴田のミサイルキック、2本目はテイラーのボディプレスで1-1となった後、3本目は場外でテイラーのボディプレスを自爆させた鶴田のリングアウト勝ち。当時、ミサイルキックの使い手は日本人では鶴田だけでした(初公開は1976年1月のターザン タイラー戦)。
テイラーはロビンソンに師事し鶴田のライバルになるかと期待されましたが明らかにウェイトオーバー。帰国後に体調を崩し、翌77年に引退。1979年に狭心症で急逝しました。
第8戦 1977年6月11日 世田谷区体育館 ジャンボ鶴田vsハーリー レイス (NWA世界選手権)
○鶴田 (片エビ固め 8分26秒)レイス ●
○レイス(足固め 8分08秒)鶴田 ●
○レイス(首固め 5分24秒)鶴田 ●
半年ぶりの第8戦は第52代NWA世界王者レイスを相手に、テリー戦以来の世界選手権。
テリーを下し世界チャンプとなったレイスは絶頂期。鶴田の攻めをしのぎ切って最後は首固めでしっかりピン。鶴田はこの後も延々NWAに挑戦しては敗け続け、1984(昭和59)年にAWAを戴冠するまで”善戦マン”と揶揄されました。
ちなみにこの日、天龍がセミファイナルでジャイアント馬場とタッグを組み、国内プロレスデビューしています。
第9戦 1977年7月28日 品川スポーツセンター ジャンボ鶴田vs大木金太郎 (UN/アジア両ヘビー級選手権)
○鶴田(体固め 8分35秒)大木 ●
○大木(体固め 8分08秒)鶴田 ●
▲鶴田(両者リングアウト 8分39秒)大木▲
第9戦はベテラン大木金太郎戦。日本プロレスで馬場、猪木と共に三羽鳥と言われ、長年、因縁の抗争を繰り広げていた大木からすると「馬場のところの若造の鶴田」には意地でも負けられません。
結果は1-1から両者リングアウトで引き分け。こうした”意外性のなさ”と”物分かりの良さ”が、鶴田の最大の弱点でした。
第10戦 1979年1月5日 川崎市体育館 ジャンボ鶴田vsフリッツ フォン エリック
○エリック(体固め 5分53秒)鶴田 ●
○鶴田(反則勝ち 3分27秒)エリック ●
○鶴田(片エビ固め 1分05秒)エリック ●
1年半ぶりに行われた最終戦は大御所、”鉄の爪”戦でした。
ブラジル同様、日本プロレス時代に幾度となく馬場と死闘を繰り広げたフリッツもこの時50歳。
短期勝負に出た鶴田があっさり2-1で勝利しました。
3年半の十番勝負、通算成績は4勝2敗4引き分け
世界の強豪相手に勝ち越しは立派、R木村戦で「年間最高試合」にも選ばれるなど次代のエースとしては合格点・・・なのではありますが。2フォールでの勝利は一つもなく、ある意味予想通りの結果でしかありませんでした。
さらには師匠ジャイアント馬場との対決もなく「トップはあくまで馬場、鶴田はあくまでもその下」というお家事情が透けてみえました。
”期待の星”として、文字通り破格のスピードで成長した鶴田はだれがどう見ても唯一無二の馬場の後継者。なのですが馬場は頑なにその座を譲らず、鶴田はこのあと長く、苦しい立場を強いられ続けたのです。
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コメント
十番勝負消化に3年もかけるのは頂けませんねえ(猪木ファイナルカウントダウン並み笑) 3年も経つと新人でなくなり注目度も下がりますから…
年間最高試合賞の常連だった鶴田ですが意外に歴史に残る名勝負が少ないような気がするんですねえ。
それでも最後までやり切っただけ、全日本は良心的です(ドラゴンは・・・以下略)。鶴田さんの「年間最高試合」は、当時の猪木・馬場両巨頭に対するプロレスマスコミ各社の政治的なパワーバランス感覚、を差し引いて考える必要があると思います。鶴龍対決以降は文句なしにベストバウトでしたけれども・・・。
ちょうど十番勝負が日テレジータスでやってましたので改めて(ガニア、ブラジルを除く)全試合を見直しました。
個人的にはテリー戦が一番好きなのですが、善戦マンが通じたのはせいぜい77年頃まで、別項でご指摘になっている通りこのあと鶴田は有り余る才能を持ちながらズルズルと駄目なレスラーになっていきました…。表情が作れない(上田や桜田も批判していた)、わざとらしいピクピク痙攣、意味ないオーッ(子供心にもそんなことしてる暇あったら早く次の攻撃をと歯がゆかった)、自身の欲のない性格もあるでしょうが目の上のたんこぶの馬場、テリー人気にやる気を失い私には善戦マンどころか凡戦マンに見えました。
猪木もかつては若獅子と呼ばれていましたがいつしか燃える闘魂にシフトチェンジ、対して鶴田は三十路過ぎても若大将、
ようやく日本マットの至宝インター王者となり、AWA世界も制し遅まきながら鶴田時代到来かと思ったら長州人気に食われここでも不人気エースのレッテルを貼られる事に…
やっと鶴田が覚醒し怪物王者と化したのが高いギャランティで呼んだ外国人たちでなく、身内だった天龍や三沢との戦いからで、自身が生涯の目標としていたNWAが形骸化してからと言うのが皮肉でした…。
あっ、年間最高試合をとったレイス戦は十番勝負でなく78年の帯広ですよ!
コメントありがとうございます!
あ、鶴田レイス戦は別の試合でしたね、失礼しました。。。
鶴田さんの欲のなさは生まれもってのもの、みたいですがやはりミツヒライの事件も大きかったようですね。
その件はまた改めてそのうちに・・・