”「力道山」と「プロレス」はなぜ、戦後日本に大ブームを巻き起こしたのか?”
”通説”として語られるのは、
「大きなガイジンをバッタバッタとなぎ倒す力道山が、敗戦した日本国民の鬱屈した気分を晴らしたから」。
しかし、よく考えれば、不思議なことだらけです。
●そもそも力道山はなぜ「プロレス」を始めたのか?
●そしてその「プロレス」を、なぜテレビが中継したのか?
街頭テレビでの中継がなければ、日本人がプロレスを知り、熱狂することはなかった事は明らかです。
力道山の伝記などで、プロレスを始めた経緯はわかります。
しかし、日本では未知の競技であるプロレスというものを、これまたスタート間もないテレビが取り上げ、パワープッシュしたのか、という「テレビ側から見たプロレスの価値」がずっと謎だったのです。
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力道山、プロレス転向と、出自の秘密
力道山は、日本統治下の朝鮮半島で朝鮮人の両親から生まれた朝鮮人です。
大相撲入りした力道山は、入幕2場所目の1947(昭和22)年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり優勝決定戦に出場するなどして活躍しますが、関脇に昇進後の1950(昭和25)年9月場所前に突然、自ら髷を切り廃業。
廃業の理由には諸説ありますが、酔うとあたりかまわず暴れて周囲から疎んじられ、師匠の二所ノ関親方との間には金銭問題を含むトラブルを多く起こしていたと言われています。相撲界から引退した時、百田家の戸籍に長男として入籍。
廃業後、部屋の後援者新田新作氏が社長を務める新田建設に資材部長として勤務。その後、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラー・ハロルド坂田と知り合います。この頃(1951/昭和26年)、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて母国から6人のレスラーを招きプロレスを開催していて、力道山は坂田の勧めで練習を見学。ここで力道山はプロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになりました。
そして1952(昭和27)年、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受け、翌年帰国して新田新作氏と興行界の顔役・永田貞雄氏(三波春夫、春日八郎、三橋美智也らのマネージメントを行い裏社会にもつながりが深い人物)の助力を得て、「日本プロレス」を設立。シャープ兄弟を招聘し、1954(昭和29)年2月19日から全国を14連戦した初興行は、この前年に始まったテレビ放送に追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームを巻き越します。
この間、力道山は出自の秘密を公にしていません。今でこそ広く知られていますが、存命中は知る人ぞ知るタブーでした。私の子どもの頃、70年代ごろまでは、あくまでも「長崎大村生まれの百田家に生まれた日本人」とされる記述が多くありました。
では当時、今よりも差別の激しかった時代にも関わらず、力道山は何故、あれほどの時代の寵児、大スターとなりえたのか?
私は長い間、それは彼の持つ天性のスター性(その陽性、人懐こい笑顔は実に魅力的で、”人たらし”とも言われます)による、時の有力者(タニマチ)のバックアップがあってのワザか、と納得しかけていたのですが…。
たまたま読んだ一冊の本で、その謎の片鱗が垣間見えた気がしました。
日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」 (新潮社)
有馬 哲夫
著者は早稲田大学教授。米国公文書館で「CIA正力ファイル」を発掘、公式には発表されていない「日本テレビ設立の経緯」を公表した一冊です。
正力松太郎氏
プロ野球ファンならご存じ、かつての読売新聞社主、東京讀賣巨人軍の初代オーナー 正力松太郎氏。
彼には他にも異名があります。「テレビ放送の父」そして「原子力の父」。
この本で有馬氏は、米国公文書館で474ページにも渡るCIAの機密文書を読み解き、公表しました。
この本はそこらにある「陰謀論」の本とは違い、「ヘタな陰謀論よりスケールのデカイ真実」を明らかにしています。
ズバリ言って、この本を読んでいる人と読んでいない人では、メディアの役割についての捉え方が変わる、程のインパクトがあります。
詳しくはこの本を読んでもらいたいのですが、カンタンにポイントだけ記すと、
●正力松太郎氏は、米国CIAからコードネームで呼ばれる「対日心理戦協力者」だった
●「日本テレビ」は戦後、米国CIA、国防省、国務省などの肝いりで反共産主義プロパガンダとして日本に放送網を巡らすことを目的に設立された(なので「日本テレビ放送網」)
●米国は7年間のGHQによる軍事的占領後、サンフランシスコ講和条約により独立した日本に対して「軍事的パワーによってではなく、心理情報戦略によって再占領を実施、占領状態を永続的に継続すること」を狙っていた
●正力松太郎氏によるテレビ普及策「街頭テレビ」「プロ野球中継」「アメリカ製ホームドラマ」「ディズニー番組」と並んで「プロレス中継」は、日本国民に反米感情を失わせ、親米感情を持つように、という役割があった
というのです。
プロレス、ディズニーとテレビジョン
これを知り、長年の私の疑問が解明した気がしました。
「プロレス」というのは実にテレビ的であり、ストーリーの描けるプログラムとして、プロパガンダに利用しやすいものだった、との指摘は、なるほど、と唸らされました。
これを裏付ける史実として、朝鮮戦争後の韓国でも同様の動きがありました。
アメリカ統治下の大韓民国でもプロレスを「国民的娯楽」として、力道山の弟子で朝鮮出身、馬場、猪木の兄弟子である「大木金太郎(本名 金一)」を力道山二世と襲名させ、テレビを使ったブーム作りが実施されているのです(ただし、大木に力道山程のスター性がなく、のちに後ろ盾の朴正煕大統領が失脚した事で、この試みは失敗に終わりました)。
日本での旗揚げ間もないプロレス中継は、日本テレビだけでなく、なんとNHKでも放送された程の人気番組でした。
NHK大阪放送局の実験放送期間中の1954(昭和29)年2月6日、全日本プロレス協会主催「マナスル登山隊後援・日米対抗試合」が大阪府立体育館からテレビ中継されており、これが日本最初のテレビによるプロレス中継といわれます。
同年2月19日、日本のプロレス史上初の国際試合、力道山&木村政彦VSシャープ兄弟の一戦は、NHKと日本テレビによって2局同時に中継が行われました。東京・新橋駅の街頭テレビには、実に2万人もの人々が押し寄せたといわれます。
1950年代後半から日本経済が高度成長期に入ると、白黒テレビが冷蔵庫、洗濯機と並ぶ「三種の神器」とよばれ個人消費を押し上げる代表的な消費財となりました。そして1959(昭和34)年4月10日の皇太子ご成婚の実況中継、1964(昭和35)年の東京オリンピックのビッグイベントにも後押しされ、家庭へのテレビ普及が急速に進みます。
この時期ずっと、日本におけるプロレス番組の牽引役は正力氏の日本テレビでした。
1957(昭和32)年に日本テレビは、毎週土曜日夕方にプロレスの普及を図る目的の定期番組「プロレス・ファイトメン・アワー」を開始。
1958(昭和33)年8月29日から日本テレビ金曜夜8時枠で「三菱ダイヤモンド・アワー」(三菱電機 単独提供の日本プロレス独占中継レギュラー番組)を開始。
1963(昭和38)年5月24日の力道山vsデストロイヤー戦の中継は、視聴率64.0%を記録。これは現在も、「全局高世帯視聴率番組」歴代4位です。
そして当初、日本テレビのプロレス中継はテレビ映画「ディズニーランド」との週代わり放送だったのです。
これは先の本にある「ディズニー番組とプロレス番組は親米化、反共プロパガンダ政策の一環」という記述と完全に符合します。
ただし、これを持って「プロレスと力道山人気はCIAによって作られた!」という見方は狭すぎます。
プロレス人気爆発の理由
戦後、日本でプロレスブームが起こった理由としては
●開局まもないテレビでは番組のネタが不足し、当初は「純粋なスポーツ中継」として格好のコンテンツだった
●古くから日本人に親しまれてきた相撲や柔道に似ていて、プロレスはそれらより派手で、単純に「面白かった」
●中でも力道山は突出して「華があり、千両役者」として人気が爆発した
●テレビを普及させたいテレビ局、家電メーカーは「高視聴率のキラーコンテンツ」として、力道山とプロレスをバックアップした
という流れだろうと思います。
事実、力道山が日本プロレスを旗揚げした時期はさまざまな団体が乱立しましたが、大した人気は得られず消滅していきました。
なので、決して力道山人気は無理やり作られたものではなく、本人の持つ天性のスター性があってこそ、なのですが…
テレビ局、家電メーカー、そして正力松太郎氏やCIAから見ても大いに利用価値があり、それも加わって庇護を受け、力道山と日本プロレスは日本テレビと二人三脚で発展していった、と考えると、納得がいきます。
アメリカ文化の体現者としての力道山
もう一つ、「力道山」というキャラクターは、「華やかりしアメリカを体現する存在」でもありました。
リーゼントスタイルの髪型、スーツを着こなし、頻繁に米国遠征に出かけ、ハワイで特訓し、血の滴るステーキを食べ、試合後にはサイダーを飲み、年下のスチュワーデスと結婚し、新婚旅行は世界一周。愛車は当時日本に数台しかないベンツ300SLガルウィング(力道山は石原裕次郎から譲って欲しいと頼まれ、別の300SLを探して斡旋したそうです)、マンションを経営(赤坂のリキアパート)し、余暇はヨットやゴルフを楽しむ…
この時代の日本人からすると規格外のスーパースタァぶりで、そしてこれらはまさしく「憧れのアメリカン・ライフスタイル」を体現していたのです。
死後、闇社会とのつながりや酒乱、キレやすい性格など、なにかと悪いイメージばかりが強調される力道山ですが、こういった華やかで、大衆に支持された時期もあった、という点も含めて評価しないと、実像を見誤ると思います。
力道山の表裏社会とのつながりと、その私生活はロバート ホワイティング著「東京アンダーワールド 」(角川文庫)という本にも登場します。
こちらは戦後日本の裏社会の勢力分布とその暗躍を描いてまして、興味深いエピソード満載でオススメです。
コメント
拝啓 サイトヘッド様には猛暑の中よろしくお願いいたします。
このサイト様は非常に奥が深く、興味深く、更になかなか難しい部分もありますが、今後も物凄く楽しみにいたしております。
*「力道山選手のある一面について」
自分が、、、、記憶では小学校5年位の頃、1968年頃と記憶しておりますが、当時人気の少年雑誌「少年キング?」に毎週連載されていたのが「ジャイアント台風 原作=梶原一騎 漫画=一峰大二(おそらく絵の感じの記憶から) 」がありました。当時は本屋での立ち読みは常習犯で、あまりにも度が過ぎるとハタキで叩かれたり嫌味言われたり、、、それでも止められなかった。何せ貧乏な上小遣いも無いに等しく、更に期待外れの劣等生では親からも見放されておりましたからね。年中腹ばかり減って食い意地ばかり張っていた嫌なガキでした。
こんな中、本屋で立ち読みと言いますのは「常に緊張の中、何かを記憶しよう学ぼう」と言う気持ちが在ったのか、、、妙に記憶が鮮明なのです。この「ジャイアント台風」の中で、自分にとって生涯忘れられぬシーンがあり、明確に記憶しているシーンがありました。
それは「G幅選手が本中で語った事」なのですが、いみじくも「自分の師匠である力道山は、実は決して絶対に苦労話を語ろうとはしなかった、、、何故?それは苦労話も自慢話だ」と。
当時小学校5年程度の頭の悪い糞ガキの自分の心に「妙に熱く、絶対に忘れられぬ心の栄養」として肝に刻み込まれた言葉でした。この時自分は「嗚呼っもしかして力道山選手ってぇ偉い人なんだなぁっ」と。そしてこの言葉は今日、63歳の糞爺の歳になるまで人生の指針となった言葉でした。サイトヘッド様が言われる「力道山選手の出生の秘密や国籍」等の生臭い問題は、実は当時から自分等は知っていたところをみると、当時の日本人にとって少なくても力道山選手の国籍がどうたらこうたらなんてぇ関係無かった様でしたね。
この「ジャイアント台風」は、G馬場選手が、野球選手を大怪我して首になり、プロレスに転向してアメリカに武者修行の旅に出て、凄まじいジャップの怒号と人種差別、銭が在っても飯を食わしてくれない食い物も売ってくれない中、現地のミノルと言う少年と出会い、選手としても人間としても大きく成長していく忘れられぬストーリーでした。
サイトヘッド様の周囲にもおられませんか? 苦労して成功された方々が、、、自分の周囲にも何人か立身出世の方々がおられました。しかし大変残念な事に、まぁ酒の席とは言いながら「若ぇ頃はようっ、苦労してなぁっ 落ちてる物まで拾ってよおっ」とか何とか聞かれもしねぇ事をとうとうとくっちゃべって、、、、、「男が下がるぜ」と。そういう方に限って現在「物凄いを超えた大豪邸に住み、銭金女も外車も別荘もやりてぇ放題」と。非常に残念です。
男ってぇ、酒の席では黙って歯を見せねぇってぇのが恰好良い男だと教わりました。
力道山選手も解っていたのでしょう。何せ苦労人でしたのでねぇ。自分としての力道山選手は、どちらかと言えばプロレス選手より何より「TVドラマ=チャンピオン太 映画=力道山の鉄腕巨人」等での怪演?が記憶に残ります。上記の本の存在はおぼろに知ってはおりましたが今回も勉強させて頂きました。何せ日本は敗戦国、、、GHQのみならずフリーメースンリーもイルミナティも、当然暗躍していたでしょうね。自分もこういった裏は物凄く興味関心があり、かなり以前から「旧大日本帝国海軍のレーダー技師の生き残り」の方などを取材し、非常に興味深い内容=「戦前戦中戦後は日本はスパイ天国であり、連合国は全てを知り尽くしていた」「江戸末期から存在する中核の大企業=奇しくも同じアルファベットの大企業はスパイだったとか、まぁこちら様では到底言えない書けない様なヤベェ話」も収集しました。
しかし、どういう状況であれ力道山選手が凄い選手であった事は事実であり、否定できませんね。だとしたら、その功績は功績として正しく認め評価し、その上で隠された使命や任務等もいずれ解るでしょう。今後もサイトヘッド様には物凄く期待しております。 敬具
コメントありがとうございます。「ジャイアント台風」「チャンピオン太」「映画鉄腕巨人」・・・重要なキーワードが連発ですね!