「大木金太郎」~1929-2006 テーズとのシュートマッチ、力道山襲名計画の真相

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プロレス
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ジャイアント馬場、アントニオ猪木と並び、「力道山道場三羽鳥」と言われた大木金太郎。

 

「一本足原爆頭突き」を武器に日本、米国、韓国で活躍し、後輩にあたる猪木、馬場とも因縁の対決。そして”二代目力道山”襲名に執念を燃やし、ルー・テーズにセメントを仕掛けた”韓国の虎”の、在日朝鮮人としての意地とプライドに迫ります。

参考文献:「史論-力道山道場三羽鳥」「Gスピリッツvol.37」
小島悦次著/辰巳出版

 

1970(昭和45)年生まれの私は当然、日本プロレス時代の大木金太郎は知りません。劇画「タイガーマスク」の「大木せんぱい」や、後に映像でいくつかの試合を見たくらい。

 

猪木、馬場との一騎打ちや、坂口との抗争も後追いですし、リアルタイムでハッキリ覚えているのは、キム・ドク(タイガー戸口)とタッグを組んで、全日プロに参戦していた最後期の姿です。

 

日プロ時代の試合では、「キム・イル、大木金太郎です」と紹介されているのが印象的です。プロレス界に在日の選手は数多いのですが、わざわざ韓国名でも呼ばれるのは、この人くらいです。

 

そこにはのっけから波乱過ぎるプロレス入りの経緯と、日韓を股にかけたこの人の意地とプライドを感じさせます。

 

 

若手時代の大木、馬場、猪木

 

大木金太郎は1929(昭和4)年生まれ。大韓民国(日本統治時代の朝鮮)全羅南道 高興郡 金山面 出身で、本名は金一(キム・イル)と言われていますが、本当は金泰稙(キム・テシク)なのだそうです。

 

1958(昭和33)年、漁船で日本に密入国。自伝によれば「20時間かけて下関に入港し、そこから大阪経由で東京に向かい、東京駅で捕まった」とあります。大木は同郷の英雄・力道山に憧れプロレス入りのチャンスを伺っていましたが入管法違反で逮捕、収監されてしまいました。

 

大木は獄中から力道山に手紙を書き、力道山が身元引受人となることで当時の日本プロレス・コミッショナーの大野伴睦氏(自民党副総裁)の力添えで釈放。日本プロレスに入門しました。

 

1959(昭和34)年9月4日、東京・日本橋浪花町プロレスセンターでデビュー。デビュー戦の対戦相手は、後に全日本プロレスのレフェリーとして有名な、樋口寛治(ジョー樋口)でした。この時、「大木は1933年生まれの26歳」が公称でしたが、実際は4歳もサバを読んでいて、30歳でした。

 

日本プロレスは同年5月に開催した「第1回ワールドリーグ戦」で、やや陰りが見えかけていた人気が復活した時期でした。

 

その後は先輩のミツ・ヒライ、ユセフ・トルコ、吉原功、ミスター珍、田中米太郎らに連戦連敗。記念すべき初勝利は、1960(昭和35)年9月、東京・台東体育館での猪木寛至戦。そうです、アントニオ猪木のデビュー戦です。その後、同じくデビューしたての馬場正平に2つの引き分けを挟んで勝利したのが、キャリア3勝目でした。

 

大木金太郎31歳。1年遅れで入門した後輩、馬場正平は22歳、猪木寛至は17歳。出世は馬場が最も早く、1961(昭和36)年6月にはアメリカマットへ海外武者修行が決まりますので、1960(昭和35)年4月からの1年3か月間が「道場三羽鳥」の期間です。

 

この間の対戦成績は、対猪木が2勝0敗1分け。対馬場は2勝5敗6分け。ちなみに、この時期の馬場対猪木は馬場の6戦全勝。日プロ時代通算では、全16戦ですべて馬場の勝利でした。

 

 

海外武者修行と師・力道山の急逝

 

ジャイアント馬場は海外武者修行で大きな戦果を挙げ、1963(昭和38)年3月に一時帰国。以降の馬場は力道山ともタッグを組み、メインイベントへの出場機会も増えました。

>馬場の海外武者修行”初代レインメーカー”時代についてはこちら

 

この時期の大木と馬場の対戦成績は、馬場の4勝2分です。

 

大木金太郎が初めてガイジンレスラーと試合したのは1961年11月のカール・クラウザー(後のカールゴッチの初来日)戦。そして大木は1963(昭和38)年9月、初の海外武者修行へと旅立ちます。

 

1963年末、力道山が急逝。日本プロレスは豊登、芳の里、遠藤幸吉、吉村道明のトロイカ体制となります。

 

幹部は馬場を呼び戻し、大木と猪木は2-3年、海外で修業させる計画でした。こうして猪木は1964( 昭和39)年4月に渡米しました。

 

 

ヒューストンの惨劇~なぜ大木はテーズに無謀なシュートを仕掛けたのか?

 

1964(昭和39)年10月16日。ヒューストンでNWA世界王者ルー・テーズに挑戦した大木は、無謀なセメントを仕掛け、返り討ちに遭い顔面を24針も縫う惨敗を喫します。

 

これは現地専門誌「レスリングビュー誌」、日本では東京スポーツで報じられ、人気漫画「ジャイアント台風」(原作:高森朝雄(梶原一騎))などで取り上げられた”事件”。「ヒューストンの惨劇」と呼ばれます。

 

60分3本勝負の1本目、18分過ぎ。大木のセオリー度外視の頭突きラッシュに怒り心頭のテーズが、大木の顔面にパンチを連打して血だるまKO。試合続行不可能となった大木はタンカで運び出され、救急車で病院送りになりました。

 

テーズ曰く、「リングに上がってくる大木に殺気を感じたので、すべきことをしたまで」。

 

大木が地区入りしてすぐ、知名度も集客力もないのに世界戦に挑戦できたのは、グレート東郷による「裏工作」が明らかになっていますが、その金の出どころはどこなのか。さらにキャリア5年目とはいえ既にテーズとの対戦経験もあり、その実力(表も裏も)を知っていたハズの大木がなぜこのような無謀なケンカを仕掛けたのか。

 

この裏には幻の”力道山襲名計画”と、韓国政府の存在がありました。

 

 

幻の”力道山襲名計画”と、韓国政府によるバックアップ

 

大木金太郎の「力道山襲名計画」は”ヒューストンの惨劇”の2か月前、1964(昭和39)年8月、日本プロレスの役員会で起案されました。

 

この役員会には社長の豊登と、芳の里、遠藤、吉村に加えて、日本引き留めの見返りに若くして役員になっていた馬場、力道山未亡人の百田敬子さん、そして協会長の児玉誉士夫氏、監査役の町井久之氏が出席。

 

そしてこの計画を強く要請したのが、児玉氏と町井氏だと言われます。

 

児玉氏はCIAのエージェントと言われ、のちのロッキード事件のキーパーソンとなる人物。当時の日本最大の右翼団体「全日本愛国者団体会議」の指導者であり、右翼や任侠団体、表裏の政財界とつながり膨大な資金力で強大な権力を誇る「戦後日本の黒幕」。60年安保で反対運動を封じ込める役割を担い、政権与党の自民党に大きな貸しを作っていました。

 

町井氏は後に民団(在日本大韓民国民団)の要職にも就いた在日韓国人で、当時は東風会の会長。この組織は後の朝鮮総連の勢力拡大を阻止する目的で結成された「反共産主義思想団体」で、長く力道山のボディガードも務めていました。

 

そしてもう一人、この役員会には出席していませんが協会副会長だったのが山口組三代目、田岡一雄氏。児玉、町井、田岡の3氏は力道山時代に懇意にしていた「実力者」で、共通するのが「反共」というキーワードです。

 

児玉、町井の両氏は大木の力道山襲名を要請。社長の豊登は「世界、もしくはそれに準ずる王座奪取のあかつきには」との付帯条件を付けて、しぶしぶ了承(後に「半強制的に約束させられた」と証言)。

 

しかし、この当時力道山が半島出身であることは公には伏せられており、「長崎出身の日本人」が通説でした。そのため韓国人であると公言していた大木の力道山襲名には、日本人の反発=プロレス人気低迷のリスクしかありません。

 

ではなぜ、それを承知で襲名計画が進められたのか。さらにその裏には、時の韓国大統領、朴正煕の存在があったのです。

 

 

朴正煕大統領と大木金太郎

 

朴正煕は、1961(昭和36)年の「反共・親米」を掲げたクーデターで大統領に上り詰めた、韓国陸軍出身の軍人です。日本との国交を回復、「日韓基本条約」を締結したことや、後の「金大中拉致事件」でも知られています(朴槿恵18代大統領の父)。

 

朴大統領と児玉、町井、田岡氏らは日韓国交正常化の際の”根回し”時に、深いつながりがありました。

 

朴大統領は戦後の日本をモデルとして、プロレスを「反共・親米」コンテンツとして活用したいと考え、「力道山の弟子である、在日韓国人の大木」に白羽の矢を立てました。

 

事実、大木は襲名計画が起案された日本プロレス役員会直前の1964年6月に韓国に招かれ、ソウル大統領官邸・青瓦台の裏にある朴大統領の剣道練習所を改造し「キム・イル道場」とするなど、全面バックアップを約束されていました。

 

そこで朴大統領から大木に課せられた使命が「力道山襲名」と「世界チャンプとしての凱旋」だった、と言われているのです。

 

 

力道山の野望

 

1963(昭和38)年12月、暴漢に刺された傷がもとで急逝した力道山には、大いなる野望がありました。

 

力道山は朝鮮戦争終結の1953(昭和28)年、日韓国交回復のための水面下での交渉に駆り出されています。亡くなる11か月前の1963年1月、力道山は秘密裏に韓国を訪問。当時は日本国内では出自は明かしていないため試合はできず、マスコミも随伴していません。

 

この時点で公称38歳の力道山は、引退後に実業家として活動すべく、相模湖レジャー施設建設などを進めていました。日本プロレス春の本場所「ワールドリーグ戦」はこの63年で打ち止めにし、現役NWA王者をはじめ当時、新設されはじめた各地の「世界王者」を招聘しての「世界統一戦」的なリーグ戦開催での優勝を花道に引退を考えていた、とされます。

 

さらには翌1964(昭和39)年の東京オリンピックに全面協力、多額の寄付を行い、その「貸し」を引退後の実業家活動の源泉とする。オーナーとして日本プロレスは馬場をエースに、さらには戦後復興で沸く韓国に進出し、大木をエースに「韓国版ワールドリーグ戦」を開催。興行と事業でのビジネス拡大を目論んでいたようなのです。

 

 

襲名計画は不発、国際プロレス移籍未遂事件

 

結果として、この計画は水泡に帰しました。大木がセメントをしかけたテーズはそこまで生易しい男ではなく、これを容赦なく粉砕。

 

ならば、と大木は3年後の1967(昭和42)年、ソウルでのタイトルマッチでマーク・ルーインを破りWWA世界王者となりますが、その時点の日本プロレス社長、芳の里は「前任者の決めたこと」と約束をなかったことに。

 

既に豊登は追放され、1964(昭和39)年からの警察の暴力団壊滅「第一次頂上作戦」で児玉氏らが日本プロレスから身を引いており、大木は後ろ盾を失っていました。

 

また1968(昭和43)年に大木はグレート東郷に誘われ、東京プロレス崩壊、猪木と決裂後の豊登が参戦する国際プロレスへ移籍寸前までいったこともありました。この計画は日本プロレス側にバレ、怒った当時の日プロレフェリー、ユセフ トルコが東郷をボコボコにして警察沙汰に。結局このプランも未遂に終わっています。

 

念願の日本プロレスのエースに-しかし崩壊

 

その後の日本プロレスはジャイアント馬場と、東京プロレスから出戻ったアントニオ猪木のBI時代に。

 

エース馬場がインター王者、猪木がUN王者、大木はアジアタッグ、アジアヘビー級王者として活躍。

 

日本テレビに加えNET(テレビ朝日)による中継もスタートし、日本プロレスは第二次黄金期を迎えます。

 

 

ところが1971(昭和46)年末に猪木が会社乗っ取りを理由に追放。大木は馬場に代わり選手会長を務め、猪木追放の急先鋒でした。その後、1972(昭和47)年には馬場も離脱。

 

ここにきてようやく大木は、宿願の日本プロレス”エース”の座に就きました。「柔道日本一」の肩書で1967(昭和42)年にプロレス入りした坂口征二をエースに推す声も高かったのですが、古株の大木としては譲るわけにはいきませんでした。

 

 

しかし。馬場・猪木と比べると地味で華もない大木の人気と集客力のなさはいかんともしがたく、会場は閑古鳥。馬場を社長に新団体を興させた日本テレビはもちろん、残ったNET(テレビ朝日)にも見切りをつけられ、猪木・坂口が合体した新日本プロレスを放送すると決定します。

 

1973(昭和48)年4月。大木ら日本プロレス所属選手は力道山の眠る池上本願寺で記者会見を開き、活動停止を発表。同月20日の群馬県吉井町体育館が、日本プロレス最後の興行になりました。

 

 

新日本プロレス参戦、アントニオ猪木、坂口征二と抗争

 

日プロ崩壊後、大木はしぶしぶ馬場率いる全日本プロレスに合流しますが、カード編成で冷遇され1973(昭和48)年いっぱいで離脱。

 

1974(昭和49)年に入るとアントニオ猪木への挑戦をブチ上げ、10月に蔵前国技館で一騎打ちし、涙の敗戦。

 

 

翌1975(昭和50)年3月には、猪木が新日プロ所属選手とガイジンレスラーを引き連れ、韓国マットに参戦。大木の持つインター王座に挑戦しています(結果は両者リングアウトで大木の防衛、猪木はこれが生涯唯一のインター王座挑戦でした)。

 

この新日本参戦時には、かつて日プロ崩壊時に因縁(日プロと新日プロの合併計画を大木が反対)のある坂口征二と、プロレス史に残るガチガチの遺恨試合を繰り広げました。

 

 

再び全日本プロレス参戦、現役引退へ

 

猪木戦から1年後の1975(昭和50)年10月、全日プロにUターンした大木は同じ蔵前国技館で馬場と一騎打ち。馬場は猪木より早いタイムで大木を破りました。

 

 

1976(昭和51)年には日プロ崩壊で消滅していたアジアヘビー級王座を復活させ、全日マットで馬場、ジャンボ鶴田らと防衛戦を行っています。

 

その後は愛弟子のキム ドク(タイガー戸口)をパートナーに馬場&鶴田組を破ってインターナショナルタッグ王座を獲得。ドクとのコンビで世界オープンタッグ選手権、世界最強タッグ決定リーグ戦にも参加。大木&ドクの「韓国師弟コンビ」vs馬場&鶴田の「全日師弟コンビ」の抗争は、この時期の全日プロのドル箱カードでした。

 

その後、国際プロレスにも参戦。全日本プロレスの要請で力道山の至宝インターナショナルヘビー級王座を返上し、馬場が奪取。大木はその見返りに1977(昭和52)年に馬場に奪取されて以降、封印されていたアジアヘビー級王座を戴冠。

 

その後、1982(昭和57)年の阿修羅 原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となりました。

 

この間、大木はずっと韓国マットと日本を往復しながらもう一方の雄、張永哲としのぎを削りながら祖国のプロレス定着に尽力しますが・・・結局、韓国にプロレス人気は定着しませんでした。

 

「韓国マットには力道山も、猪木もいなかったから」と言われています。

 

 

「夢の懸け橋」での引退セレモニー、猪木との友情

 

1995(年4月2日。東京ドームで行われたベースボールマガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」で、功績を讃えて大木の「引退セレモニー」が行われました。車いすを押すのは、かつて因縁のあるルー テーズでした。

 

闘病生活を経て2006年10月26日、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。享年77歳でした。

 

晩年、闘病中の大木の自宅に猪木が訪れ、旧交を温めました。猪木は訃報の際もソウルの病院に駆けつけています。猪木は大木金太郎を「力道山の理不尽なしごきにあっていた時、親身に相談に乗ってくれた先輩」「本当に勝つのが好きな人だった」と語っています。

 

 

死去から14年後となる2020年、大韓民国国家報勲処は大木の韓国スポーツ界発展に尽くした功績を評価し、国家顕彰者として国家社会貢献者墓域(国立墓地)に改葬することを決定。5月22日に遺骨が納骨されました。

 

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