ジャイアント馬場とアントニオ猪木。
力道山の死去後、昭和の日本プロレス史はこの2人の約40年に渡る、対立の歴史です。
なぜ、この2人はこれほどまでに対立していたのか?
そして、新日プロクーデター事件、大量離脱事件では下から突き上げを喰らったアントニオ猪木が、かつて自身が計画しそれが原因で追放された「団体乗っ取り」疑惑とは?
いまではプロレス史において、
「昭和46年(1971年)12月13日 アントニオ猪木と側近による日本プロレス乗っ取りが発覚し、猪木は日本プロレスから除名、追放された」
と、一行で片付けられるこの重大事件を、可能な限り時系列で追い、関係者のコメントも発掘して解明してみたいと思います。
*文中敬称略
その前に、馬場と猪木の関係についてザックリ、説明します。
◆日本プロレス入門から「BI砲」黄金時代(1960〜1970)
1960年、2人は力道山が率いる日本プロレスに、ほぼ同時に入門します。
馬場は投手としてプロ野球巨人軍に入るも一軍に定着できず、大洋ホエールズにテスト生として拾われますが風呂場で怪我をして野球を断念、プロレスの門を叩きました。
その時、力道山はブラジル遠征から帰国。横にいたのが一家の移民先であるブラジルで力道山と出会い、日本に連れ戻された猪木でした。
年齢は馬場(23歳)が猪木(18歳)の5歳年上ですが、入門もデビューも同時の同期生です。新人時代の対戦成績は馬場が16戦全勝。当時は体格も将来性も馬場が圧倒的でした。
プライベートでは仲が良く「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合い、歳上の馬場を猪木が慕っていました。
最初の転機は63年の力道山の逝去です。
力道山亡き後、馬場を新エースに、という流れに反発した力道山時代のナンバー2、豊登が新団体「東京プロレス」を旗揚げ、猪木を引き抜きます(太平洋上猪木略奪事件)。
しかしその団体はすぐに崩壊し、猪木はコミッショナー裁定で日本プロレスに出戻りを許されました。
1967年、復帰した猪木はエース馬場とタッグチームを結成。これが「BI砲」として大人気を博し、プロレス人気は再び黄金時代を迎えます。
1969年には日本テレビに加えてNET(現テレ朝)も中継をスタート、2局放送体制になります。「馬場の試合は日テレしか放送できない」契約のため、NETはNo.2の猪木の試合がメインです。
結果として、週に2回もゴールデンタイムでその活躍が放送される「若獅子」猪木の人気が上がり、同年に馬場を抑えて初めてワールドリーグ戦で優勝するなど、猪木自身もエースである馬場との格差を縮め、乗り越えようと躍起になっていました(実際に馬場への挑戦、をブチ上げ「時期尚早」とストップをかけられたりしていました)。
次回はいよいよ、②事件の真相に迫る時系列ドキュメント編です!
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