今ではお笑いネタとしての方が有名な「飛龍革命」。
今回は、数多くの方が挑んで解明できなかったその有名なやりとりの解析と、その前後になにがあったのか、藤波が成し遂げた意義についてまでを、新日プロ事件シリーズとして、大真面目に取り上げます。
◆飛龍革命とは?
1988年4月22日 沖縄県立奥武山公園体育館。
新日プロの試合後控え室で、藤波辰巳(当時。現 辰爾)がアントニオ猪木に対して初めて意を唱え「エースの座を譲れ」と直談判する事件が起こりました。それが世に言う「飛龍革命」です。
この日のメインイベントは、アントニオ猪木 藤波辰巳VSマサ斎藤 ビックバンベイダーのタッグマッチ。結果は防戦一方の猪木を庇った藤波がフォールをとられ、猪木組の惨敗でした。
試合後の控え室になぜTVカメラが入っていたのかは今もって謎です。そして、この時のやりとり、特に藤波が猪木に対して発した言葉が、持って生まれた滑舌の悪さから「何言ってんのかわかんない」「何故前髪を切る」「モイスチャーミルク配合って言ってる」などなど、ユリオカ超特急さんをはじめとした多くのお笑い芸人にネタにされています。
当時、リアルタイムでTV中継を観ていた私は、藤波の滑舌には慣れていた事もあり(笑)、すんなり理解できました。
ズバリ言って、細けぇことはいいんです(猪木調)!(と言いつつ、後で細かくなに言ってるか解析しますが)
とにかく「あの」藤波が、ついに猪木に対して、真っ向から現状の問題を突きつけ、オレに任せろ!と言い放ち、そのただならぬ迫力に、いつもなら圧倒的に上から力でねじ伏せる猪木が完全に気圧されした様子が生々しく、衝撃的でした。
◆前年の1987(昭和62)年
この時期、新日プロは落ち目でした。
TV中継の視聴率も下降線を辿り、いよいよ金曜夜8時のゴールデンタイム降格か?と噂されていました。
「暴動の歴史」でご紹介した、海賊男による大阪城暴動、年末のたけしプロレス軍団による両国暴動が起こり、猪木のカリスマ性の翳りがどうにも濃くなっていた時期です。
11月には前田日明が長州顔面蹴撃事件を起こし解雇。この飛龍革命の翌月には、いよいよ新生UWF旗揚げを控えていました。
そして、ライバル団体の全日プロでは天龍革命が勃発。長州の新日プロUターンに危機感を募らせた天龍は阿修羅 原と「龍原砲」を結成して元横綱の輪島、エースであるジャンボ鶴田に対して牙を剥き、新日のお株を奪う激し過ぎる抗争、ガチガチの試合を重ねて、ファンの圧倒的な支持を得ていました。
そんな中で長年、ストロングスタイルで急進的、過激な姿勢で信者と呼ばれる支持者からの熱狂を生み出していた新日プロは、タイガーマスクも前田日明も失い、もはや保守的ですらあり、戦いを忘れ、ヘンテコな目先のギミックに走りファンの支持を失う迷走を続けていたのです。
◆1988(昭和63)年
これまで年に一度の開催だったIWGPがタイトル化され、初代チャンピオンにはアントニオ猪木が就きました。
猪木は期待された前田とのシングルマッチを避け続け、続く世代闘争でも若手の武藤やガイジンのマードックを巻き込んではぐらかし、自身はマサ斎藤との「巌流島」やマードックとのIWGP決勝戦、優勝などで必死の「延命」を続けていましたが、プライベートでも倍賞美津子との離婚、アントンハイセル事業の破綻と、公私ともにボロボロでした。
猪木は興行やTV視聴率の不振をなんとか、持ち前の「アイデア」で切り抜けようとしましたが、ことごとく裏目裏目に出て、ファンの失望を買い、時代の流れにも取り残され、猪木 新日プロは業界でも独り負けしている感がありました。
月曜夜8時を経て、3月にはついに、TV中継が土曜夕方に格下げになります。
当時34歳だった藤波はこの状況に危機感を抱き、猪木への謀反となって爆発したのが、この「飛龍革命」だったのです。
◆「飛龍革命」のやりとり(意訳付き)
試合後の控え室。椅子に腰掛ける猪木の前に歩み出た藤波が、口を開きます。
藤波「お疲れ様です」
猪木「あぁ」
藤波「ベイダーとシングルやらせてください」
猪木「え?」
藤波「ボク、今日何もやってないです。もういい加減、許してください。もう一回言います。まっすぐ自分の思うことをやります。お願いします」
猪木「…」
藤波「ハッキリ言ってください猪木さん。東京と大阪2連戦無理です、ハッキリ言って」
(この後、猪木はベイダーとの2連戦を控えていた)
藤波「オレ、今日フォール取られといて言える立場じゃないですけど…オレらは何なんですか、オレらは!」
(長い沈黙)
猪木「本気かい?えぇ?」
藤波「本気です!」
猪木「命かけたのか、命を。勝負たぜオマエ、この場は」
藤波「もう何年続くんですか!何年、これが!」
猪木「だったらブチ破れよ!何でオレにやらせんだオマエ!」
藤波「じゃあやらせてください!いいですか?やりますよ大阪で」
猪木「あぁ?オレは前から言ってる、遠慮するこたぁねえって。リングの上は戦いなんだからよ。先輩も後輩もない、遠慮されても困るよ。なんで遠慮するんだオマエ!」
藤波「遠慮してんじゃないです、これが流れじゃないですか!これが新日本プロレスの!えぇ?そうじゃないですか?」
猪木「じゃあ、力でやれよ、力で」
藤波「やります!」
猪木「あぁ?…やれるのか本当にオマエ!」
(猪木が藤波にビンタ!藤波も張り返す!)
藤波「も€@&gd@&_/+=|:#$〆¥…〆!」
(もはや言葉にならず、おそらくは「もう何年続くんですか、いい加減にしてください」的な発言)
猪木「あぁ?いけるかい?ええ?」
(猪木が藤波の頬に手を添える、それを振り払った藤波は後ろを振り向き、床にある道具箱からハサミを取り出し、自ら前髪を切り始める)
藤波「やりますよ!」
猪木「待て待て待て」
藤波「こんなんでお客さん喜びますか?こんなんじゃお客さん喜ばないですよちっとも!オレ負けても平気ですよ!負けても本望ですよ!やれるんだったら」
猪木「よぉし、やれ!やれるんなら」
藤波「やります。やらしてください」
猪木「あぁ。オッケー。もうなにも言わんぞもう。やれ、やるんなら」
藤波「大阪でオレの進退賭けます!それだったらいいですか?」
猪木「なんだっていいや。なんだっていってこいや。遠慮するこたねぇよ」
藤波「もういいです!」
◆後に藤波本人が語る当時の心境
「あのときの猪木さんは、いろいろ問題を抱えていて、なんとか自分の活躍で現状を打破したいと思っていたが、とにかく上手くいかないので、イライラしていた。猪木さんの負担を軽くしたい、自分の力で何とかしたいという気持ちから、突発的に(あぁいう行動に出てしまった)。前田がUWFに行ったり、長州が全日に行ったりして自己主張をしていて、そんな姿を見て、自分に対するイライラがあった。何故髪を切ったのか、全く分からない。とにかく何かを変えたくて、衝動的に箱にあったハサミが目に入って切ってしまった」
私が思うに、前髪を切る事で自身の本気、覚悟を示したのだと思います(真面目か)。
このやりとり、プロレスをよくわからない人からすると「そういうシナリオなんでしょ?」と思うかもですが、猪木と藤波の関係と、プロレスの興行の仕組み、マッチメイク、ストーリーラインなどがわかる人から見ると、かなりギリギリの、ガチな攻防であることが伺えます。
猪木と藤波は単なる師弟関係ではなく、尊師と信者なみの関係です。これまで、どんな事があっても猪木の下から動かなかった藤波が、初めて猪木のやり方、それもプロレスラーとしてだけでなく、興行主、プロモーターとしておかしい、間違ってる、と反旗を翻しているのです。
「オレらは何なんですか」はプロレスラーとしての叫びですが、「これが新日本プロレスの流れじゃないですか」「お客さん喜びますかこれで」は、新日プロの興行(マッチメイク)やTV中継の視聴率に危機感を抱き、そしてファンの声を代弁した叫びと言えます。
藤波はプロレスラーでありながら、猪木と新日プロの一番のファンでもあるのです。
◆その後
このやりとりの数日後、猪木はなんとジョギング中に左足甲を骨折するというアクシデント。保持していたIWGP初代王座を返上して「治療に専念する」と雲隠れ。以降の試合を欠場します。
このタイミングでの猪木の負傷欠場はなんとも疑惑ですが、藤波にとってはIWGP王座獲得のチャンスとなります。
5月8日、有明コロシアム大会でのIWGP王座決定戦。藤波はベイダーに勝ち王座を奪取(第2代)しますが、反則勝ちの辛勝でした。
その後、藤波は長州と王座を賭け2度対戦。一度は負傷して王座返上。再戦して長州を首固めで破りベルトを獲り返した(第3代)あと、IWGPチャンピオンシリーズ最終戦で再び、ベイダーと一騎打ちを迎えます。
そして藤波はベイダーのオープンフィンガーグローブでの猛烈なパンチ攻撃ラッシュを耐えに耐え、最後は逆さ押さえ込みで猪木もなしえなかった、ベイダーからの完璧なピンフォール勝ちを収めます。
ライバル長州、そして宿願のベイダーを倒して文句なしのIWGPチャンピオンとなった藤波の飛龍革命はここに悲願成就…と思えましたが、もう一つ、藤波には越えなければならない壁がありました。
それは、師であるアントニオ猪木。
猪木は治療を終え、試合復帰。自ら過酷なIWGP王座挑戦者決定リーグ戦に参加、見事勝ち残り7月29日、雨中の有明コロシアムにおいてビッグバン・ベイダーと死闘を展開。(ちなみにこの日、海外遠征から途中帰国した武藤、橋本、蝶野が藤波、木村健悟、越中詩郎組と6人タッグで戦い、「闘魂三銃士」誕生となる、記念すべき日でした)
ベイダーが場外で、ロープを締めるための鉄製の器具を使って攻撃を仕掛け、寸前でかわした猪木は逆にその器具を奪い取り、ベイダーの腕をザックリ切りつけます。
そして腕から大流血のベイダーをリングに上げ、全体重をかけて捻り上げてギブアップ勝ち。猪木は藤波の持つIWGP王座への挑戦権を獲得しました。
ベイダーにフォール勝ちした藤波と、ギブアップを奪った猪木。
この両者は1988年8月8日、横浜文化体育館での宿命の師弟対決へと続いていくのです。
続く
コメント
YOUTUBEも拝見しています。
モイスチャーミルク配合!とユリオカさんがネタにしている部分ですが
当時の週プロかゴングによると
俺だってこんなことしたくないんだ!!
と訳されていたと思います。
当時中三の自分は アーそういってるんだ、と思えた記憶があります。
これからも期待しています!