このBlogでは昭和のプロレス、70〜80年代(昭和40〜50年代)が中心。
なのですが、今回は平成初頭「1990年代の日本プロレス界」を、ざっくりまとめます!
プロレスについては、たくさんのブログやWebサイトがあるものの、「90年代の新日」とか団体別の記述がほとんどで、全体を網羅したまとめって、ほとんどないんですよね。
私自身も記憶では時系列がバラバラ・・・
今回、改めて“俯瞰“して振り返ってみると、「そんな流れだったのね」と、いろいろと再発見がありました。
「BI時代」から「俺たちの時代」へ
1989(昭和64/平成元)年、アントニオ猪木が政界へ進出。
ジャイアント馬場はその少し前の1985(昭和60)年、PWFタイトルをハンセンに奪われた頃から緩やかに一線から退いていました。
元号が平成に変わった1990年代は、長州力、藤波辰爾、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らニューリーダーによる「俺達の時代」となる・・・
と思われましたが、そう単純にいかないのが、プロレス界の面白いところです。
UとSの誕生~新日と全日、老舗2団体が存亡の危機に
新日本プロレスは、全日プロからUターンした長州力と、UWFのリーダー・前田日明が対立。1987(昭和62)年11月、試合中のイザコザから前田による「長州顔面襲撃事件」が勃発。前田を解雇してしまったことで、ファンの怒りと失望を買います。
この時期、TV中継の曜日変更やバラエティ化といった「テコ入れ」もことごとく失敗が続き、1988(昭和63)年5月、に後楽園ホールで再スタートを切った前田日明率いる「新生UWF」ブームに押され、失速します。
一方の全日本プロレスは、1990(平成2)年4月の天龍離脱以降、新興団体「SWS」による谷津嘉章、カブキら中堅選手の大量引き抜きに見舞われて激震。
SWSは1990(平成2)年10月、横浜アリーナで旗揚げ戦を行い、その後もスポンサーのメガネスーパーの資金力で数多くの選手を引き抜き、WWFとも提携するなど勢力を拡大していきます。
この「第2次(新生)UWF」と「SWS」誕生による地殻変動で、新日・全日の老舗2団体は存亡の危機に晒されました。
Uが自滅、新日本が三銃士によるドーム プロレスで復活
それでも新日プロは武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋の闘魂三銃士の台頭、獣神ライガーのデビュー、ソ連アマレスラーのプロデビューなどで話題を集め、1989(平成元)年4月「格闘衛星 闘強導夢」で初の東京ドーム進出。
翌1990(平成2)年2月の「スーパーファイトin闘強導夢」では元横綱 北尾光司のプロレスデビュー戦に加えて全日プロから鶴田、谷津、天龍、タイガーマスク、ハンセンが参戦。「ベルリンの壁崩壊」と話題を呼びます。
この時期、(第二次)UWFが1990(平成2)年末に内紛により崩壊。「Uインター」「藤原組」「リングス」の三団体に分裂してそれぞれ、独自路線を歩み始めました。
新日プロは若手中心でいまも続く「G1クライマックス」(1991 平成3年〜)「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」(1994 平成6年〜)などのヒット企画を飛ばし、1997(平成9)年には「nWo」ブームが到来。43億円の経済効果、Tシャツだけで6億円を売り上げ、4大ドームツアー(東京、大阪、名古屋、福岡)も成功。
遺恨や因縁ではなく、闘魂三銃士に馳、健介を加えた複数スターによる明るくスピーディでスケールの大きな「スペクタクルスポーツ」然としたプロレスで、坂口、長州体制の下でドーム興行を連発。経営を上向きにしていきます。
全日本、四天王プロレスで武道館を毎回フルハウスに
一方、天龍らの離脱により存亡の危機に晒された全日プロは1990年5月、二代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴がマスクを脱ぎ捨て、ジャンボ鶴田に対して世代闘争を仕掛けます。
三沢は川田利明、小橋建太らと超世代軍を結成、鶴田との抗争をスタート。そこにスタン ハンセン、テリー ゴディ、スティーブ ウィリアムスなどの強豪外国人も加わります。1992年にジャンボ鶴田が病気療養に入り、完全に世代交代。
「明るく楽しく激しい」プロレスを標榜し、ファンの要望を踏まえたマッチメイク、そしてなんといっても悪しき慣習であった「両者リングアウト」「反則負け」などの不透明決着を事実上、撤廃したのが画期的でした。
全日プロは三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の「四天王プロレス」(1993 平成5年〜)によって日本武道館を毎回フルハウスにするなど、創立以来の黄金期を迎えます。
S崩壊からのインディー乱立
巨大資本をバックに業界を牛耳るかと思われたSWSは、1992(平成4)年に内紛により自滅。
メガネスーパー田中社長から期間限定の支援を受けて、天龍レボリューション=WAR、道場檄とパライストラ=NOWの2団体に分裂。
さらにS崩壊の戦犯、谷津嘉章はSPWFを、NOWはジョージ高野が離脱してPWCを立ち上げ。WARからは石川敬二が離脱して東京プロレスを、谷津のSPWFからもレッスル夢ファクトリーがそれぞれ旗揚げ。NOWは紆余曲折を経てデスマッチ主体の大日本プロレスとなります。
ほかにもユニバーサルからみちのくプロレスや大阪プロレスなどのルチャ専門団体も誕生し、後の登龍門へとつながっていきます。
大仁田FMW
これらインディー団体乱立は、1989年に大仁田厚が立ち上げたFMWの成功が要因です。
大仁田FMWはテレビも資本もなしに「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」などのアイデアだけで生き残り、1991年には分裂してW★INGプロモーションも誕生。川崎球場を満員にするなど健闘しますが、90年代と共に終焉します。
イラク人質解放・北朝鮮38万人興行
政界入りしたアントニオ猪木は、強権を発動して新日本プロレスの海外進出を強行しました。
1990年12月2日と12月3日にはイラクのバグダッドで「スポーツと平和の祭典」を開催。邦人人質を見事に解放して、喝采を浴びます。
1995年4月28、29日には北朝鮮の平壌で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催。
綾羅島メーデー スタジアムに、2日間で計38万人の大観衆が動員され、2日目の観客動員数19万人でプロレス史上最多記録を樹立。
猪木vsフレアーのメイン、モハメド アリの観戦、全女勢が新日プロマット初登場、佐々木健介と北斗晶の結婚、1億円の大借金など数多くの伝説を残しました。
猪木落選とスキャンダル、カウントダウンから引退へ
アントニオ猪木は秘書や腹心の新間寿氏から告発され大バッシングの逆風にさらされ、1995年の参院選で落選。
その後、引退カウントダウンを4年近くかけて行いスキャンダルを払拭して、1998(平成元)年4月に東京ドーム vsドンフライ戦で引退しました。
Uインター躍進~新日との全面対抗戦~Uの消滅
高田延彦率いるUWFインターナショナルは、ハシミコフ、ベイダーなどの新日プロ強豪ガイジンレスラーを招聘し、プロレス回帰の動きを強めます。
1992(平成4)年には日本武道館での高田vs北尾光司の格闘技戦、1993(平成5)年には高田vsベイダー神宮球場決戦ほか、横浜アリーナ大会など大会場興行を連発して勢いに乗りましたが、「1億円トーナメント」など全方位に喧嘩を売りまくる戦略が災いして他団体との確執が絶えませんでした。
遂には1995(平成7)年10月9日、新日本プロと東京ドームで全面対抗戦に。武藤vs高田のIWGP戦、長州vs安生などで爆発的な話題を呼び、平日開催にも関わらず東京ドームは6万7千人(主催者発表)のフルハウスを記録。
その後、Uインターは新日プロほかとの対抗戦に活路を見出すものの、結果としてUWF消滅への道を加速させました。
女子プロレス~団体対抗戦で人気爆発
1990年代は女子プロレスもビューティペア、クラッシュギャルズに続く3度目の黄金時代。団体対抗戦が華やかりし時期でした。
そのきっかけは、ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションと業務提携を結んだ全日本女子プロレスが提供試合をしたことでブル中野、アジャゴングらが注目を集め、男性ファンを獲得。
1990(平成2)年11月のブル中野vsアジャゴングの金網デスマッチは、ブルの約4メートルからのギロチンドロップでファンのド肝を抜きました。その後、工藤めぐみ率いるFMW女子と全日本女子の対抗戦が契機となり豊田真奈美らが注目を集め、尾崎魔弓、キューティ鈴木、ダイナマイト関西、デビル雅美らのジャパン女子プロレス、風間ルミ、神取忍らのLLPWとの団体対抗戦が白熱していきます。
中でも1993(平成5)年4月 横浜アリーナでの北斗晶vs神取忍の壮絶な喧嘩マッチや、1994(平成6)年11月 東京ドームでの全女子団体対抗戦「憧夢超女大戦」は全23試合で終演が深夜になるなど、数多くの伝説を残しました。
週プロの栄華と反発
90年代はターザン山本編集長率いる週刊プロレスが「公称60万部」。「活字プロレス」全盛期でもありました。
その頂点が、1995(平成7)年4月2日に東京ドームで行われたベースボール マガジン社主催の「夢の懸け橋」です。
メジャー、インディー、U系、女子プロレスから全13団体が参加する史上初の豪華なオールスター興行は大成功でしたが、他マスコミは黙殺。そしてこれを機に週プロへの反発は業界の大きなうねりとなり、各団体側からの取材拒否が頻発。
翌1996年にターザン山本氏は編集長を辞任、退社に追い込まれました。
高田vsヒクソンの衝撃
この1990年代の終わりを象徴するのが、1998(平成11)年10月11日に東京ドームで行われた高田延彦vsヒクソン グレイシー、「PRIDE-1」です。
UWFの看板と「最強」の称号を掲げ、さらには猪木直系の弟子である高田延彦が、グレイシー柔術という異種格闘技になすすべなく惨敗した衝撃は、「プロレスが死んだ日」とまで言われました。
そのダメージは高田個人だけではなくプロレス界全体に波及し、ただでさえ多団体に細分化して弱体化、マニア化していた業界は一気に冷え込みます。
そしてその代わりに興行やTV、マスコミにおいてK-1やPRIDEの「総合格闘技」団体が“時代の寵児“に。一方のプロレスは“時代遅れ“な存在になっていきます。
1.4事変勃発、G馬場逝去〜混沌のゼロ年代へ
もう一つ、1990年代のラストの衝撃的事件が、1999(平成12)年1月4日、東京ドームでの橋本真也vs小川直也の“1.4事変“です。
新日プロの「強さ」の象徴であった橋本真也が、猪木率いるUFOからの刺客、小川直也に一方的にやられる姿が全国にTV中継されたこの試合は、普及し始めたインターネット上でのプロレスと格闘技の“ヤオガチ“論争も手伝ってウワサが噂を呼び、瞬く間に大事件に。
その騒動の真っ只中の1999(平成12)年1月30日、ジャイアント馬場が61歳で逝去。
その後、プロレスと総合格闘技のボーダレス化とそれを拒否する動きが相半ばする、混沌と暗黒の2000年代(ゼロ年代)へと突入して行くのです。
改めて、90年代のプロレスとは何だったのか
戦後、力道山から馬場・猪木の全日プロ・新日プロへと続く日本プロレス界版“55年体制“が崩壊し、次々と新興勢力が登場した、変革の時代でした。
三銃士 新日プロと四天王 全日プロに、FMWデスマッチに高田Uインターに女子プロ対抗戦、インディー団体が次々と旗揚げ。
地方出身で「蔵前」には間に合わなかった私ですが、この時期は月に何度も、数えきれないくらいに“生観戦“を楽しみました。横アリで新日を観た直後に川崎球場でFMWとか、武道館で全日観たと思えば神宮球場でUインター、後楽園で女子プロやユニバ…etc.
三銃士と四天王、そして高田Uインターらのプロレスは、高い身体能力で単純に観て面白かったですし、確実に市場を大きくし、新たなファン層も獲得しました。ドーム大会がスタートしたのも、まさに1989(平成元)年からです。
私のような「昭和 猪木のプロレス」世代からすると、この90年代のプロレス界は「強さ」よりも「面白さ」だけが優先されていることへの歯がゆさもあり、雨後の筍のように泡沫団体が乱立し過ぎ、あまりにも細分化され過ぎてどんどんマニアックなジャンルになり、却ってジャンル全体の一般世間への訴求力が損なわれていく懸念がありました(そして、その懸念は次の10年間で”暗黒のゼロ年代”として現実となってしまうのです・・・)。
それも踏まえてこの「1990年代のプロレス界」は、実にバラエティに富んだ、史上最も活動が盛んな、“日本プロレス界のバブル時代“と言えるでしょう。
<関連リンク>
UWFとは何だったのか?④新生UWF旗揚げ~崩壊
コメント
インディー乱立は功罪どちらもありますが…パイオニア戦志→オリエンタルプロレス→冴夢来プロジェクト(全部剛竜馬の団体)はステキでしたw。
さもちゃんありがとう!そういえばちょうど「夢の懸け橋」ぐらいが、剛竜馬「プロレスバカ」ブーム最盛期だった記憶が・・・w