新日本プロレスの最高峰、フラッグシップタイトルである IWGP。
いまでこそ「新日本プロレス最強の証」のチャンピオンベルトですが、その誕生当時の構想は“世界に乱立するプロレスのチャンピオンベルトを統合する、世界統一の証“という壮大なスケールの大仕掛けでした。
今回はIWGP誕生の経緯と、1983(昭和58)年に開催された第1回大会を振り返ります。
IWGPとは何か?当時のプロレス界の勢力図
IWGPの正式名称は International Wrestling Grand Prix(インターナショナル・レスリング・グラン・プリ)。
通常のプロレスのチャンピオンベルトは「●●認定世界ヘビー級チャンピオン」といったものですから、明らかに異色の名称です。
なぜこのような名称なのかというと、当初このベルトは文字通り“世界統一の証“として企画されたものだったからなのです。
当時のプロレス界には、3大メジャータイトルが存在していました。
●NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)
北米からメキシコ、日本などをテリトリーとする“世界最高峰“がNWA。実態は各エリアの有力プロモーターの寄り合い的組織で、もっとも長い歴史を誇ります。
そのため、NWA世界ヘビー級チャンピオン=真のプロレス世界王者、というのが、力道山時代からの日本における定説でした。
ルーテーズ、ジン キニスキー、ドリーファンクJr.、ジャック ブリスコ、ハーリー レイス、リック フレアーなどの歴代王者がたびたび来日し、ジャイアント馬場が1974(昭和49)年、1980(昭和50)年に日本人として初めて、そして計3度、王者になりました。
この84年当時は、ハーリー レイスとリック フレアーの2人が凌ぎを削っていた時期です。
●AWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)
そのNWAの対抗馬が、AWA。ミネアポリスを本拠地にアメリカ北部とカナダをテリトリーとして、バーン ガニアが長期政権を築いていました。
この当時はニック ボックウィンクルが王者です。
●WWWF→WWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)
ニューヨークMSGを本拠地に、アメリカ東部エリアとカナダをテリトリーとしていたWWFは、ブルーノ サンマルチノ、ペドロ モラレスなどを王者として活動していました。
この当時はボブ バックランドが王者です。
新日本プロレスは世界3大メジャータイトルのうち、WWFと提携。新間寿氏がWWF会長となり、その本拠地の名称を冠した「MSGリーグ戦」や、王者バックランドと猪木との世界戦など、良好な関係を築いていました。
AWAエリアからも新日本プロレスに来日する選手はいましたが、世界王者ニック ボックウィンクルの招聘は果たせず、前王者のバーン ガニアはジャイアント馬場の3000試合連続出場突破記念試合で対戦(1981 昭和56年)するなど、どちらかと言えば全日本プロレス寄り。
そしてなんといってもNWAはガチガチの親馬場派。新日本プロレスは幾度となく妨害に遭いながらもなんとか加盟は果たした(1975 昭和50年)ものの、世界チャンピオンの招聘権は、ライバル団体の全日本プロレスに独占されていました。
猪木「世界統一の野望」
1980(昭和55)年2月、極真空手のウィリー ウィリアムス戦をもってモハメド アリ戦から続く異種格闘技戦(格闘技世界一決定戦シリーズ参照)に終止符を打った新日本プロレス総帥 アントニオ猪木は、同年12月に次なる野望として「プロレス界世界統一」をブチ上げます。
「世界中に乱立するプロレスのチャンピオンベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する」というアントニオ猪木、新日本プロレスのIWGP構想は、とどのつまりライバルのジャイアント馬場に独占され、長年迫害されてきた“アンチNWA“思想に基づくものでしたが、3大メジャータイトルの他にもテリトリーごとにチャンピオンが存在することに長年、違和感を感じていたプロレスファンから、熱烈な支持を得ました。
80年代に入り新日本プロレスは、アンドレ ザ ジャイアント、スタン ハンセン、ダスティローデスらのガイジン勢に加え、藤波vs長州、はぐれ国際軍団など日本人同士の抗争、そしてタイガーマスクの大ブレイクなどで破竹の快進撃。
テレビ朝日「ワールドプロレスリング」の視聴率も20%を超え、会場も軒並み大入り(1981 昭和56年夏のブラディ ファイト シリーズ29戦すべて超満員など)、“空前の新日本プロレスブーム“に沸き、ライバルの全日本プロレスに人気、収益面で一歩も二歩もリードしていました。
この猪木の次なる一手、世界統一構想はテレビ朝日も全面的にバックアップを約束。
具体的なプランが練られていきました。
当初のIWGP構想の詳細
モハメド アリとの一戦を実現させ“過激な仕掛け人”との異名を取る当時の猪木のマネージャーであり新日本プロレス営業本部長、WWF会長でもある新間寿氏は、当初の構想を
「日本国内で開幕戦を行い、以降、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦し、決勝戦をニューヨークMSGで行う」
と語り、世界各地を転戦するF1 Grand-Prixから着想を得て「IWGP」と命名(発案者はアリ戦でも活躍した通訳のケン田島氏と言われています)。
そして1981(昭和56)年3月2日~6日、新宿の京王プラザホテルにおいて世界各国のプロモーターを招いて「IWGP運営会議」を開催。4月1日に新間氏を委員長とする「IWGP実行委員会」の発足を発表しました。
当時の主旨について、海外のプロレスメディアの記事を基に、まとめてみます。
●開催目的
国際的に認められる、一つの世界王座を作る事。
現時点では、さまざま異なる「世界」王者がおり、各々をさまざまな同盟が認可しているが、これらの王者は実質特定の区域のみで、それ以外では認められていない。
現行の世界王者(WWF=ボブ バックランド、AWA=ニック ボックウィンクル、NWA=リック フレアー)を蔑ろにするものではなく、北米地域のみではなく中東、中南米、アジア、カナダ、欧州でも認められる真の世界王者を生み出すこと。
●組織
世界6つのエリアの首脳プロモーターからなる。
アジア:二階堂進(日本プロレスリングコミッショナー)、新間寿(WWF会長)
中央アジア/中東:サジャド アジム(パキスタン カラチ/国際レスリング協会会長)
欧州:ポール バーガー(ドイツ 東ベルリン)、アルフレッド ツィーグラー(スイス)
中南米:フランシスコ フローレンス、カルロス マイネス(メキシコ UWA代表)
アメリカ合衆国:マイク ラベール(NWA副会長)、ビンス マクマホン シニア(WWF)
北米:フランク タニ―(カナダ トロント)
名誉会員(ルールチェアマン):カール ゴッチ
●トーナメント
上記6つの区域で実施、それぞれの区域で3人のトップレスラーを選出する。
これらの3人のトップレスラーは、次に、6つの主要区域で開催される最終ラウンドに進出する。
最終戦はニューヨークのMSG(マジソン スクエア ガーデン)で行う。
●トーナメント主催者
ユニバーサルチャンピオンの招聘権を持つと共に、トーナメントによって生み出された収益の一部を国連に寄付することに同意する(この年は国際障害者年)。
●トーナメント参加レスラー
・日本:アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力、谷津嘉章
・モンゴル:キラー カーン
・カナダ:ビッグ ジョン クィン、アブドーラ ザ ブッチャー
・ドイツ:ローランド ボック
・ギリシア:スパイロス アリオン
・イギリス:ピート ロバーツ、ジャイアント ヘイスタック
・フランス:レネ ラサルテス、レーン コルト、アンドレ ザ ジャイアント
・メキシコ:エル カネック、スペル マキナ、ベビー フェイス、ブラック ゴールドマン
・アメリカ:年明けより開催(各州からの多くのトップ候補がトーナメントに参加表明)
…どうでしょう。実に壮大かつ、もっともらしいこの主旨。
当時、田舎の中学生だった私はここまでの詳細は知りませんでした(そもそも日本のマスコミが当時、どこまで詳細に取り上げたか不明)が、それでも「山口良一のオールナイトニッポン」に新間さんが生出演して演説をブチ上げ(WWFだけじゃなくNWAもAWAも参加する、もし猪木とニック、フレアーが戦えば…自明の理でどちらが強いかは明らか、など)、ワールドプロレスリング実況の古舘伊知郎アナウンサーが折に触れて「猪木天下統一、世界制覇の野望、IWGP」と語るなど、否が応でも期待が膨らむのは無理もない話です。
ジャイアント馬場の抵抗
もちろん、この動きにジャイアント馬場が黙っているハズがありません。
馬場は早速、自らが第一副会長を務めるNWAにかけ合い「世界王者はNWA世界ヘビー級王者ただ一人であり、NWA世界ヘビー級王者だけを世界王者として認めることを各加盟団体に要求している」という声明を出させます。
そして自身もマスコミに対し「(IWGPは)所詮、新日本プロレスが作るローカルチャンピオンタイトルに過ぎない」という発言を繰り返し、以降は黙殺の構えを示します。
IWGP実行委員会に参加したNWA副会長のマイク ラベールは反主流派であり、主流派の馬場からすると「余計なことしやがって、カネに目が眩んだか」くらいの認識だったのでしょう。
そしてIWGPは、当初の構想からどんどん、雲行きが怪しくなっていくのです。
コメント
後編に続きます
と最後にあるが
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