「UWF」とは何だったのか?~⑧最終回「UWFとは、何だったのか?」

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プロレス
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これまで、8回に渡ってリアルタイムに体感した世代が見たUWFを、時系列で第一次から新生、そして分裂後までまとめて来ました。

~「UWF」とは何だったのか?~

①佐山引退から第一次UWF
②新日プロUターン/前編
③新日プロUターン/後編
④新生UWF旗揚げ~崩壊
⑤UWFインターナショナル編
⑥藤原組、バトラーツ、パンクラス編
⑦リングス編

今回は最終回として、その中心選手達を個人単位で見ていくことで、総括としたいと思います。

 


●佐山聡の理念

佐山はタイガーマスク時代からあたためていた壮大なプランがありました。そしてそれをUWFだけではなくプロレス界と完全に決別して、「シューティング(修斗)」として実行していきます。

 

まずは「見せる」ではなく「行う」格闘技の創設

 

技術理論を構築し、ルールを整備し、アマチュアからプロへの昇格システム、ゼロからの選手育成と組織整備により、「集客のためにはフェイク、ショーマンシップが必要」というプロレス界のエクスキューズが通じない世界を作ろうとしたのです。

 

そしてもう一つは「総合」という理念です。

 

打撃だけ、投げと押さえ込みだけ、関節技だけ、タックルからバックをとる、組み伏せるだけ、などに細分化、専門化していた各格闘技の技術を一つにまとめよう、という考え。

 

そして後年、辿り着いたのが「実戦」という考え方です。

 

リングではない場所、路上においてはロープエスケープもありませんし、結局のところ殴るなり蹴るなりタックルするなり倒して組み伏せて、上になって制圧して殴るのが早い。佐山が創設当初から修斗ルールをどんどん書き換えていき、その後も新たな理念の格闘技を次々創設していったのはこの考えによるものだと思います。

 

佐山は「格闘技」というものを技術体系化して競技化し、多くの選手を育成し、活動する土壌を創った点において、多大な貢献をした事は間違いがないですね。

 

一方で、UWFがどうこう、という考え方は佐山自身には最初からなかったと思います。

 

それでも佐山がきっかけとなりUWFという新しいプロレスの方向性を示せたのは、佐山がもともと新日で猪木の薫陶を受け、タイガーマスクとしてスーパースターだったから、知名度と集客力という点でものすごいバリューがあったから、なのですね。

 

そして第一次UWFで最初の実行を試みた、という点では、間違いなくUWF運動の序章と言えると思います。

 

しかし、天才佐山でも、もう一つの難題である、「リアルファイトは客が入らない」は解決できませんでした。

 

自身が選手から運営側に回ると、スター選手の不在から、佐山の立ち上げた初期「修斗」の大会はアマチュアの域をなかなか脱しませんでした。

 

そしてその頃、社会現象的に大ブレイクしていたのが前田の新生UWFでした。理由は単純で、新生UWFの方が「知ってる選手が多く、観て面白いから」です。

 


●前田日明の戦略

 

 

前田は佐山と同じく、新日時代から猪木にいずれは格闘技をやる、と言われてそれを信じて育った、と語っています。佐山が第一次UWFで画期的なプランを実行して行った時は、「猪木さんの言ってた事を俺がやるんだ」的な気概もあったと思います。

 

ここで重要なのは、UWFは(理念はさておき)佐山のためではなく前田に与えられたブランドだった、という事です。

 

やがて佐山と方向性の違いで衝突し、元サヤで新日にカムバックしたものの、新日との抗争の日々で猪木にはもはやそんな事をやる気はさらさらないのだ、と改めて思い知らされます。

 

そして新日を追放され、新生UWFを立ち上げるに至って、本当に自身のやりたい事とはなにか、何が売りなのか、を世に問うていかなければならなくなりました。

 

おそらくは怨念と、生き残るため、信じてついて来てくれた仲間たちを喰わせるのに必死で、マーケティングや戦略というほどプランニングされたものではなかったと思いますが、「仲間を喰わせていく」という信念は佐山と衝突した時から変わりませんでした。

 

そしてもう一つ、前田にはプロレスをやろうにも決定的にヘタクソ、という点も重要です。同じことをやっては猪木には勝てないのです。

 

結論は一つでした。

 

プロレスを真剣勝負的に「見せる」ためにどうするか、そして継続して興行を打ち、人を呼び、ビジネスとして成立させるためにはどうしたらよいのか。

 

よく言われている通り、新生UWFはプロレス界以外の音楽業界やイベンターらの知恵を借りながら、「少ない選手数」と「少ない興行数」を逆手に取ったイマドキの特別感、プレミア感の演出を施し、さらにはノーテレビながらビデオ販売とグッズ販売で、大会場で月一程度の興行で採算がとれるやり方を「開発」してクリアしていきます。

 

その一方で、もちろんルールや技術面でもブラッシュアップを行います。

 

俗にいう暗黙の了解と過剰な演技を極力排除し、ダウンとロープエスケープをスコアとしてカウントする、スポーツ化を行います。

 

しかし、佐山とは違い新生UWFでの前田の第一優先はあくまでも「興行会社としてのプロレス団体運営の、新しいカタチを模索する」ことにあったと思います。

 

そしてその戦略は見事に当たり、前田率いる第2次UWFは、満員札止めが続く社会現象と呼ばれるブームを巻き起こします。

 

忘れてはならない事実。当時の観客は「猪木新日がもはや諦めた理想を、猪木新日に追放された前田日明という若き人気プロレスラーが実現しようとしている、という実験運動」に熱狂したのです。

 

この時点でUWFとは前田日明の生き様、というのが一般的な見方だったと思います。

 

しかし、こちらは「毎試合リアルファイトでのプロレス」という課題は巧妙に隠されたまま、実態は置き去りにされていました。結果的にやるかやられるか、ノックアウトかギブアップか、の面白い試合が連発できますが、あくまでもUWFスタイル、のプロレスです。

 

修斗を始め、プロレス以外で総合格闘技を実践する選手が増え、ファンも目が肥えてくると「新生UWFもリアルファイトじゃないんではないか」という疑念が増し、アンチのファンやマスコミ、そして長州に代表されるプロレス業界側からの反発も強まります。

 

それでもなんとか体面を保ちつつ継続していきますが、前田の唯我独尊が災いし、フロントとの確執という思わぬ理由で、新生UWFは自滅します。

 


●船木誠勝の実験

 

新生UWF崩壊前から、船木の中では不満が燻っていました。前田が強く主張して置き去りにしていた「毎試合リアルファイトでは興行、団体として成り立たない」という理屈への反発。

 

本当にそうなのか。やってみないとわからないじゃないか。

 

分裂後、藤原さんは今さら(最初から?)そんなことやる気はないのだ、とも理解した船木は、鈴木、新生UWFから引き継いだシャムロックら外国人ファイターらと、「毎試合リアルファイトのプロレス団体」をやってみよう、となります。

 

それがパンクラスです。

 

佐山と同様にアマチュア組織や階級制、ルール整備に加え、前田がやれないと言い続けた格や序列の廃止を実力主義とジム別制度で乗り越えようと模索しますが、やはり所属選手を抱えた興行団体が全試合リアルファイトを続けるのは無謀でした。

 

幸い、立ち技、打撃系の選手が多かった事と、「秒殺」の衝撃で興行人気は低くなかったものの、怪我人が相次ぎ、興行の間隔と売上の問題が常に課題となりました。

 

そしてアメリカでUFCが実施され、エースのシャムロックが敗れた事で、結果的にグレイシー一族の世界的プロモーションに貢献してしまう結果となりました。

 


●高田延彦の場合

 

Uインターで絶対的エース、として一時「最強」の呼び声も高かった高田の場合、佐山、前田そして船木よりも理念や理想についての意識、UWFというものへの思い入れも実は希薄だったと思います。UWFの仲間たちが前田に反発しエースとして担がれて、戦略的にUWFの看板を背負ってエースとして活動した、に過ぎない印象です。なぜなら、高田はプロレスラー、アントニオ猪木に憧れて育ち、プロレスがヘタではありませんでした。

 

なのでリアルファイトへの思いもそこまで強くなく、あくまでも前田の作った新生UWF路線をそのまま引き継いで、そこに他団体やプロボクサーなどとの異種格闘技戦、というかつての猪木的なエッセンスを取り入れた事で大当たりし、一時「最強」の称号も手に入れました。

 

しかし、団体としてヒクソンへの挑戦をブチ上げ、配下のポリスマン安生が道場破りに失敗すると、その事実は高田にとって重い十字架になりました。さらには、UWF勢を代表するカタチで既存のプロレス界(に喧嘩を売りすぎたからなのですが)から禊的な粛清を受けたグループでもあります。

 

 

その後、団体運営に疲れ始めた高田は(タイソンとの対戦も計画されていたようですが)縁があってヒクソンとの対戦が転がり込みます。遂にそれを決意した高田はPRIDE、その後の総合格闘技の大舞台となる設立に貢献、統括本部長という肩書きで繁栄を手に入れますが、それも結果として、でした。

 

高田、というよりUインターの貢献は、田村、高山、そしてなんといっても桜庭という、後に総合格闘技の舞台で活躍する優秀な選手を育てた事にあります。しかしそれはUインターというよりキングダムになってからの話であり、キングダムとはグレイシー柔術ショックにいち早く真正面から向き合った団体だから、なのでした。

 


●そして、再び前田日明

 

再び、新生UWF崩壊後の前田について。

 

前田はここでプロレスラー仲間、プロレス業界から1人距離を置かざるを得なくなって、生き残りをかけて新たなコンセプトを考えました。

 

それが、世界中の未知の格闘家を集めて、格闘技オリンピック的な舞台にする、ファイティングネットワークとしてのリングスです。

 

前田はこの終盤で、ようやくというかとうとう、最初からの命題である「毎試合リアルファイトでは興行として成り立たない」に向き合います。

 

自身がコンディション的にエース選手としてやっていく事に限界を自覚したタイミングであったことが大きな要因ですが、外的にもUFCが登場し、もはやそのプロレス業界側の常識は通用しなくなっていたのです。

 

前田の評価が安定せず、というより非常に低いのは、自身が選手の間「リアルファイトでの興行継続はムリ」とずっと(自分は)やらないで来たから、に尽きるでしょう。

 

しかし一方で世界中から数多くの未知なる格闘家を発掘し、高坂などの弟子を育て、プロレス団体、ではなくさまざまな選手を競わせる「場」としての経営と、もう一つの格闘技団体でブームを巻き起こしたK-1の興行スタイルの源流となった点は、前田によるUWFの成果として、しっかり評価するべきだと思います。(結果的には全部、PRIDE→UFCに持っていかれてしまいましたが)

 


改めてUWFとは

 

こうして考えていくと、

 

●猪木が漠然と考えていたアイデアを

●佐山が綿密に企画、テストし

●前田が現実的に実行、育て

●船木がさらに理想を追求し

●高田が(新日との対抗戦やヒクソン戦で惨敗し、その後も選手として総合格闘技で酷い目に遭いながら)オイシイところを持って行った

 

という感じですかね。

 

そう考えると、前田と高田だけは相変わらず絶縁、というのも理解できます。

 


UWFへの正しい評価を

 

当初からUWFは「プロレスをリアルファイトにする運動」ではなく、「プロレスの範疇でリアルファイトとしての矛盾をできるだけなくそうとするスタイル」でしかなかったのに、「UWFとはリアルファイトである」というプロモーションをし続けた事が問題でした。

 

なので「なんでそんなに長い間、誤魔化し続けていたのか」「あんなの信じてたのが恥ずかしい」という思いから、「UWFは青春だった」とかそんな訳のわからない評価になってしまうのです。

 

しかし、その当時はUWFだけでなくプロレス自体もまだ曖昧とされていた時代であり、いま現在、責めるのは簡単ですが、リアルタイム世代からするとそれはそう単純な話ではありません

 

また、こうやってしっかり時系列で見ていくと、UWFは決して佐山1人や、前田1人で成し得たワケではなく、そしてUWFがなかったら(一時期ではありますが)あそこまでK-1、そしてPRIDEが盛り上がることはなかったことがわかります。そしてそれは、ワールドワイドでのUFCを中心とする格闘技ブームの「源流」と言っても過言ではないと思います。

 

すべてはプロレスという人気競技の傘の下で、その人気にあやかり、まずは興行として継続させていく命題をクリアしていきながら、その時代時代で少しずつ、許される範囲で実験を続けていったワケですし、その際にはそれぞれが「ホントにリアルファイトやらないといけないのか?やれるのか?」という自問自答と、覚悟と、決断があっての積み重ねだと思いますので、その功罪はしっかり検証して、全否定するのではなく、個人的な好き嫌いは別として、評価するべきところは評価しないとおかしいだろ、というのが私のUWFに対する結論です。

 

-完-

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