”お化けカボチャ”「ヘイスタック・カルホーン」-60〜70年代を代表する超巨漢レスラー”人間空母”

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プロレス
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昭和のプロレスは、今よりももっと禍々しく、「見世物小屋」的なにおいがしていましたー「マクガイヤー兄弟」「グレート・アントニオ」と来たら、このレスラーを紹介しない訳にいきません。1960-70年代に活躍した「人間空母」「お化けカボチャ」の異名で知られる、ヘイスタック・カルホーンです。

 

しかしながら単なる怪物、見世物的キャラのマクガイヤー兄弟、グレート・アントニオと比べ、カルホーンはプロレスラー としてのスキルもキャリアも“一線級“でした。

 

ヘイスタック・カルホーン誕生

 

地元の農場で働いていた少年時代、その巨体を見込まれて1954(昭和29)年、プロレス入り。オーバーオールと家畜の蹄鉄を鎖で首にぶら下げた「農夫ギミック」で、“超巨漢ベビーフェイス“で売り出されました。

 

このビジュアルでベビーフェース・・・いささか日本人には理解しがたいですが…「人のよいデブのお百姓さん」と考えれば、確かに悪役じゃないのか…。ちなみに「ヘイスタック」とは「干し草を積み上げた山」の意味です。

 

カルホーンの当時の体重は600ポンド(270 kg)。1960年代に入るとニューヨークで体重300kg、「世界最重量のレスラー」ハッピー・ハンフリーとの「巨漢対決」に勝利するなど、活躍します。

 

1956(昭和 31年)にNWA世界王者ルー・テーズに挑戦。1961(昭和36)年には同じくNWA世界王者のバディロジャースにも挑戦しています。

初来日

 

1963(昭和38)年3月、日本プロレスの「第5回ワールド大リーグ戦」に初来日。「バスの座席に座れない!」と、羽田空港から都心のホテルまで小型トラックの荷台で運ばれる演出が話題を呼びました。

 

若手時代のアントニオ猪木や大木金太郎を相手に1vs5のハンディキャップマッチ、4月17日には沖縄で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。

この辺りは、前回ご紹介したグレート・アントニオと同様の売り出し方ですね。当時のプロレス、中でもこのビッグイベント「ワールド大リーグ戦」は世界中の強豪とビックリ人間が集う、“万国博“的なイベントだった事が伺えます。

 

カルホーンは、それ以前に来日したキングコングやジェス・オルテガ、グレート・アントニオのさらに上を行く巨漢。60分3本勝負で行われた力道山戦は1-1からの3本目、両者リングアウトで引き分けと“善戦“しています。

初来日当時のエピソード

 

来日当時、「世界一の大食漢」と大いに話題を呼び、カルホーンは子供向け雑誌などにもたびたび取り上げられ、「朝食に茹でたジャガイモをバケツ1杯、ベーコン900グラム、卵10個を食べ、ミルク半ガロン(約2リットル)を飲む」などと紹介されました。

↑昭和のプロレスファンなら誰もが知ってるネタです。「茹でたジャガイモをバケツで」というあたり、家畜臭が漂います…なぜ1キロにしない(笑)そして多くの昭和のちびっ子は、これで「ガロン」という単位を知りました(笑)

 

東スポの桜井康雄さんはこの大食漢をレストランに連れて行き検証したそうで、「800グラムのステーキを3枚、エビフライを4人前、フルーツを4皿平らげた」とのことです。

 

その後、カナダのバンクーバー地区を主戦場に実力者、ドン・レオ・ジョナサンとのコンビで活躍。数多くのタッグタイトルを獲得し、1968年8月にはマンマウンテン・カノンとの巨漢コンビで、日本プロレスに再来日しています。

 

WWWFでの活躍

 

1970年代に入るとニューヨークのWWWF(現在のWWE)に定着。1973(昭和48)年にはトニー・ガレアをパートナーにプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取。

 

以降もベビーフェイスの中堅として、ゴリラ・モンスーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、イワン・プトスキーらと共にMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)のミッドカードに欠かせない人気者として活躍しました。

 

1977(昭和52)年6月6日には、スーパースター・ビリー・グラハムのWWWFヘビー級王座にも挑戦しています。

 

当時のニューヨークスタイルのプロレスは「移民層やブルーワーカー向け娯楽」の色合いが濃く、チャンピオンもイタリア系のブルーノ・サンマンチノに始まり、ラテン系のペドロ・モラレスなどが人気。

 

そして試合も「大型選手がぶつかり合う、スローモーでわかりやすいスタイルじゃないと支持されない」と言われてました。

 

新日本プロレスにも登場

 

1978(昭和53)年6月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレス「サマー・ファイト・シリーズ」に参戦。10年ぶりの来日を果たしますが、日プロ時代に比べるとかなりスリムになっていました。

7月15日には根室でアントニオ猪木とのシングルマッチ、7月24日広島ではピーター・メイビアと組んで坂口征二&ストロング小林の持つ北米タッグ王座にも挑戦。

 

翌1979(昭和54)年6月には、新日本のブッキングでアンドレ・ザ・ジャイアントと共に、国際プロレスに特別参加しています。

 

その後のカルホーン

 

カルホーンは健康状態が悪化して1980年代初頭に引退。1986年に糖尿病のため左足を失い、1989年12月7日に死去。55歳でした。

 

時は流れて2017年3月31日、WWWF時代の実績が称えられ、WWEのWOF:ホール・オブ・フェイムのレガシー部門に、力道山と共に「殿堂入り」しました。

 

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