アントニオ猪木vsタイガー ジェット シン①〜1973「新宿 伊勢丹襲撃」と「大阪 腕折り」事件!

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プロレス
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70年代、創成期の新日プロといえばアントニオ猪木vsタイガー ジェット シンの血の抗争劇。中でもこの「新宿伊勢丹襲撃」と「大阪 腕折り」の2つの事件はあまりにも有名です。

スキャンダラスでセンセーショナルな猪木プロレスの原点とも言えるこの事件。いまではカンタンに「ヤラセ」と思われがちな、35年前の真相に迫ります。

 

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●タイガー ジェット シン登場!

 

タイガー ジェット シンは設立間もない新日本プロレスに初来日。1973年5月4日 川崎市立体育館で、観客席から乱入して試合中の山本小鉄を襲う、という前代未聞のデビューを果たしました。そして新日プロは「契約もしていないレスラーが乱入!」「とんでもない無法者!」として、タイガー ジェット シンを売り出します。

当時の新日プロは、とにかくガイジン選手の招へいに苦労していました。NWAをはじめとする全米の主要なプロモーターとパイプのあるジャイアント馬場 全日プロにルートを抑えられ、新日プロには二流、三流どころしか来日せず。シンも当時は無名レスラーで、この乱入劇もたまたま手違いで前シリーズ開催中に早く来日してしまったシンを会場に呼び、どうせなら乱入させて盛り上げるか、というのが真相とされています。

 

そして初来日から半年後、シンは大事件を起こします。

 


 

●「新宿伊勢丹襲撃」事件の経緯

 

1973年11月5日、タイガー ジェット シン(2度目の来日中)がアントニオ猪木、倍賞美津子夫妻らを新宿 伊勢丹前で襲撃、警察が出動する事件が起こりました。

 

1973年11月5日月曜日、18時過ぎ。

タイガー ジェット シン、ビル ホワイト、エディ オーガーの新日プロに参戦していた外国人レスラー3名が、新宿伊勢丹デパート正面入口前アントニオ猪木とハチ合わせ。

この日、猪木らは「闘魂シリーズ第2弾」中のオフ日。当時の妻である女優の倍賞美津子さん、実弟の猪木啓介氏と3人で知人を羽田空港まで出迎えに行き、その帰りに新宿に立ち寄り買い物をしていました。

 

猪木を見つけたシンらは猪木に襲いかかり、3人がかりで殴る蹴るの暴行。猪木はガードレールやタクシーのボンネットに頭をぶつけられ負傷、流血。シンも猪木に殴られ頬に負傷。

 

平日の帰宅時間帯でもあり、たちまち黒山の人だかりとなり、一般の目撃者が警察に通報。パトカー数台が駆けつける騒ぎとなります。警官隊が駆けつけた際には既にシンらは逃走、その場には額から血を流した猪木と美津子夫人、啓介氏の3人しか残っていなかったようです。

 

警察はシンたちの宿舎である新宿 京王プラザに乗り込みましたがシンは部屋から出ず任意同行を拒否。一方、猪木は顔に6箇所の切り傷、全身に11箇所の打撲傷を負い、病院で手当を受け帰宅します。

 

翌6日に猪木、そして後日、シン達3人も警察に出頭し事情聴取を受けました。

 

管轄の四谷警察署内でも当然、これは事件なのか、興行を盛り上げるための宣伝、ヤラセなのか?という疑いがあったようで、新日プロに対し「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告訴し、被害届を出せ。ヤラセであれば、道路交通法違反(道路無許可使用)で新日プロを処分する」と迫ります。

 

これに対し新日プロは「断じてヤラセではない。だが、シンは契約選手でシリーズ中のため傷害罪で告発することはできない。騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びする」と「始末書」を提出。事件は新日プロに対する「厳重注意」で終息しました。

 


 

●襲撃事件後の抗争

 

この事件が評判となり、事件後初となる8日の沼津大会は超満員。メインでは猪木、坂口、小鉄トリオが伊勢丹事件の3外人と対戦し、大荒れとなります。

そして16日札幌、30日福山で遂に猪木とシンのシングル決着戦が組まれ、シリーズは大盛況で幕を閉じました。

 

両者の抗争はその後もエスカレートし、翌1974年6月、猪木の保持するNWF世界タイトルを賭けた2連戦でピークに達します。

1974年6月20日、東京 蔵前国技館での初戦でシンは猪木にサーベルと火炎攻撃を仕掛け、反則負けで猪木タイトル防衛。これで猪木は左目と頭部を負傷します。


 

●「大阪 腕折り事件」

 

傷が完治しないまま迎えた6日後の6月26日、大阪府立体育館での2戦目。3本勝負の1本目もシンは徹底した反則攻撃により猪木は大流血。

 

2本目、怒り心頭の猪木がシンの腕に集中攻撃、鉄柱やアームブリーカーで集中的に攻め続け、シンの右腕を骨折させ、ドクターストップで猪木がタイトルを連続防衛。館内は怒号が飛び交う興奮状態で、テレビ画面越しにもヤバい雰囲気がヒシヒシと伝わります。

これが世に言う「大阪 腕折り事件」です。

 


 

●事件が起爆剤に

 

創成期、豪華ガイジン揃いの馬場 全日プロに比べ、猪木 新日プロはメジャーガイジンがほとんど参戦せず、地方興行の集客もテレビ視聴率も苦戦を強いられていました。当時のプロレスは「日本選手vs強豪外国人」「善いもんvs悪いもん」で、わかりやすさが重要でした。

 

この一連の抗争で、「インドの狂える虎」タイガー ジェット シンは一躍有名になり、その狂乱ファイトは会場、お茶の間を震撼させました。

 

そして対する猪木も、それまでの正統派から、喧嘩ファイトもこなす「燃える闘魂」として新たなファン層の拡大につながり、新日プロもまた、興行人気、テレビ視聴率共に一気に上昇していきました。

 


 

●「ヤラセ」説の不自然さ

 

「新宿伊勢丹襲撃事件」によりシンとの抗争が話題を呼び、人気が高まったワケですから、当然多くの人は事件について「ヤラセでしょ」と思うと思います。プロレスファンからしても「猪木ならやりかねない」というより「猪木のやりそうなことだ」。

 

さらには後に新日プロのレフェリー、ミスター高橋が「アレは猪木夫妻も了解済みのアングル作り(仕込み、ヤラセ)」と2001年刊行の著書(「流血の魔術 最強の演技」)で「暴露」した事もあり、半ばヤラセ説が常識、とされて来ました。

 

しかしながら、詳しく調べれば調べるほど、「ヤラセ」としては、不自然な点が多いのです。

 

そして「ミスター高橋本」は記憶間違いなのか確認不足なのか時系列や事実に明らかな誤りが多く、さらには個人的恨みつらみと自身に都合のよい記述だらけで、実にいい加減な本なのです。

 

多くのプロレスファンが知る「事実」と、「実際に当時起きた事」の差異は、以下のものが挙げられます。

 

①この襲撃事件当時、猪木とシンは抗争を繰り広げていた→実際はそうではなかった

②「白昼の惨劇」→実際は夕方だった

③翌日のスポーツ紙はこの事件が写真入りで大騒ぎだった→実際は東スポだけ、写真は猪木の自宅でのものだけで事件現場はなし

④一般紙でも大きく取り上げられた→そんな事実はない

 

これらについて、一つずつ解析していきます。

 


 

●プロレスファンの「常識」を検証

 

①この襲撃事件当時、猪木とシンは抗争を繰り広げていた→実際はそうではなかった

 

事件当時の「闘魂シリーズ 第2弾」は1973年10月26日開幕。この事件が起こるまでの間、猪木とシンはタッグマッチも含め一度も対戦していません。猪木はシンのあまりの無法ファイトに対戦を拒否し、シンは連日のように猪木の試合に乱入を繰り返し対戦を迫っていました。11月3日岐阜大会、シンはビル ホワイトと組んで対戦相手の坂口征二、木戸修を血祭りに上げて「イノキ!逃げ回ってないで俺と戦え! お前が逃げるならお前の自宅でもホテルでも襲ってやるぞ!」と宣言。

そして事件が起きたのはその2日後でした。

 

②「白昼の惨劇」→実際は夕方だった

 

これはカンタンです。後のプロレスブーム(1980年代前半〜)時に、多くのプロレスファンが後追いでこの事件を知ったのが週刊少年サンデーに連載されていた「プロレス スーパースター列伝」(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)というマンガでした。この作中、「白昼の惨劇」として紹介されていたので、皆それが事実だと誤認したのでした。

 

③翌日のスポーツ紙はこの事件が写真入りで大騒ぎだった→実際は東スポだけ、写真は猪木の自宅でのものだけで事件現場はなし

 

これが「ヤラセ説」が疑わしい、最大のポイントです。当時、取材を担当した元東京スポーツの取締役編集局長 櫻井康雄さんはこう語ります。

「あれは演出があったとかいろんなことを言う人がいるけども、僕から言わせれば、演出ならばそこに東スポがいたはずだと。東スポのカメラマンがね。でも、誰も撮ってないですよ。東スポには襲撃されている時の写真はないんですよ」(Gスピリッツ SPECIAL EDITION Vol.1 アントニオ猪木)

 

櫻井氏によれば、事件を知ったのは現場からのファンの通報電話。最初はイタズラかと思い新日事務所に猪木の所在を問い合わせると、「社長はプライベートで羽田に奥さんと人を迎えに行ってます」という回答。そこへ同じ人から2回目の電話が入り「パトカーが出動する騒ぎになってます。」四谷署に電話したところ「あぁ、伊勢丹前でプロレスラーが何かやったと110番があってウチからパトカーが2台出ている。まだ報告書が上がってきていない。調べている最中」と事件を認めました。

 

そこでカメラマンを帯同して新宿へ急行しましたが現場には誰もおらず、歩道のガードレールがゆがみ、黒く血がにじんでいました。

 

改めて新日プロへ電話を入れてみると「何かあったらしいが、こちらでは今いろんな情報が整理できなくてわからない。四谷署に聞いているんですが、よくわからない。社長が外人レスラー、それも複数のレスラーに襲われたらしいが、詳しいことはよくわかりません」。猪木の自宅に電話を入れてみても誰もいない。「猪木を襲撃したのはシンではないか?」と京王プラザホテルへ。館内電話で連絡するとシンは部屋にいた。「猪木を襲ったかって?ノーコメントだ。お前はポリスを連れてきたのか?答える必要はない。ポリスに帰れと言え」とシンはわめきたてました。

 

そしてその後、夜になってようやく猪木を代官山の自宅マンションで捕まえ、取材。

 

「翌日の東スポの一面に包帯をしてベッドで半分起き上がっている猪木の写真とインタビューを載せたんだけど、その時に猪木は他の社が来ても、みんな取材拒否しちゃったのね。そうしたら、あれは東スポのやらせじゃないかという話になって。僕はそれなら現場にカメラマンをやってる!と、みんなに言いましたよ(笑)」(櫻井氏)

 

そうなのです。事件を報じたのは翌日の東スポのみで、しかも襲撃現場の写真はありません。しかも東スポが事件を知ったのはファンからの通報があったからで、新日プロの仕込み、ヤラセならもう少しマスコミのいるところでやるのが自然なのです。

 

④一般紙でも大きく取り上げられた→そんな事実はない

 

事件翌日、スポーツ紙でもこの事件を報じたのは東スポだけ、一般紙で取り上げられるはずもありません。(「週刊サンケイ」という週刊誌に『アントニオ猪木が殴打された“新宿 夜の乱闘”』という記事が掲載されたようです)

 

これらの事実は、私たちプロレスファンの認識とはかなり異なります。これを知ると、「ヤラセ」と考えるより、「ハプニング、事件」と考えるのが普通な気がします。

 

次回は、事件翌日の関係者インタビューをご紹介します!

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