アントニオ猪木vs食人大統領!〜1979 幻のアミン戦計画

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今回は猪木vsアリ戦後、世間を驚愕させた猪木史に残るキワモノ企画。
なんと現職のアフリカ大統領・独裁者との異種格闘技戦計画について、ご紹介します!

 


●猪木vsアミン大統領戦 発表!

 

1979年1月25日。新宿 京王プラザホテルで、衝撃の記者会見が開かれました。

「ウガンダの食人大統領vsアントニオ猪木 正式決定!レフェリーはモハメド アリ!」

会見には在京のAP、UPなど外国通信社、国内の全国一般紙、スポーツ紙に加え各週刊誌など約70名の記者がも駆けつけ、外電で世界中に配信されました。

「そういえばそんなことあったな」と記憶の方も多いと思います。


●壮大な対戦計画

 

一体どんな計画だったのか?当時、発表された内容を抜粋すると…

 

〇全世界注目の30億円の決闘、アントニオ猪木対アミン大統領 戦。

 

〇1979年6月10日、ウガンダの首都カンバラで行なわれることに決定。

 

〇調印式は2月16日、現地カンパラで行なわれる。

 

〇調印式にはアミン大統領と猪木、プロデューサーの康芳夫氏、そしてレフェリーをつとめるモハメド・アリが出席。

 

〇試合会場は3万人を収容するウガンダ国立競技場。

 

〇総費用は1500万ドル(約30億円)。

 

〇試合はアメリカNBCネットワークで、北朝鮮とベトナム以外の全世界に放送される。

・・・どうですかこのスケール。奇想天外、摩訶不思議、素っ頓狂にも程があり、まさに狂気の沙汰もカネ次第!

 

おまけに、
〇レフェリーのアリはヘッドギアと防弾チョッキ着用でリングに上がる。これは万一の事態に備えての措置とみられている。

というオチまで付きました。

 


●アミン大統領とは?

ウガンダの軍人、政治家、現職の第3代大統領。

 

元帥、法学博士の肩書も持つ身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともあります。

 

ウガンダ軍参謀総長当時の1971年1月、軍事クーデターで権力を掌握。当時、独裁政権を敷いていました。

 

反対勢力を弾圧し、国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称されます。

 

中でも、「虐殺した政敵の肉を食べた」噂があり、80年には「食人大統領アミン」という映画まで公開されました(実際は菜食主義者だったそうですが・・・?)。

ちなみに…さだまさしさんがこの「アミン」という響きを気に入り、アルバムの曲に喫茶店の名「安眠」として登場させたことから、岡本孝子さんのユニット「あみん」のルーツになった、というエピソードも。

 

それはさておき、当時は「野蛮なる独裁者」として世界的リアルに超ヒールだった現職の大統領です。


●「呼び屋」康芳夫氏とは?

この試合を企画したのは稀代のプロモーター、「呼び屋」と称された康芳夫氏です。

康氏は60〜70年代にかけて、テレビ局とタイアップして珍奇な企画を立ち上げ、日本中を熱狂させた人物です。

 

1972年には日本武道館での「モハメド アリvsマック フォスター戦」、翌73年には「トム ジョーンズ来日公演」、石原慎太郎氏を隊長とする「国際ネッシー探検隊」、1976年には「オリバー君招聘」をプロモート。

▲日本武道館でのアリーフォスター戦記者会見

そして、76年の「アントニオ猪木vsモハメド アリ」のコーディネーターでもありました。

 

康氏はアリを呼ぶためにブラック ムスリムに入信し、当時ボクシング興行を仕切っていたアメリカ マフィアに命を狙われながらマネージャーに近づき、交渉をまとめたと語っています。

 


●レフェリー モハメド アリ

 

この1戦のニュースが世界を駆け巡ったのは、やはりなんといっても「レフェリーがアリ」だからです。

 

康氏はアミン大統領を「以前から私が注視して動向をチェックしていた意中の人物」と語り、「アリと猪木の世紀の凡戦の仕切りなおし、これぞ正真正銘の20世紀最大の話題を集める異種格闘技戦」として、レフェリーにモハメド アリに頼み、アリもその要請を引き受けた、のだからキテレツにも程があります。

 

一説ではアリがレフェリーをやるとなったのでアミン大統領は試合を受けた、とも言われ、アリのギャランティは猪木の2倍の100万ドル、猪木は50万ドル、アミン大統領は公人ということでノーギャラだが興行と放送の利益の半額15億円をウガンダの国家収益とする、ということが発表されていました。

 

しかも、調印式、試合日程と場所、放送ネットワークについてまで発表されたワケですので、世間は眉唾とは思いながらも「ホントにホント?」と前のめり、当時のプロレスマスコミだけでなく朝日新聞などの一般紙でも報じられる騒ぎとなりました。

康氏は当時を振り返って、

「アリのバックアップが非常に大きかった。菅原文太くんや(高倉)健さんがアリの大ファンでね、マスコミに発表した段階で、康さん、お金払うからリングサイド10枚くれ、って連絡が来ましたね。あと、赤塚不二夫くんは シュール過ぎて、これが実現したら、僕は漫画家辞めます、なんて言ってきましたよ

 

文太兄いに健さんに赤塚不二夫先生!登場人物がいちいち面白過ぎます。

 


●まさかの結末!

果てしなく胡散臭く、あり得ないハズなのにホントにやる「らしい」この一戦。

思わぬ結末が訪れます。

 

なんとこの会見の直後、ウガンダで内戦が勃発。アミン大統領は反体制派のウガンダ民族解放軍に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、リビア経由でサウジアラビアへ亡命してしまうのです!

 

結果として、この世紀のキワモノマッチは幻となりました。ホントに実現していたら、果たしてどんな試合になっていたのか…

やる気満々だった当時のこのお2人には申し訳ないですが、これ程「やらなくてよかった」試合、というのも他にないかもしれません。

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