初代タイガーマスク黄金伝説、今回は3年目、1983(昭和58)年編です!
>①1981(昭和56)年編はこちら
>②1982(昭和57)年編はこちら
デビュー3年目となる1983(昭和58)年、タイガーマスクはWWF、NWAという2つの世界ジュニアヘビー級タイトルを独占。
東京スポーツ制定のプロレス大賞で馬場、猪木以外で初となるMVPに輝きます。
新日本プロレスの国内会場はどこも超満員で、アントニオ猪木に次ぐ、年代によってはそれを凌ぐ人気ぶり。シリーズ オフ期間には日本中でサイン会や握手会が開催されました。そしてその人気は海を越え、アメリカ、メキシコでもセンセーションを巻き起こし、イマドキの言い方をすれば”グローバルに通用するコンテンツ”として期待され始めていました。
●初代タイガーマスクの「特別」な魅力
当時の人々が体感したタイガーマスクのスゴさ。これはリアルタイム世代ではないと、なかなか理解しがたいと思います。
器械体操やフィギュアスケート同様、プロレスのアクロバティックな技の難易度はものすごく高度化していて、いまではタイガーを凌ぐ「空中殺法」の使い手は山のようにいます。
しかし、40年経ったいま観ても、初代タイガーマスクの試合は「特別な」魅力があるのです。
飛び技を主体としたプロレスは、どうしても約束組手、組体操のような”お約束”的な空気が漂ってしまったり、文字通り”軽い”感じが否めず、プロレスを見慣れていない人からするとヤラセくさい、わざとらしい印象を受けます。
しかし、初代タイガーマスクにはそれを感じない、というのです。
その理由は、佐山サトル氏が元々、格闘技的思考と素養があり、見せ技ではない実践的なロジックの(格闘技として”理にかなった”)流れの中に空中殺法を組み込んだ点にあります。
普通であれば、同じ人間がやるのですからその動きにはパターンがあります。しかし初代タイガーマスクの試合は、相手の動きに合わせて変幻自在に次のアクションをするため、「定番の(お約束的な)動き」が実に少なく、いったいいくつ引き出しがあるのか?とファンのみならず対戦相手ですら戸惑う、まさに”四次元殺法”なのです。
しかし、そんな理屈を抜きにしても、プロレスなんて何の興味もない人が見ても、思わず惚れ惚れとしてしまうほど、天才的な身体能力と色気が最大の魅力でしょう。
着地の際に音がしないほどのしなやかさ、指先まで神経の行き届いた繊細さ。驚異的な瞬発力とスピード、左右どちらを軸足にしても飛べて、動いている相手に確実にミートするアジャスト能力。
そして、いまもって誰にも真似ができないのはその身のこなしの美しさと、一目見ただけでその特別さが理解できる“色気”。
これは以降に数多くのフォロワーが世界中で生まれた中で、初代タイガーマスクにしかない、オンリーワンの特別な魅力です。
●この年の主な着用マスク
逆ヤギリ
1月シリーズから着用した「ヤギリ」のバリエーション。
口の横の模様が逆になっています。
パルキー
ウインナー「パルキー」テレビCM出演時のマスク。
メキシコでのフィッシュマン戦から着用したイメチェンモデル。
Ⅲマーク
二世ではなく三世?7月から引退直前まで着用。週刊プロレス創刊号はこのマスクでした。
エレファント
ラストマッチでのみ着用。鼻がやや長いためこの呼び名。
●ダイナマイト キッドとの因縁の抗争最終章、”衝撃のツームストン”
1月6日、後楽園ホールで小林邦昭とのNWA Jr.防衛戦。マスク剥ぎで反則裁定だった前2戦を経て、リングアウト勝ちではあるものの初めて勝利。
この年の前半はグラン浜田、ブラックタイガー、小林邦昭らとNWAとWWFのタイトルマッチをバランスよく消化していきます。
3月のシリーズではメキシコの小型ブッチャー、アブドーラ タンバやユーゴスラビア出身のミレ ツルノらと戦います。
4月1日、後楽園ホールでのダイナマイト キッドとタッグ戦で、キッドのツームストン パイルドライバーにより頚椎挫傷の大怪我を負います。さすがのタイガーも負傷箇所が首であることから大事を取り、4月3日、蔵前国技館のリング上で、コルセット姿で欠場と2冠返上を発表しました。
4月21日、蔵前国技館でダイナマイト キッドとの因縁の対決(NWA 世界Jr.王座決定戦)。
2度の延長戦の末、決着付かずドローに。これが結果的に、初代タイガーマスクとダイナマイト キッドの最後の対決となりました。
●人気沸騰と共にキナ臭くなるタイガーマスクの周辺
まさに好事魔多し。この5月頃から、タイガーマスクの周辺にキナ臭い動きが露呈し始めます。
まず、東京スポーツ紙面に「タイガー1億円引き抜き工作」のスクープが載りました。
当時はガセネタとして片づけられましたが、後にこの時期、梶原一騎、ユセフ トルコらが企てた”大日本プロレス(馬場猪木を排除する業界再編、新団体旗揚げ)構想”や、タイガーの私設マネージャ、ショウジ コンチャ氏による全日本プロレスへの移籍交渉など、さまざまな動きが水面下でうごめいていた、とされます。
そして5月25日。タイガーマスクの原作者である梶原一騎氏が講談社「月刊少年マガジン」副編集長への傷害容疑で逮捕される、という事件が起こります。これ以降、梶原一騎氏のアントニオ猪木監禁事件や赤坂クラブホステス暴行未遂事件などが次々と発覚し、マスコミは大バッシングを展開。
タイガーマスクはその余波を避けるため(に加えて梶原一騎氏の権利が絡まないようにしたい思惑)に改名(タイガーマスク返上)プランがウワサされるようになりましたが、ファンの反発やCM契約の問題なども絡み、結論が出せないままでいたようです。
●二冠王に返り咲き、マーシャルアーツスタイルへ
6月2日。あの第1回IWGP優勝戦「アントニオ猪木舌出し失神事件」が起きた蔵前国技館で、タイガーは小林邦昭とのNWA世界Jr.ヘビー級王座決定戦で勝利。2か月ぶりとなる王座返り咲きを果たしました。
猪木欠場の中、6月12日にはメキシコ エル トレオ デ クワトロ カミノスでフィッシュマンとのWWF Jr.王座決定戦に勝利。再びJr.2冠王に輝きました。
ちなみにこの試合、TV中継ではカットされていましたが3本勝負で行われ、2本目にフィッシュマンからフォール負けを獲られているのだとか。
この試合からタイガーはマーシャルアーツ風の赤いパンタロンを履き、マントではなくブルゾンを着用、マスク デザインも変更した新スタイルになりました。
7月シリーズではハルコン’78、そして後に全日本プロレス Jr.戦線の常連となるデーブ フィンレー、ピート ロバーツらと戦っています。
7月7日、大阪での寺西勇とのNWAタイトルマッチ後に小林邦昭が乱入、またもマスクをビリビリに引き裂き、ファンが投げ入れたセパレートのマスクでピンチを凌いだのは有名なエピソードです。
●改名(タイガーマスク返上)が正式決定、そしてラストマッチ
8月4日、蔵前国技館大会の試合前、新日本プロレス 営業本部長 新間寿氏と並んでタイガーマスクがリングに上がり、改名プランが正式発表されました。
次期ブラディファイト シリーズを「さよならタイガーマスク シリーズ」として、終了後に海外武者修行へ。年内、もしくは年明けからマスクとコスチュームを一新して再デビュー、というプランで、新マスクのイメージイラストが示されました(テイストが永井豪プロダクションによるものですね)。
ネーミングは決定済みだが時期シリーズ終了後に発表、とされましたが「フライングタイガー」や「スペースタイガー」などがウワサされました。
試合は寺西勇とのNWA世界Jr.戦。タイガースープレックスで下しタイトル防衛。
が・・・結果として、この試合が初代タイガーマスクの最後の試合となってしまいました。
●衝撃の”電撃引退”
タイガーマスクは1983年8月10日付で新日本プロレスに対して契約解除を通告し、マスクと2つのチャンピオンベルトを返上。「電撃引退」が8月12日付けの東京スポーツ紙面で報じられました。
新日内部では”シモノセキキエタ”(下関は佐山の故郷からの符号)と電報が打たれ、大騒ぎになっていたそうです。
後に
・自身の結婚を巡り団体側(新間氏)と衝突していたこと
・新日本プロレス内部の「クーデター事件」のゴタゴタに嫌気がさした
・タイガーマスクであり続けることに疲れたこと
・格闘技への情熱が高まっていたこと
などが重なっての「引退」だと明らかになりましたが、当時は驚天動地、晴天の霹靂で”謎だらけの引退”でした。
→関連記事:新日本プロレス クーデター事件
当時小学生の私がこの一報をどのように知ったのか、記憶が定かではありませんが、
その衝撃たるや、「テリーファンク引退」とか「猪木失神KO負け」とかの比ではありません。
ただ、なんとなくタイガーマスク自身が疲れ、情熱が薄れていることは感じていました。
特にコスチュームが赤いパンタロンに変わってから、なにかが違う、という空気がありました。
当時は「タイガーマスクじゃなくなってもいいや、と思っていたけど、もしかしたら改名するのって思っているより大きな変化なのかもな」ぐらいに思っていましたが。ただ、改名発表のリング上、マスクの下の目が妙に冷めていて「どうでもいいや」という表情だったのが気になっていました。
「改名でも移籍でもなく、プロレスを引退する」
「プロレスが好きだから、理由は言えない」
当時のそんな説明は記憶しています。
以降、プロレス雑誌の話題は「どこへ行く佐山サトル、タイガーマスクの復帰は?」ばかり。当の佐山サトル本人は沈黙を続けていました。後に知ったのですがこの時期、スポーツ紙や男性雑誌「GORO」などで佐山サトルの写真やインタビューなどが掲載されていたようですが、当時小学生で地方在住の私には遠い世界のお話。
週刊誌化されたばかりの「週刊プロレス」、まだ月刊誌だった「別冊ゴング」などで動向を追うのが精一杯でした。
引退直後のインタビューでは、
「こんな物ただの布切れですから」
といった過激な発言も多くみられました。
その布切れに、勇気と希望を与えられたファンには、あまりにも衝撃的な一言でした。ただ、
「ボクが本当にやりたいのは、こういう闘いではない」(今まで我慢してきたけど、もうカンベンしてくれ)
という佐山サトルの心の声を聞いた我々は、何も言えませんでした。
当時は引退の理由も面白おかしくさまざまに語られましたが、プロレスファンの多くは
「タイガーマスクがもう見られない」
という事実だけで頭が一杯で、とにかく帰ってきて欲しい、それだけを願いました。
タイガーマスク人気絶頂の時、あんなに人気者であんなに僕らを感動させてくれていたのに、
覆面の下の本人だけが不幸で、本人だけが、タイガーマスクを愛していなかったという哀しい現実。
タイガーマスクは、やって来た時と同じ様に、突然姿を消しました。
●「欽どこ」出演、素顔公開
そして翌1984年1月18日、テレビ朝日のバラエティ「欽ちゃんのどこまでやるの⁉︎」にタイガーマスクが出演する、と新聞のテレビ欄で知った時は、なにかの間違いかと思いました。
オンエアでは本当に本人が登場し、自らマスクを脱いで素顔を晒しました。前述の通り、既に雑誌などでは既に素顔が公開されていましたが、この番組で初めて、タイガーマスクの素顔を知った人が多かったと思います。
この番組で佐山サトルは「アメリカで試合をする」として新しい虎のマスクを紹介。
これは水面下で動いていた新間寿氏によるWWFマット登場を示唆するものでしたが、実現しませんでした。
さまざまな駆け引きがあり、佐山タイガーの日本マット復帰は「(第一次)UWF 無限大記念日」に落ち着きました。→関連記事「UWFとは何だったのか?」
■その後の佐山サトル氏
UWFを離脱した佐山サトルは、今度こそほんとうにプロレスと決別して「総合格闘技」という新ジャンル「修斗」創設。紆余曲折の末に今もってプロレスのリングでタイガーマスクであり続けています。
引退以降、プロレス界では三沢光晴の二代目をはじめ、何人ものタイガーマスクが登場しました。
技術革新はめざましく、初代タイガーマスクを超える空中殺法の使い手は、世界中にゴロゴロ存在します。
しかし初代タイガーマスク=佐山サトルの「844日間の黄金の虎伝説」を超える衝撃は、二度と現れないのです。
初代タイガーマスク シングル全戦績③ 1983年
◆41勝3引き分け
*タッグ戦、海外での試合は含まれていません
01月05日 越谷市体育館(11分16秒 体固め)カルロス ホセ エストラーダ 〇
01月06日 後楽園ホール(23分10秒 リングアウト)小林邦昭 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級選手権試合
01月08日 松戸市運動公園体育館(8分1秒 体固め)カルロス ホセ エストラーダ 〇
01月17日 熊本市体育館(11分57秒 両者リングアウト)ブラック タイガー 〇
01月20日 大分県立荷揚町体育館(11分21秒 原爆固め)ネグロ ナバーロ 〇
01月23日 萩市民体育館(12分3秒 体固め)カルロス ホセ エストラーダ 〇
01月26日 市原市臨海体育館(11分27秒 体固め)カルロス ホセ エストラーダ 〇
01月29日 富士市吉原体育館(9分31秒 両者リングアウト)ブラック タイガー △
02月03日 札幌中島体育センター(17分20秒 エビ固め)グラン浜田 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級選手権試合
02月06日 双葉町民体育館(13分4秒 体固め)カルロス ホセ エストラーダ 〇
02月07日 蔵前国技館(15分18秒 原爆固め)ブラック タイガー 〇
=WWFジュニアヘビー級選手権試合
02月08日 大阪府立体育会館(16分50秒 エビ固め)小林邦昭 〇
*WWF Jr.ヘビー級選手権試合
03月05日 群馬県スポーツセンター(13分47秒 リングアウト)ミレ ツルノ 〇
03月08日 熊谷市民体育館(8分1秒 体固め)アブドーラ タンバ 〇
03月10日 栃木県体育館(12分19秒 原爆固め)ミレ ツルノ 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級選手権試合
03月11日 東村山市民スポーツセンター(9分24秒 体固め)クリス アダムス 〇
03月12日 刈谷市体育館(8分57秒 体固め)アブドーラ タンバ 〇
03月15日 倉敷市体育館(11分39秒 体固め)ミレ ツルノ 〇
03月16日 岩国市体育館(7分40秒 体固め)アブドーラ タンバ 〇
03月17日 下関市体育館(11分51秒 体固め)クリス アダムス 〇
03月22日 北九州市若松体育館(10分39秒 体固め)ミレ ツルノ
03月23日 山口県立体育館(9分2秒体 固め)アブドーラ タンバ 〇
03月24日 堺市大浜相撲場(10分34秒 原爆固め)ミレ ツルノ 〇
04月12日 長野市民体育館(12分44秒 弓矢固め)カズウェル マーチン 〇
04月15日 福山市体育館(15分45秒 反則)小林邦昭 〇
04月17日 大阪万博お祭り広場(10分51秒 体固め)カズウェル マーチン 〇
04月18日 尼崎市体育館(10分30秒 腕ひしぎ逆十字固め)ボビー ガエタノ 〇
04月21日 蔵前国技館(11分12秒 両者フェンスアウト)ダイナマイト キッド △
*NWA世界Jr.ヘビー級王座決定戦
タイガーマスク(6分52秒 両者リングアウト)ダイナマイト キッド △
*同延長戦
06月02日 蔵前国技館(18分6秒 体固め)小林邦昭 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級王座決定戦
07月02日 神奈川青果市場(9分55秒 体固め)ハルコン’78 〇
07月04日 南浦和競馬場前(11分9秒 体固め)デーブ フィンレー 〇
07月06日 館林市民体育館(11分11秒 体固め)ピート ロバーツ 〇
07月07日 大阪府立体育会館(16分59秒 エビ固め)寺西勇 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級選手権試合
07月12日 苫小牧総合体育館(8分36秒 体固め)ハルコン’78 〇
07月14日 札幌中島体育センター(16分52秒 反則)小林邦昭 〇
*WWF Jr.ヘビー級選手権試合
07月16日 釧路市厚生年金体育館(7分57秒 体固め)ハルコン’78 〇
07月21日 小樽市総合体育館(13分49秒 体固め)ピート ロバーツ 〇
07月23日 青森市民体育館(7分47秒 体固め)ハルコン’78 〇
07月26日 迫町民体育館(10分41秒 逆さ押え込み)ピート ロバーツ 〇
07月28日 高岡市体育館(10分52秒 体固め)デーブ フィンレー 〇
07月29日 富山市体育館(8分38秒 体固め)ハルコン’78 〇
07月31日 相良町運動場(11分42秒 体固め)デーブ フィンレー 〇
08月03日 横須賀市総合体育館(10分48秒 体固め)デーブ フィンレー 〇
08月04日 蔵前国技館(14分37秒 猛虎原爆固め)寺西勇 〇
*NWA世界Jr.ヘビー級選手権試合
2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分け。
わずか1敗は「ダイナマイト キッドを場外フェンスの外に出した反則負け」で、シングルマッチでのフォール負けは一度もありません。
TV放送された全89試合のうち、87試合が発掘され、DVD-BOXで発売されています。
完
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コメント
マークロコ氏逝去のニュースからたどり着き、
素晴らしいタイガーの記事を読ませていただきました。
当方1972年の沖縄生まれ…沖縄というのが難儀な場所で、
当時日テレ・テレ朝のネット局が無く、全日は平日深夜放映の
新日は土曜のお昼に放送、しかも二か月遅れ。
タイガーデビュー前は、親父がオンタイムやVHS録画で
プロレス見るたんびに「つまんねー」と思ってました。が、
小学3年生の時にタイガーのデビュー戦を親父に誘われて見て…
一発でやられました…一発で。実写版「サンバルカン」とでも言いいますか、
「特撮以上にスゴイ!」ってのをガキながらに感じ、そっから地方の
プロレスファンです。
中学生の時にケーフェイ読んで脳を壊されつつも、教室プロレスにいそしみ
空手を習い、四天王に傾倒しつつ修斗を後楽園に見に行き。
今も20世紀末プロレスは興味の鉱脈です。貴重な記事読まさせていただきつつ、知らなかった出来事を発掘させていただきます!
コメントありがとうございます。沖縄ではそんな状況だったのですね。。。あの当時、「ワールドプロレスリング」のネットがない(もしくは遅れる)エリア在住だった方々には心よりお悔やみを・・・と言いたいくらい、面白かったのです(笑)
それから、実写版「サンバルカン」というのはリアルな感想ですね!初代タイガーのスゴさは、ヘタな特撮よりもハラハラドキドキする攻防を、リアリティを持って同時進行で展開するみたいな感じでしたので、その感想は納得です。
私のblogもYouTubeも、いろいろあってもやはり昭和のプロレスネタが圧倒的に視聴率が高いあたりに、あの頃の印象と記憶の強烈さが表れている気がしています。
ぜひ、ほかの記事も読み漁ってまたお気軽にコメントください!
写真検索から偶然たどり着き、楽しく拝見しました。
初代タイガーデビュー時、私は大学生でしたが、しっかり見ていました。
本文に誤りがありましたので余計なお世話ながらメモっときますね。
初代タイガー時、家庭用ビデオデッキは既にありました。確かにまだ高額でしたが、私はバイト代を(タイガーのために)つぎ込んで購入しています。テープが上にガコン!と飛び出すβ版で当時50万円でした。2台目を買う余裕はないので、編集するためにクソ重いデッキ(初期デッキは20㎏近かったのです)をかついで、同じくビデオデッキを持つ友人宅へ行ったりしてました。
もう一つ。初代タイガー活躍時の裏番組は『3年B組金八先生』ではありません。第2シリーズ終了直後にデビューし、第3シリーズが始まる前に引退しています。初代タイガー期は姉妹編の仙八先生と貫八先生でした。
しかし『太陽にほえろ!』ではスコッチ刑事が復活していて、タイガーが終わったら4chとガチャガチャしてました。タイガー人気が一般層に本格化したのは、1982年初頭からだと思いますが、それはその時期スコッチ刑事が死亡したためだと私は思ってます。私も以降はプロレスだけを見てました。
長文失礼しました。
どらドラゴンさま、コメントありがとうございます。
私は小6~中1あたりなのでうろ覚えですが、友人の中にもβのデッキを持ってる子がギリ、いましたね。そう言われると。なんかひも付きのリモコンタイプのSONY製。でもまだホントに希少でしたよね。
その後、我が家にVHSデッキが来てからは録画してましたがテープが高額で上書きしていたため、残っているのはIWGP決勝の寺西戦とか、最後期の1~2試合。引退してから「とっておけばよかった」と後悔した記憶があります。
金八先生との関係も、そうだったみたいですね。話題を呼んだ第2シーズン(加藤・松浦)終了後のデビューだったのは結果的に幸運でした。
そして「太陽にほえろ」はスコッチ刑事の頃でしたか、私もスコッチ好きだったので殉職したら迷わずタイガーを観れますね(笑)
いろいろとぼんやりとした記憶の断片がつながってきました。ありがとうございます!
初めまして!
「初代タイガーマスク」「引退」というキーワードでGoogle検索したのをきっかけに、こちらのページにいきあたりました。
当時の熱狂的な時代を一緒に生きてきたものとして、最初から最後までじっくり読ませていただきました。
改めて当時を思い出し、初代タイガーの凄さが胸に迫ってきました。
そして何より、私も口をポカンと開けたまま番組終了までみていた、欽ちゃんの番組への突然の出演。
小林邦明選手の度重なる卑劣なマスク剥ぎにあれだけ抵抗していたタイガーが、あっさりとマスクを番組中で脱いでしまうという”暴挙”に、なんと言葉に表現していいのかわからないほどの感情のまま、時を忘れるように呆然としていたように思います。
あの衝撃をこうして文章でまとめていただいたことで、やはりあれは現実だったんだ、といまさらに思い起してします。
あれから随分と長い時間が過ぎ去り、プロレスに関する痛ましい事件も少なからず聞かされる昨今ですが、本当にタイムスリップしたかのような感慨で、素晴らしい時間を過ごさせていただきました。
こちらのブログのこの記事に出会えて、本当によかったです。ありがとうございます!
はじめまして、コメントありがとうございます!「欽どこ」はホントに、衝撃でしたよね(笑)
初代タイガーマスクのスゴさ、いくら文字にしても伝わらないもどかしさを感じながら書きましたが、あの時代を体感された方にこう言っていただけると嬉しいです。
飯伏幸太、ウィルオスプレイ選手など、アクロバティックさではタイガー以上の選手は数多くいますが、あの色気というか、なんともいえない魅力を感じるのはいまだに初代タイガーマスクしかいません。
だからこそこれだけ時間が経っても、特別な存在なんでしょうね。
シングルマッチでのフォール負けはフィッシュマンとの3本勝負で一度ありますよ。結果としては2−1で勝ちますが。2本目でフォール負けしています。
コメントありがとうございます。はい、そう書いてあると思うのですが。。。