今回は、80年代後半から90年代に新日本プロレスで活躍した、「昭和最後の未知なる強豪」”刺青獣”クラッシャー・バンバン・ビガロを取り上げます。
190cm 170kgの巨体でありながら、器用な身のこなしと受け身、試合の組み立てのうまさには定評があり、全身の刺青と炎をデザインした全身コスチュームの見た目のインパクトも抜群。
ハシミコフ、北尾光司のプロレス デビュー戦の相手役としても有名です。
“モンスターファクトリーからの刺客“
ビガロは1961(昭和36)年生まれ。日本マット初登場は1987(昭和62)年1月で、26歳の若さでアントニオ猪木の新たなライバルとしてシリーズのエース外国人に抜擢され、鮮烈な新日本マット初登場を果たします。
かつて猪木とMSGで戦ったこともあるラリー・シャープが主催するプロレスラー育成機関「モンスターファクトリー」からの刺客、というギミックでしたが、実際にビガロはここでプロレスラーとしての基礎を学び、テネシー州メンフィスCWAマットで1985(昭和60)年にデビュー。日本初登場時はまだキャリア2年目の“グリーンボーイ“でした。
当時の新日マットは、UWF勢との日本人対決がメイン。長州らジャパン勢はまだUターン前夜でした。新日vsUWFの”イデオロギー闘争”はプロレスファンからすると面白いものでしたが、「お茶の間の視聴者層には地味過ぎて数字が取れない」とTV局サイドは不満で、「わかりやすい悪役ガイジン、アントニオ猪木のライバル」作りは急務でした。
ビガロはこの猛プッシュにしっかりと応え、来日第1戦ではトニー・セントクレアー、キューバン・アサシンと組んでアントニオ猪木・武藤敬司・越中詩郎組と激突。越中を2回もリング内から場外に投げ飛ばし、史上初の「リング内からの場外フェンスアウト負け」の大デモをやってのけます(ちなみにこの5分弱の試合、猪木が一度も試合に絡まず終わるという珍記録も残っています)。
ビガロはこの後もジョージ高野もリング上から場外フェンス外まで放り投げてノックアウトし観客を戦慄させ、藤波辰爾を回転エビ固めで、前田日明にも首固めで立て続けにフォール勝ち。2月5日最終戦、両国国技館でのアントニオ猪木との一騎打ちは反則決着で、to be continue となりました。
ビガロ再登場時は「ブレージング・チェリーブロッサム・ビガロ‘87」と日本プロレス史上初の選手名入るシリーズとなるほど、期待されていました。ちなみにこの頃のビガロは、映画「ジョーズ」のテーマで入場していました。
新日本プロレスは5月の「長州Uターン」を受けて、6月から「世代闘争」が勃発。8月には後のG1クライマックスの源流とも言える「サマーナイトフィーバー in 両国国技館」2連戦が開催されました。
ビガロはその直前、8月2日の両国大会で再びアントニオ猪木と一騎討ち。この年の第5回シリーズで正式にタイトル化されたIWGPヘビー級の、記念すべき初防衛戦がこの試合なのです。
この試合はアントニオ猪木の珍しいラリアット(しかも連発)が飛び出したことでも有名ですが、なんと言っても試合後のマイク「いいか、よく聞け、木村!藤波!長州!前田!ベルトはいつでも用意してるぞ!獲りに来い‼︎」にトドメを刺します。
久々に猪木らしい大逆転からの完勝だった故に飛び出した発言で、裏返せばビガロの負けっぷりが見事だったとも言えるのでした。
ハシミコフ、北尾デビュー戦
このビガロのプロレスラー としての「よい仕事ぶり」はその後、立て続けに異種格闘技からの大物のデビュー戦の相手を務めたことで、さらに発揮されます。
1989(平成元)年4月24日、新日本プロレス初の東京ドーム興行「格闘衛星闘強童夢」で、ソ連初のプロレスラー 、レッドブル軍団の大将格 サルマン・ハシミコフと対決。2分26秒、水車落としで敗戦。
1990(平成2)年2月10日には同じく東京ドーム「スーパーファイトin闘強童夢」で元大相撲 第60代横綱 北尾光司のデビュー戦で対決。北尾のしょっぱさに悪戦苦闘しながらもなんとか(?)試合を成立させたビガロの力量だけが、高く評価される結果となりました。
1991(平成3)年12月にはアマチュアボクシングの欧州チャンプ、トニー・ホームのプロレスデビュー戦の相手も務めています。
ビガロのテーマ
「自身がギターを弾いている」と言われた入場テーマ。CD化されておらず幻の楽曲となっています。
ベイダーとのタッグでスタイナー兄弟と名勝負
1990年6月、坂口征二社長就任時の「雪解け」を受けて全日本プロレスにも1シリーズだけレンタル出場。スタン・ハンセンとコンビを結成するなどして三沢光晴、小橋健太、川田利明ら四天王と対戦しています。
この頃、ビガロは同じ新日本育ちのビッグバン ベイダーとの“BV砲“を結成、IWGPタッグ王者となり、武藤敬司&馳浩などと熱戦を展開。この時期の新日本プロレスは闘魂三銃士と巨漢ガイジンレスラーズの華やかかつスピーディな攻防で、大いに盛り上がりました。
1992(平成4)年6月26日、日本武道館で行われた当時WCW最強のタッグチーム、スタイナーブラザーズとのIWGPタッグ選手権は、シチュエーション、顔ぶれ、試合のクオリティ共に日本プロレス史上に残る“ガイジン同士のタッグマッチ ベストバウト“となりました。
ビガロと同時期に活躍したビッグ・バン・ベイダー、スティーブ・ウイリアムス、スコット・ノートンらとは共闘したり対戦したり。日本人対決が主流になりつつあった日本マット界において、本来のプロレスの醍醐味である「超大型レスラーの肉弾戦」を見せてくれる、貴重な存在でした。
その後のビガロは、WWF(現WWE)に移籍。1995(平成7)年4月のレッスルマニアXIで元NFLのスーパースター、ローレンス・テイラーと対決(なんとメインイベント)。
日本では天龍率いるWARにも登場、天龍&大仁田とのコンビも結成しました。
VT参戦のミステイク
このように日米を股にかけ活躍したビガロですが、持ち前の器用さと仕事ぶりから、元来の“怪物“としてではなく完全に“便利屋“キャラとしてのポジションに収まってしまいました。
そしてその最悪な選択が、1996(平成8)年に有明コロシアムで行われた日本初となる金網バーリトゥード「U-JAPAN」のメインイベント、キモ戦でした。
この試合は当初、ベイダーにオファーして拒否されたとも言われますが、ビガロはわずか2分15秒でマウントパンチからのチョーク・スリーパーで秒殺され、結果として「見事な噛ませ犬ぶり」を発揮してしまいました。
山火事から子供を救出、そして急逝
ビガロはその後、2000(平成12)年7月に「火事に巻き込まれた近所の子供を、全身の40%もの大火傷を負いながら助けた」というニュース以降、セミリタイア状態に。
2005(平成17)年にはバイク事故を起こし、同乗女性が負傷するなど不運続きで、プロレスからも完全に引退。
そして2007(平成19)年1月19日、フロリダの自宅で死去。死因は公表されていませんが、薬物の大量摂取による副作用と報じられました。享年45歳の若さでした。
「プロレスラーの光と影」を見事に体現した、クラッシャー・バンバン・ビガロ。身体能力とプロレスセンスに優れ、ほうき(素人)相手とでも試合を成立させられるスキル故に、気が付けば「便利屋」扱いに・・・。それによって知名度と、巨額のギャランティを手にしたものの、その晩年は寂しさを感じます。
興行ビジネスの理屈とエゴの渦巻く業界では、彼は”いい人”過ぎたのでしょうか。
Bam Bam Bigelow 1961-2007
R.I.P
コメント
初めまして。
自分の好きな外国人レスラーが取り上げていたので嬉しくなりコメントしました。
この投稿を見てビガロさんの試合動画(87~92年の新日本プロレス)を改めて見ると強さもですが巧さや相手の力を引き出す技術の素晴らしさが更にわかって楽しくなりました。
これからもblogやyoutubeチャンネル楽しみにしています。
blogを知った理由
昨年たまたま昭和プロレスの業界の事情とかを検索してて外国人レスラーのギャラ事情の投稿に辿り着いたのがきっかけです。
コメントありがとうございます!ビガロは若いのに巧いレスラーでしたよね。あれだけの体重がありながらフワフワ軽いのが魅力でもあり弱点でもあったような・・・今後とも、宜しくお願いします!