●馬場の全盛期は60年代の「日本プロレス」
アントニオ猪木とジャイアント馬場。
日本統一の野望、格闘技世界一決定戦、過激なプロレス…どうしても猪木の話ばかりになります。
1970(昭和45)年生まれの私がものごころついた80年代、すでにプロレスラー ジャイアント馬場はロートルで「プロレスが八百長と言われるのは馬場のせいだ」と、“諸悪の根源”的な扱いでした。猪木の過激なプロレスはいくらでも語れますが、馬場のプロレスに語るところはほとんどありません。
しかし、猪木を知れば知るほど、馬場という存在が気になるのです。
ジャイアント馬場の全盛期はいつなのか。馬場の名勝負とはどの試合なのか。私はそれを書かないとなんだかフェアでない気がずっとしていました。
馬場を知るオールドファン、そして関係者は口を揃えて「日プロ時代、それも1970年頃までの馬場さんは凄かった」と言います。
そして、「80年代どころか、全日本プロレスを旗揚げした1972(昭和57)年には既に馬場は下り坂だった」というのです。
私はそれを見ていません。
そこで今回から、全日本プロレス以前、「日本プロレス時代のジャイアント馬場」について掘り下げます。
●正反対の馬場と猪木の「プロレス観」
同じ日に、同じ師匠に入門して、同じ団体で活躍しながら、馬場と猪木のプロレス観は正反対。
力道山亡き後、昭和のプロレスは「馬場と猪木の対立の物語」でした。
この両者の違いはどこから生まれたのか。私を含め多くの方は「性格の違い」「力道山からの育てられ方の違い」で片付けてしまいがちですが…
その原点は「ジャイアント馬場のアメリカ武者修行での成功体験にある」というのが、この本を強く読んで感じたことでした。
「1964年のジャイアント馬場」著 柳澤健
●馬場のアメリカ遠征
1)1961.7-1963.2
2)1963.10-1964.3
3)1965.2
の3度。
この約30ヶ月あまりで馬場は、3大世界タイトルへの連続挑戦、ニューヨーク MSG(マジソン スクエア ガーデン)のメイン出場など、日本人プロレスラーとして前人未到の足跡を残し、そして遂には「年俸5億の10年契約」というメジャーリーガー並みのギャランティを提示されるスーパースターになっていました。そしてその価値には、当時の複雑な事情が絡んでいました。
●2年目にして初の海外武者修行へ
ジャイアント馬場こと馬場正平は1938(昭和13)年1月23日生まれ。
プロ野球の名門 巨人軍でピッチャーだったことはあまりにも有名です。
1960(昭和35)年
4月、日本プロレスに入門。馬場小平 22歳でした。この時、ブラジル遠征から帰国した力道山の横にいた猪木寛至と、運命の出会いをします。
1961(昭和36)年
7月、入門1年目にして早くも馬場は力道山に初渡米武者修行を命ぜられ、芳の里、マンモス鈴木とアメリカに遠征。
その日本人離れした体格と、年齢も5歳上、ジャイアンツのプロ野球選手としてすでにカラダができあがっていた点が、猪木との「差」でした。馬場のアメリカでのマネジメントは当時の日本プロレス ガイジン招聘係の日系レスラー、グレート東郷。
▲左から東郷、馬場、芳の里
さらにマネージャー、トレーナーとして実力者、フレッド アトキンスが付きました。
アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスでは SHOHEI BIG BABA、ニューヨークでは BABA THE GIANT。このビンス マクマホン シニアに名付けられたリングネームが元で、帰国後に「ジャイアント馬場」となります。
馬場や低迷するマンモス鈴木、芳の里とは違い、そのわかりやすく日本人ばなれした巨体と、運動能力の高さですぐに頭角を現し、ロスアンゼルスからワシントン、そしてニューヨークへ転戦。
MSG マジソン スクエア ガーデンで、同じく新人時代のブルーノ サンマルチノ、そして、世界王者バディ ロジャースと出会います。
●馬場が憧れたバディ ロジャースとは?
馬場が「アメリカ修行時代に見た中で、人気と実力を兼ね備えた最高のレスラー」と憧れたロジャースは、ついぞ来日しなかったため日本での知名度はイマイチですが、あのWWEのボス、ビンス マクマホン(Jr.)も子供時代に「最も憧れた選手」と語っています。
ロジャースは当時、全米一の観客動員力を誇るスーパースター。安いギャランティでこき使われるのを嫌い敬遠していましたが、1961(昭和36)年6月、パット オコーナーを破り第43代NWA世界ヘビー級王者に。これはルー テーズ以降、客を呼べるチャンピオンがロジャースしかいなかったからです。
ニックネームは「ネイチャー ボーイ」。「ダーティー チャンプ」の元祖となったヒールで、決め技は足4の字固め。クジャクのようなロングガウン、ブロンドヘアー、ロジャース ストラートと呼ばれる気取った歩き方、レフェリーの陰で反則を繰り返し、ピンチに陥ると「オー ノー」と許しを乞うアクション、わざと反則負けして王座防衛などなど、リック フレアーはまんまロジャースのパクリなのです。後期のタオルを持って入場するスタイルはニック ボックウィンクルが継承しました。80年代を代表する世界チャンプの2人が揃ってそのスタイルを模倣することからも、ロジャースの影響力がわかります。
馬場は日本人レスラーで唯一、全盛期のロジャースのNWA世界タイトルに挑戦したレスラー。
ルー テーズ、カール ゴッチ という日本人の好きなプロレスラーとは違う「客が呼べる、観客をエキサイトさせるのがよいレスラー」という(当時の)本場アメリカン プロレスの価値観に触れたことは、後の馬場に大きな影響を与えます。
●馬場 NWA世界連続挑戦
1962(昭和37)年
3月、馬場はシカゴでNWA世界ヘビー級王者バディ ロジャースに初挑戦。
日本では力道山がフレッド ブラッシーと戦い、TVの前で老人がショック死していた時期です。
初戦はあっさり敗れますが馬場はロジャースから認められ、3日後にワシントンで、さらに6月にフィラデルフィアでも挑戦。
前座から「メインイベンター」になった馬場はこの時期、東海岸エリアでのビンス マクマホン シニアの興行でアントニオ ロッカ、クラッシャー リソワスキー、エドワード カーペンティア、ボボ ブラジルら、一流どころと対戦しています。
興味深いのは、この少し前の1961(昭和36)年9月に、力道山が東海岸に遠征している点です。力道山の狙いは馬場の視察にかこつけて、ビンスら東海岸の有力プロモーターと契約する事でした。力道山は西海岸での出場経験はあるものの、当時のプロレスの本場はニューヨーク、シカゴ、セントルイス。力道山が顔が効くロスアンゼルスはB級マーケットでした。
この時、力道山は試合も行いますがアメリカでは無名で、MSGのリングに上がることはできませんでした。これをこの時期の馬場が見ていた、というのは後に大きな意味を持つ出来事でした。
6-7月、馬場の初米国武者修行のハイライトが、この6/23、7/7、7/25にオハイオ州コロンバスで行われた「バディ ロジャース NWA世界タイトル 3連続挑戦」です。いくらロジャースに気に入られた、といっても客が入らなければ連戦はあり得ません。敵役としての馬場の商品価値を物語っています。
●バディ ロジャース襲撃事件
そして8/31に行われたフェアグラウンド コリセウムで、かの有名な「バディ ロジャース暴行事件」が起こります。負傷したロジャースは欠場となり、馬場との抗争はここで終わりになりました。
ロッカールームでロジャースをシメたのは、カール ゴッチ とミスターXことビル ミラー。この2人はこの1年前に、日本プロレスでもグレート アントニオへのリンチ事件を起こしています。
実力派の自分たちと戦わず、グリーン ボーイの馬場相手に興行をフルハウスにするロジャースを、当時対抗勢力に与していた2名が制裁した、というのが真相のようです。
観客動員も人気でも上回る馬場の憧れのロジャース(人格はサイテーだったそうですが)を、実力はあれど人気のないゴッチがシメる。そのゴッチは後に猪木により「プロレスの神様」と崇め奉られる、というのも、不思議な因縁です。
●力道山と日本へ帰国
1963(昭和38)年
2月、馬場はロサンゼルスでWWA世界ヘビー級王者ザ デストロイヤーに挑戦。
ここで「第5回ワールドリーグ戦」出場の外人レスラー招聘のため渡米していた力道山に迎えられ、日本へ帰国することになりました。
力道山はアメリカで最も人気のあるバディ ロジャースの来日を試みますが交渉はまとまりません。そんなロジャースと弟子の馬場がアメリカでは連日タイトルマッチを行っている。いまや馬場は、力道山の事業資金をドル建てでバカ稼ぎする、大事な金の卵。独立や引き抜きでもされたらかなわん、と自ら迎えに来る程の存在になっていたのです。
馬場のアメリカでの稼ぎは、グレート東郷とアトキンスのマネジメント料が差し引かれ、残りが力道山と馬場とで分配されます。
帰国した馬場は力道山から「お前の稼ぎは2万ドル残っている」と言われ、そのうち5千ドルだけ渡され「あとは貸しとけ」と言われます。力道山は広げすぎた事業の借金に苦しんでいました。
当時25歳の馬場は、39歳の師匠 力道山に、いまの紙幣価値で約3千万円を貸し、借用書を書かせています。
1963年3月、凱旋帰国した馬場正平は「ジャイアント馬場」となり、力道山と並んで記者会見で迎えられます。力道山にこのとき「馬場ちゃん」と呼ばれ、本人は驚いたそうです。
そして馬場はキラー コワルスキー、パット オコーナーら、当時の超一流外国人レスラーと対戦。力道山、豊登とは違う、スケールのデカい、アメリカン プロレスを展開。力道山との師弟タッグも組んで日本全土で大人気となります。
【馬場名勝負①】 1963年3月24日 蔵前国技館 45分3本勝負 △ジャイアント馬場(0-0)キラー コワルスキー△
45分ノンストップの激闘はめったに弟子を褒めない力道山に「おう、お前ようやったな。疲れたろう。動きっぱなしだもんな。うん、ようやった」と言われ、馬場はその時のセリフを丸暗記するほど嬉しかったそうです。
25歳の馬場は全身の筋肉もひと回り以上大きくなり、鋼のような肉体で動き回ります。
次回、②では2度目のアメリカ遠征と帰国後の活躍についてお送りします!
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