2001年3月2日 両国国技館
プロレスリングZERO-ONE 旗揚げ戦 「真世紀創造。」
「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」
― 橋本真也 旗揚げ挨拶
2001年3月2日、橋本真也の新団体ZERO-ONEが、両国国技館で旗揚げ興行を開催。
11,000人、超満員札止めの観衆を集め、大成功に終わりました。
この大会が爆発的な盛り上がりを見せたのは、なんといってもそれまで”禁断”とされてきた新日プロ vs NOAHの初遭遇を、いきなり実現してみせたことに依ります。
細分化し過ぎた団体の垣根を越え、バラエティ豊かなレスラー、格闘家が一堂に会する世界感は当時、PRIDEなどの総合格闘技に押されっぱなしだったプロレス界にとって、”明るい希望”に思えました。
今回は、「1・4事変」小川直也戦後の橋本真也、ZERO-ONE旗揚げの真相に迫ります。
橋本「復帰」を巡る水面下の駆け引き
新団体ZERO-ONE旗揚げの裏側には、実に複雑怪奇な人間模様が渦巻いています。
1999年1月4日、東京ドームでの「橋本真也vs小川直也」が小川の“暴走ファイト”で「1・4事変」「ブック破りのガチンコ」との憶測を呼ぶ、大騒動に発展しました。
そこからこの橋本vs小川戦は新日本プロレスの興行の目玉となり、引退を機に新日側から距離を置かれていた創立者・アントニオ猪木の復権につながります。
この頃アントニオ猪木は、引退後に自ら立ち上げた新団体「U.F.O.」との対抗戦を柱に、古巣・新日本プロレスでの”復権”を画策。猪木の影響力を排除したい新日プロ・長州力現場監督との対立が燻っていました。
一方、1・4事変でプロレスラーとしての価値に傷を負った橋本は、移籍していた馳浩を通じ、かねてからパイプのあった全日本プロレスの三沢光晴から「よかったらウチのリングで試合しませんか」との誘いを受けていました。
そのプランとは、「2000年5月1日、全日本プロレス初進出となる東京ドーム大会での、vs川田利明戦での復活」。川田もまた、1月の三観戦以来負傷欠場中で、”W復帰戦”というシチュエーションでした。
しかし、この計画は馬場元子さんの「馬場さんの追悼興業は、全日プロゆかりの選手だけで」の鶴の一声で頓挫します。
行き場を失った橋本は、猪木プロデュースの下、小川との遺恨ドラマを重ねます。
橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!SP
そして2000年4月7日、東京ドーム大会が「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!SP」として、ゴールデンでTV中継されるまでに加熱しました。
この試合は大方の予想を覆し、橋本が小川に完敗。
橋本は公約通り、「引退」を余儀なくされます。
その後、橋本は熱心なプロレスファンからの「千羽鶴嘆願署名」に応えるカタチで引退撤回を決意。10.9東京ドーム vs藤波辰爾戦での復帰が決定しました。
当時、橋本の処遇は、猪木の指名で新日本プロレス社長となっていた藤波がカギを握っていました。
藤波は橋本に熱心に復帰を促し、長州との対立で新日プロ内に居場所のない橋本に対し、「U.F.O.入り」を勧めます。
しかし1・4事変以降、猪木への不信感が拭えない橋本はこれを拒否。
すると藤波は、自身の「無我」に倣って、橋本に「独自ブランドによる団体内独立」を勧めます。
2000年 激動のプロレス界
この2000年は、振り返ってみるとなかなかの激動、カオスな1年です。
●5月14日、ジャンボ鶴田がフィリピン・マニラ市内の病院で肝臓移植手術中に死去。
●5月26日、東京ドームで行われた「コロシアム2000」大会で、ヒクソン・グレイシーに敗れた船木誠勝が引退。
●6月16日、全日プロを退団した三沢光晴ら総勢26名が「プロレスリング・ノア」旗揚げを発表。
●6月19日、全日プロに残留した川田利明、渕正信が「新日本出撃」を表明。
●7月30日、長州力が現役復帰。大仁田厚と横浜アリーナで電流爆破デスマッチ。
●そして10月9日、東京ドーム大会で橋本が藤波戦で復帰。
この日のメインは、佐々木健介vs川田利明の「新日本プロレス対全日本プロレスの対抗戦」でした。
復帰戦の試合後、橋本は「僕にできることをするのがプロレス界のためだと今は思っています。あえて新日プロのレスラーという誇りを持って、独立したいと思います」と独立を発言します。
10月19日、東スポ紙上で藤波社長が、2001年1月4日東京ドーム大会で開催されるIWGPヘビー級王座決定トーナメントに「三沢、小橋の参加を望んでいる。特に秋山なんか面白い」「反対に、ウチの選手を上げてやりたい。橋本は一番上がりやすい」と発言。
しかし、当時抗争真っただ中の全日プロとの交渉役だった永島取締役が「アレは社長のリップサービス」と、すぐさま全面否定する一幕がありました。
三沢は翌10月20日、記者の取材に対し「12月23日に有明もあるし、1.4は無理。出ませんよ」と否定しましたが、橋本戦に関しては「橋本の気持ちが大事、いい形で話の場を作れれば」と含みを残します。
新日本プロレス ZERO
10月23日、復帰戦以降、沈黙していた橋本が記者会見。プレスへのFAXの送信元は、新日本プロレスでした。
場所は、品川埠頭の倉庫内。そこには「ZERO 新日本プロレスリング」の看板が掲げられ、中には無我から借りたリングがある道場。会見時には橋本のほか、藤田和之の姿もありました。
橋本は三沢の好意的発言に関して「ありがたいと思いますし、然るべきものを備えてから。当分、1人でやります。みんなビックリしたかもしれないけど、思い切って」と発言します。
この会見の直後、藤波社長は「橋本は新日プロの中での位置づけが先決であって、他団体とか自主興行とかはまだ先の話。これは新日プロの1つの起点としての道場で、自分の知り合いのツテで借りているもので、橋本個人のわがままで使ってもらっては困る」と発言。
ここにきて、擁護してきた橋本との見解の相違を窺わせました。
橋本、新日本プロレスから電撃解雇
10月31日、新日プロで4時間にもおよぶ役員会。議題はもちろん橋本問題でした。
11月10日、再び新日プロ幹部会招集。藤波社長、長州現場監督、永島取締役、選手サイドから越中、健介、蝶野が参加します(武藤はWCWに参戦中)。
正午ごろ、橋本が新日プロ事務所に現れ、1時間後に「ありがとうございました」と一礼して、無言で立ち去ります。
そして14時から藤波社長が記者会見。「橋本の解雇」を発表します。
この時語られた解雇の理由は、
・シリーズ中に無断で道場での旗揚げ会見を行ったこと
・全日プロとの交流中に橋本がノア参戦を口にして全日サイドの不信感を買ったこと
とされました。
藤波社長は目を赤くしながら「彼をこういう厳しい言葉でしか自由にしてやることができない。早く形を見せて欲しい」と橋本にエールを送りました。
これを受けて、静岡で興業中のノア三沢社長も緊急記者会見。「新日プロの内部事情は知らないけど、己の人生だからね。でもこれでウチとやる可能性は上がった。何らかの形で連絡をとらないとね」と発言します。
11月16日、橋本がインタビューに答えます。「理想は新日プロの名前を背負うことだったけど、ハシゴを外されたというか後戻りできなくなってしまった感じがあって・・・解雇は1週間くらい前からもしかしたら、とは思っていましたが、社長と話してそういう結論だと聞かされて・・・覚悟はしていたし、不安と希望でいえば希望の方が大きいからね。ただ、まさか自分から新日プロの名前が外れることがあるなんて予想だにしなかったので、車中でボロボロ涙が出ましたね。悪い解雇じゃなく、社長はいつまでも味方でいてくれたと思うし。今後、新日に上がる可能性はないとは思っていないし、むしろない方がおかしい。今後は攻撃する立場になりますけど。」
11月24日、都内ホテルで橋本-三沢が直接会談。
三沢はNOAH選手会に諮り、ZERO-ONEの会社登記が完了していないことなどを指摘、慎重な姿勢を見せましたが、12月1日、三沢社長は記者会見で、12月23日プロレスリング・ノア有明コロシアム大会への橋本参戦、vs大森隆男戦を発表。
そして12月20日、橋本が港区芝でZERO-ONE事務所開き。
道場の看板からも新日本プロレスの文字が消え、「FIGHTING ATHLETES ZERO-ONE」となりました。
ついに新日からの独立、ノア参戦を果たす橋本・・・
しかし同日、新日プロは「1・4東京ドーム大会のスペシャルマッチ・長州力vs橋本真也戦(時間無制限一本勝負)」を電撃発表します。
橋本はこれに対し「長州体制に対しては従う必要はないし、潰してやると。猪木会長にも以前、男ならリング内で戦えと言われたことがありますが、こちらは辞めてフリーの立場だから。俺から対戦を希望することはないけど、俺はいつでもいいよと。長州は受けられないでしょう。引退した人間が俺とやって勝てる訳がない。」と、自分も引退してたじゃん!と総ツッコミを受けるコメントを述べました。
同日、新日プロ事務所で記者会見に応じた永島取締役は「あいつはいつも口ばっかり、マスコミいじりでそういうのばっかりじゃねぇか!本当に度胸があるなら態度で示せ、橋本に度胸があるなら」と発言。
橋本vs大森、グッドリッジ、vs長州~伝説のドラゴンストップ
12月23日、ノア有明大会。ついにノアマット初参戦を果たした橋本は、大歓声の中でハイキックからの垂直落下DDT、6分あまりで大森を下しました。
12月31日、大阪ドーム「猪木祭り」に橋本参戦。プロレスルールでゲーリー・グッドリッジと対戦、辛勝。
猪木による年越しカウントダウン、餅つきなどに満面の笑みで参加しました。
そして2001年1月4日、新日プロ 東京ドーム大会。
第8試合で「遺恨凄惨」と銘打ち、長州力vs橋本真也戦が行われました。
いざ両雄がリングに上ると、ドームは異様な雰囲気と盛り上がりに包まれます。それを敏感に察知した長州が、試合前からやる気マンマンのパフォーマンス。一方の橋本はスカしてロープ際でオープンフィンガーグローブをつけて薄ら笑い。ここまでは期待度満点の展開でした。
その後、突如橋本がラッシュ、防戦一方の長州。もしかしたら・・・という期待もMAXに。
しかし、長州がダウンしても関節に行くわけでもなくマウントとってボコボコにするわけでもなく、丁寧に胸板を蹴りながら明らかに攻めあぐねる橋本と、徐々にペースを取り戻す長州。
そして、いつもの如く長州のラリアートを受け始める橋本…
「あーぁ、やっぱり橋本に長州を殺る覚悟は結局ないのか」という失望がドームを覆い始めたその時、伝説の“ドラゴンストップ”が炸裂!
「我々は殺し合いをしてるんじゃありません!」という藤波のマイクに、「別に殺し合いしてなかったよね」「ふつうのプロレスだったよね」「スタミナなくて息上がってぐだぐだだったよね」「オチもないから止めただけだよね」と、失望で氷点下のリング上。「そんな止め方あるなら、橋本が絶体絶命の小川戦で止めたれよ」との声が渦巻きました。
ノア大阪で禁断の橋本-三沢の初遭遇
1月13日、ノア大阪大会。橋本はアレクサンダー大塚と組み、第6試合で三沢光晴・小川良成組と激突。ついに夢の闘魂三銃士vs四天王、橋本-三沢のマッチアップが実現しました。
橋本は猛然とキック、袈裟切りの連発で三沢をダウンに追い込み、さらにレフリーを突き飛ばしてストンピングの猛攻。その状況にヒートするNOAHサイドは泉田、力皇らがリングに上がり橋本のセコンド安田と一触即発、乱闘か?と場内騒然となる中、三沢のエルボー一閃で戦況逆転。その後三沢組は連携を見せ、「プロレス」らしい展開を見せようとしますが、それに付き合わない橋本。
三沢はその態度に対してエルボーをアレクに見舞い、タイガードライバーでさっさとピンフォールで試合終了。収まりつかない橋本、安田もリングに上がって力皇らと小競り合い。
NOAHファンから橋本らに対してのブーイングが飛ぶ。NOAH勢はリング上で手をとりあって万歳。マイクを取る橋本、「三沢、次はシングルだ!」対して三沢もめずらしくマイクを取り、「橋本、次はあるのかこの野郎!」
そして1月25日、橋本は「3月2日の両国大会でプロレスリングZERO-ONE 旗揚げ戦『真世紀創造。』を開催します!」と会見を開き、三沢率いるNOAH勢の参戦を、正式に発表しました。
「偽装解雇」のハズが・・・
実は3・2両国国技館は、新日本プロレス名義で抑えた会場。
昨年11月の「橋本解雇」も“偽装”で、新日本プロレスは全日本プロレスとの交流を継続しながら、表向きは解雇したハズの橋本を通じて、NOAHとの交流を図ろうとしていたと言われています。
新日本プロレスはZERO-ONEに営業の中村祥之氏を送り込み、新日プロ 長島勝司氏との連絡役とします。
NOAHの三沢社長はもちろん、このカラクリには気づいていたでしょう。しかし、かつて橋本を東京ドームに上げられなかった借りもあり、また自らの新団体NOAHの起爆剤として、そしてなにより、純粋に橋本への応援の気持ちも込めて旗揚げ戦への参戦を決意したのではないでしょうか。
ただし新日本プロレスから見れば、ZERO-ONEはあくまでも「衛星団体」。
だからこそ永田裕志の参戦を認め、大谷晋二郎、高岩竜一のZERO-ONEへの移籍を”黙認”しました(高岩は橋本から『新日本との契約を更改してから合流しろ』と言われていましたが、大谷は新日との関係を聞かされず、契約を保留して合流するなど、この辺りの経緯は複雑です)。
プロレスファンの間でも永田の参戦、両国という大会場の使用、パーフェクTVによるPPV、TV解説が武藤などなど、橋本の旗揚げ戦としては出来過ぎたお膳立てブリから、「やはりZERO-ONEは、新日の衛星団体なのでは」との見方が強まりました。
しかし、にも関わらず、三沢率いる「NOAH」勢が参戦を決断した事で、より一層プロレスファンの期待度はMAXボルテージとなった訳です。
一方、出方が注目されたアントニオ猪木は旗揚げ戦の会場には姿を見せず、ビデオ祝辞を述べるに留まりました。
2001年3月2日 両国国技館 プロレスリングZERO-ONE 旗揚げ戦「真世紀創造。」
この旗揚げ興行は、シンプルに「面白い」興行でした。
ちょうどこの時期、プロレス界は総合格闘技「PRIDE」の攻勢に押され続けていました。期待の新団体「NOAH」も思ったほどブレイクせず、新日プロもマンネリ。それだけにプロレスファンの多くは、この旗揚げ戦に「純粋なプロレスの興行で久しぶりに楽しめた、やればできるじゃないか」と感じました。
この日の主な対戦カードは、大谷 VS 村上のシングル、セミは大森・高山ノーフィアー VS アレク・高岩。そしてなんと言ってもメインの橋本・永田VS 三沢・秋山戦は、長らくファンが夢見た「真の新日vs全日対抗戦」でした。
ちょうど同時期、新日本プロレスで行われていた「佐々木健介vs川田利明」も「いい試合」ではありましたが、それを「猪木イズムvs馬場イズム」とPRされるのには、どうにも違和感がありました。
それに比べ、4選手の入場だけでお腹いっぱいのこの日のメインは、いわゆる「負け役」が一人もおらず、というより負けられない者だらけ。橋本vs三沢、永田vs秋山、橋本vs秋山、三沢vs永田と、何処を斬っても盛り上がること必至です。
「闘魂対王道」と銘打たれたこの一戦、実際に試合内容も意地とプライドのぶつかり合いで、非常に刺激的でした。
結果。
調子に乗りまくった橋本が三沢からフォールをとられ、「旗揚げ戦、ZERO-ONE勢全滅」という橋本らしさ全開で終了。
そして、真のクライマックスは試合後でした。
暴走王・小川直也が乱入。マイクで「だらしねぇ試合してんじゃねぇぞ」と橋本を罵倒すると共に、三沢に「三沢!受けてもらおうじゃねぇか、勝負を」と挑発。
それに対し三沢がなんと小川にエルボーを喰らわし、“禁断の初遭遇“を果たします。そして藤田も登場、ZERO-ONE、新日本、NOAH、UFO、小路やアレクといったバラエティ豊かなメンツによる、超豪華な乱闘劇が繰り広げられました。
これまで接点がなく、交わる可能性自体が薄いと思われていた団体や選手同士が「ZERO-ONE」という場でリンクした既成事実が生まれたこの時が、低迷が長く続いた橋本の面目躍如。
いつもは絶対にマイクを持たない三沢は橋本にマイクを渡されると「お前らの思うようにしはしねぇよ絶対!」と返答。
この言葉の通り、誰もがこのまますんなり交流戦に進むとは予想していませんでしたが、今後の橋本とZERO-ONEが進むべき道、存在意義は「細分化されたプロレス界の中継地点となって機能すること」。小川との一戦以降、ずっと迷走を続けていた破壊王が、久々にマット界の中心に躍り出た瞬間でした。
「オマエら、やりたかったらいつでもここにこいや!」と嬉しさを隠せずに絶叫する橋本の表情が印象的でした。
事実、この日の売上は約8千万、経費やギャラを差し引いても4千万円ほどの利益を上げるなど、低迷の続くプロレス界では稀に見る大ヒット興行となりました。
しかしその収益の配分が原因で、橋本のZERO-ONEは新日本プロレスと揉めに揉め、真の「独立」の道へと突き進むことになるのです。
実は私はこの時、仕事でこの旗揚げ戦のDVD制作に関わっていまして・・・それも含めて記憶に残る、「伝説の旗揚げ戦」でした。
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