「令和の時代にキムケンを語る!」
昭和の新日本プロレスで活躍したプロレスラー、木村健悟。
引退後、いまや東京都品川区議会の政治家です。イナヅマ!
Jr.時代からの藤波辰爾のライバルであり、維新軍、UWFとの軍団抗争では新日正規軍の主力、反選手会同盟(平成維震軍)では副将格を務めるなどTVマッチ登場も多く、長期間にわたって常にメインストリームを歩んできた「キムケン」ですが・・・
「ジョバー(負け役・引き立て役)」のイメージが強い上に、アクの強いメンツが集う昭和・新日プロにあってイマイチ突出した活躍や名勝負がなく、「カンペーちゃん似のサル顔ルックス」「イマヅマ!」「歌がうまい」以外に、ほとんど語られることがありません。
言わばキムケンは、プロレス好きからしても「どう評価したらいいかわからない」謎多き存在。そこで、今回からシリーズで木村健悟の足跡を振り返り、「木村健悟とは昭和・新日プロでどういう存在だったのか?」を考察します。
▲入場テーマの「ビューティフル・フライト」はムダに名曲。
「ネーバーギブアップ!キームーラー」の女性コーラスに注目。
意外にも大相撲出身、入門は日プロ
キムケンは1953(昭和28)年、愛媛県出身。1969(昭和44)年に大相撲の宮城野部屋に入門しそのまんま「木村山」の四股名で同年7月場所初土俵。しかし約1年足らずで廃業して、1972(昭和47)年1月、日本プロレスに入門します。プロレスデビュー戦は同年8月2日、佐藤昭雄戦。当時のリングネームは本名の木村聖裔(たかし)でした。
この1972年は、前年に日本プロレスを追放されたアントニオ猪木が新日本プロレスを旗揚げした年。そして木村はデビュー翌年の1973(昭和48)年3月、坂口征二らと共に新日本プロレスへ移籍することになりました(ちなみにこの時、のちのキラーカーン、小沢正志も行動を共にしています)。
初期の新日本プロレスでの木村
木村は、初期の新日本プロレスでは目立たない、白タイツに白リングシューズの「前座の若手の一員」でした。当時の貴重なTVマッチがコチラ。どうしても天才・佐山聡の方に目が行ってしまいますが(笑)、キムケンは佐山の4年先輩にあたります。
そして藤波から遅れること3年、1978(昭和53)年に初の海外武者修行へ。
木村は初の海外マットで「パク・チュー」なるリングネームで、ヒールとして大活躍します。
プエルトリコではカルロス・コロンからWWCプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取、ロスではNWAアメリカス・タッグ王座を2度獲得。さらにメキシコではEMLLのトップヒールとして連日メイン出場し、NWAライトへビー級王者にも輝きました。
特にメキシコでの観客のヒートぶりは凄まじく、エストレージャ(トップ選手)としての地位を確立し、当時、海外マットで活躍する日本人レスラー中でも異例の売れっ子ブリでした。
凱旋帰国、藤波のライバルとして
凱旋帰国するも華々しいTVマッチはなし。「木村健吾」を名乗り、1979(昭和54)年12月13日・京都府立体育館で、藤波の持つWWFジュニア・ヘビー級タイトルに挑戦。木村は敗れたものの、この試合で「藤波辰巳のライバル」として認知されます。
そして翌1980(昭和55)年7月2日にはブレット・ハートを破り、藤波の返上で空位となっていたNWAインターナショナルJr.ヘビー級王座を獲得。以降、ピート・ロバーツ、藤波、チャボ・ゲレロ、ロン・スターを相手に防衛戦を行い、10月3日にゲレロに敗れるまで戴冠しました。
しかし・・・当時の藤波の”ドラゴン・ブーム”は凄まじく、木村は「並み居るライバルの1人」でしかありません。藤波には木村の他に日本人では剛竜馬や阿修羅原といった国際プロレス勢のチャレンジャーもいましたし、木村が「Jr.王者になった」といっても、あくまで負傷した藤波のワンポントリリーフ的な役割。
藤波同様に海外でのベルト戴冠、華々しい凱旋帰国などがTV電波に乗っていれば・・・ではありますが、新日プロにそこまで「木村を売り出そう」という意思がなかったのでしょう。
つい最近、木村氏自身が「新間さん(営業本部長の新間寿氏)から整形を勧められたが断った」と明かしています。新日サイドからすると「(イケメンの藤波に比べ)木村はキツネ目のルックスがなぁ・・・」というのがイマイチ、プッシュできない理由の一つだったのか、と笑ってしまいますが、もしこの時、その提案を木村が受け入れて「何がなんでもノシ上がりたい」という姿勢を見せていたら、その後のレスラー人生は変わっていた…かもしれません。
国際プロレスとの対抗戦、伝説の「浜口失神事件」
木村は1980(昭和55)年3月31日、後楽園ホールで行われた国際プロレスとの対抗戦に永源遥と組んで出場。マイティ井上、アニマル浜口組の保持するIWA世界タッグに挑戦します。
▲IWA世界タッグ選手権試合
マイティ井上&アニマル浜口vs永源遥&木村健吾(1980年3月31日/後楽園ホール)
この試合、未見の人はぜひ見てみてください。「レスラーの真の強さがわかるのが団体対抗戦」と言われますが、この当時の木村の地力がよくわかります。井上、浜口の国際勢より体格に勝ることもありますが、技のキレ、気の強さも含めて「木村ってこんなに強かったの」と驚くと思います。
終盤、木村が放ったプランチャで浜口が場外の床に後頭部をしたたかに打ち付けて失神。異変に気付いたベテランの永源が機転を利かせてレフェリーに暴行、新日組の反則負けに終わりますが、場内のファンは木村の強さにクギヅケです。
ちなみにマイティ井上は後年「木村がヘタクソだから当たり所が悪かった」「浜口が後年、あんな寡黙な男が”気合いだ”キャラになったのは、この時にアタマを強く打ったのがきっかけだ」と文句を言ってます(笑)。その直前の木村が井上に放ったドロップキックも当たり所が悪く、アブナイですね。
雪崩式ブレーンバスター「パクリ」事件
国際プロレスとの遺恨でいえば、コチラが有名です。1981年4月17日、東京スポーツに凱旋帰国した国際プロレスの阿修羅原が雪崩式ブレーンバスターを公開練習で披露している記事を見た木村は、その夜(鹿児島大会、TVマッチ)の藤波戦でぶっつけ本番、見様見真似でトライ!
しかし藤波に空中で体を切り返され、逆転のボディプレスでピンフォール負け。翌日、阿修羅原はオルソノスキー相手に雪崩式ブレーンバスターを成功させて、正真正銘の「初披露」となりました。
これにより「雪崩式ブレーンバスターを日本で初公開したのは阿修羅原、試合で初公開したのは木村健吾(ただし自爆)」というオチがつきました。
もし木村が成功していたら、「掟破りの~」どころではありません。
”地獄の墓堀人”ローランボック戦
この時期のキムケンで印象深いのが、”シュツットガルトの惨劇”以来、待望の初来日を果たしたローラン・ボックとのシングル戦です。
1981(昭和56)年7月31日、大阪府臨海スポーツセンターで行われたこの試合は、解説席に座る猪木の眼前でボックが戦慄の大デモを行う、といったもので、その意味ではキムケンのやられっぷりは120点の出来栄えです(というよりもこの頃のボックの強さが異常なのですけどね)。
ローランボック対木村健吾戦おまけ。殺人バックドロップと叩きつけるスープレックスをスロー再生でお楽しみください。 pic.twitter.com/Dzir0cxyjH
— pasin (@pasinpasin) April 15, 2020
次回②では維新軍・UWFとの軍団抗争から、木村健吾の立ち位置を考えてみましょう。
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