2018(平成30)年10月8日、第54代横綱 輪島大士(本名 輪島博)氏が、お亡くなりになりました。享年70歳。
横綱時代はもちろん、全日本プロレスでプロレスラーだったのも、令和の今となっては遠い昔の話ですね…
今回は、1986〜1988「プロレスラー輪島」を振り返ります。
昭和の大横綱 輪島大士
1948(昭和23)年1月11日石川県七尾市生まれ。高校から相撲を始め日本大学で2年連続、学生横綱に輝く。
1970(昭和45)年に花籠部屋に入門、初土俵から1年で新入幕入り、2年で大関昇進。
1973(昭和48)年5月場所で全勝優勝し、初土俵からわずか3年で横綱昇進。
1981(昭和56)年3月場所を最後に33歳で引退。その後、師匠の花籠親方を受け継ぎ、花籠親方を襲名。
185cm 132kg、通算成績673勝234敗85休、幕内最高優勝14回、殊勲賞3回、敢闘賞2回。
私が物心ついた頃の「輪島」は、金色のまわしで「黄金の左」と呼ばれる左下手投げを武器に、ライバル北の湖と土俵を沸かせる「輪湖時代」です。
北の湖がその風貌と憎たらしい程の強さから「ヒール(悪役)で、対する輪島は「ベビーフェイス(善玉)」。
両者の対決は実に44回だったそうです。輪島は、千代の富士登場以前の「カッコいい横綱」であり、子どもにも人気がありました。
異例のスピードで出世街道を突っ走った“天才横綱”輪島氏は、いろいろと型破りな力士だったそうです。
学生相撲出身初の、そして本名力士初の横綱であり、愛車はリンカーン。トレーニングにそれまでタブーとされていたランニングを取り入れたり、髷を結う前はパーマをかけたり、私生活も派手で業界では“異端児”だったのだとか。
相撲界“追放”からプロレス転向
引退して「花籠親方」となった輪島氏は、次々とトラブルに見舞われます。
1982(昭和57)年4月、先代の娘である夫人が自殺未遂騒ぎ。原因は花籠の金銭トラブルと噂され、後に離婚。さらに妹が経営していたちゃんこ店が倒産、この店の借金の担保に年寄名跡「花籠」を入れていた事が判明し、1985(昭和60)年12月21日、理事会で花籠の廃業が決定。
「借金総額3億円」と噂される中、輪島は相撲界を“追放”されてしまいました。
その後、輪島はタニマチの勧めもあってプロレス入りを考え始めます。そして同郷で全日本プロレスに所属していた元力士プロレスラーの石川孝志に相談し、ジャイアント馬場と面会。
この時はまだ打診レベルだったそうですが、その様子がニッカンスポーツにスクープされ、翌1986年4月8日「元横綱 輪島プロレス入り!」と大々的に報道されてしまいます。
そして1986(昭和61)年4月13日、キャピタル東急ホテルで正式な全日本プロレス入団発表となりました。
この時の世間の目は、決して暖かいものではありませんでした。
なにせ元横綱とはいえ、現役引退から5年、年齢にして38歳のプロレス転向。「スキャンダルと借金まみれの元横綱がプロレス堕ちした」的な見方が大勢を占めていたと思います。
日本相撲協会も激怒し、全日本プロレスに対し「1986年11月以降、両国国技館使用禁止」を通達しました。
プロレス武者修行
1986(昭和61)年4月の入団発表後、輪島は馬場、2代目タイガーマスク(三沢光晴)と共に、渡米します。
輪島はアメリカで本場のプロレス興行を観戦後、ハワイに渡り往年の名選手パット オコーナー、ネルソン ロイヤル、ザ ファンクス、ザ デストロイヤーらのコーチを受け、デビューに備えることになりました。
この時、ジャイアント馬場が輪島に課したのは「プロレスの王道・英才教育」。オコーナーはプロレス哲学や受け身を、ロイヤルは自ら運営するプロレス学校で基礎を叩き込みます。併せて基礎体力、ウェイトトレーニング、水泳をこなし、会見時98キロだった体重も122キロに。
この時期の輪島は文字通りゼロからプロレスを学び、馬場からも「よく練習する」と評されていました。
当時、日本でスパーリングパートナーを務めた渕正信のコメント
「38歳がスタートだったから、米国で涙の出るような練習をしたと聞いた。『渕クン、オレにはこれ(プロレス)しかないから、1年、2年(練習を)しっかりやるよ』と明るく話していた」
プロレスデビュー
1986(昭和61)年8月7日、アメリカ カンザスシティで輪島は馬場とタッグを組み、プロレスデビュー戦を行います。
輪島は黄金のまわしを彷彿させる黄色のショートタイツに白のリングシューズで登場。相撲のノド輪を改良した「ゴールデン アームボンバー」で快勝。
この“黄金の左”「ゴールデン アームボンバー」はプロレスラー輪島の必殺技、代名詞となり、後に田上明ら相撲出身レスラーに継承されました。
ハワイでのトレーニング4ヶ月、アメリカやプエルトリコでの実戦経験3ヶ月を経て、輪島は帰国。いよいよ注目の「国内デビュー戦」となります。
国内デビュー戦
1986(昭和61)年11月1日、地元の石川県七尾市総合体育館。対戦相手は、“インドの狂虎”タイガー ジェット シンです。
試合は「悪事を働くシンに立ち向かう正義の輪島」という勧善懲悪のわかりやすい図式で、試合後にシンの投げたイスがリングサイドの馬場に直撃するという珍場面もありつつ5分55秒、両者反則で決着。
ゴールデンタイムで放映された「元横綱 輪島大士 プロレス国内デビュー戦」はニールセン23.5%、ビデオリサーチ17.7%の高視聴率を記録。
一般マスコミにも報じられた輪島のデビュー戦は技術こそおぼつかないものの、気迫を前面に出したファイトが評価され、大成功となりました。
後に輪島氏本人は「本当にすべてに感謝でした。試合後に馬場さんに褒められて、涙がパッと出てね。打ち上げパーティーでは”よかったね”って馬場さんの奥さんが泣いて。そういう感動は一生忘れませんよ」
デビュー戦後、輪島は再びアメリカに渡り実戦経験を重ね、翌1987(昭和62)年1月から国内に定着。
同年2月にジャパンプロレスの長州らが全日本プロレスを離脱、新日本プロレスへUターンするという状況の中で、輪島はNWA世界ヘビー級王者リック フレアーへの挑戦、スタン ハンセンとのPWFヘビー級王座決定戦、ジャンボ鶴田とのコンビでロード ウォリアーズと対戦などマッチメイクで優遇され、その「対世間」の知名度で、観客動員とテレビ視聴率に大いに貢献しました。
後に選手、団体関係者はこの時期の「プロレスラー輪島」に対し「謙虚で素直に人のアドバイスを聞き、よく練習していた」と口を揃えます。
同じ角界出身のグレート小鹿は「オレは相撲界に3年しかいなかったけど、オレのことを”先輩”と言ってくれた。気さくで、人懐っこい人だった」と当時を振り返ります。
輪島の知名度は興行の集客やTV視聴率で貢献しただけでなく、スポーツ新聞の日刊スポーツは、輪島の全日本入りを86年4月8日付の1面スクープとして伝えたことがきっかけで、まるまる1枚の「プロレス面」がスタート。
一般世間への訴求力は、非常に高いものがありました。
酷評と悪評
しかし、プロレスファンからの輪島への評価は、決して高くありませんでした。
相撲時代のクセが抜けずモタモタしてしまう、受け身を怖がり技の受けが中途半端、そして力が入り過ぎて動きがガチガチでぎこちないのです。
そんな明らかに技術面で未熟な輪島が、メインクラスで強豪相手の試合がマッチメイクされる点も「客寄せパンダ」との批判に晒されます。
そこにマスコミから「輪島はエコひいきされていて、ほかの選手から浮いている」など悪意のある報道がなされ、イメージも決して良くはありませんでした。
そんな輪島の前に立ちはだかったのが、天龍源一郎でした。
天龍革命
1987(昭和62)年2月。長州力らジャパンプロレス勢が全日本を撤退し、新日本にUターンします。
輪島のプロレス入りと長州離脱の直接の因果関係はわかりませんが、長州からすると「もうオレはココじゃないな」と思い、馬場からしても「長州が抜けても輪島という次の一手があれば、ダメージは食い止められる」と考える要因になったことは、間違いないでしょう。
そして、そんな状況に「また全日がもとのぬるま湯に戻ってしまう」危機感を覚えたのが、天龍源一郎でした。
天龍は「ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れた」と言い放ち、鶴田とのタッグを解消。1987(昭和62)年6月、阿修羅 原と共に「天龍革命」をブチ上げます。
そのターゲットとして「全日プロのぬるま湯の象徴」と名指ししたのが、ジャンボ鶴田と輪島大士でした。
天龍と原は、連日タッグマッチで徹底的に輪島を“潰し”にかかります。輪島は終始劣勢に追い込まれ、反撃を試みても跳ね返されてしまいます。
テレビ中継の倉持アナウンサーの実況も観客の声を代弁して「どうした輪島、やり返せ!」と日増しに厳しくなり、解説の馬場も「輪島のこういうところがダメなんですよ」と辛辣。
観客には天龍革命の激しさが伝わる一方、カラ回りする輪島に対する失笑と溜息、という光景が続きます。
「プロレスラー 輪島」の輝き
1987(昭和62)年10月16日、大阪府立体育会館。輪島はジャンボ鶴田とタッグを組み、天龍、原の持つPWF世界タッグに挑戦します。
この試合もいつもの通り、序盤から輪島は天龍、原の猛攻に防戦一方。この日はパートナーの鶴田も助けに入らず“ロンリー バトル”を強いられ、観客からは失笑と容赦ない野次が飛び交います。
しかし終盤、輪島が覚醒。天龍に猛烈な往復ビンタを見舞うと、反撃のチョップやキック、ラリアットにも怯まず前進し、天龍を猛烈なぶちかましで場外にぶっ飛ばします。
最後はリングアウトで撃沈、敗れはしたものの、観客はそんな「吹っ切れた」輪島に大歓声を贈り、解説席の馬場も「輪島のこの気持ちで十分なんですよ」と絶賛しました。
天龍から「公開処刑」
そして1987(昭和62)年11月7日、後楽園ホール。輪島と天龍の初のシングルマッチが行われます。この試合は「天龍が輪島を公開リンチ」と報じられるほど、凄惨なものでした。
天龍は輪島の脚、そして顔面を靴紐の後がつくほど蹴り続け、16分18秒、輪島は場外で動けなくなりノックアウト負け。
解説の馬場も「デビューしてからの輪島は最初は良かったんですけど、だんだん稽古しなくなりましたね。これはやっぱり致命傷だと思うんですよね。こういう風にやられるということは全くね、恥ずかしい話ですよ」と酷評。
しかし、なすすべなく敗れた輪島、ではありましたが、蹴られても蹴られても立ち上がってくるその気迫は、それまで優遇され「お客さん扱い」されていた輪島とは違い、“プロレスの過酷さ”と共に“輪島大士の頑丈さ”が再認識されました。
相撲出身でプロレス入りし、自身も長く低迷を味わった天龍からすると「横綱を張った相撲取りの強さはこんなもんじゃない」という思いがありました。
天龍にとって輪島は同じ北陸出身、憧れの大横綱であり、角界時代に「同じ北陸三県だから頑張ろう」と声をかけられたこともありました。「相撲崩れがプロレスやってる」という世間の声に対する意地もあります。
さらには全日本プロレスに後ろ足で砂をかけて新日本プロレスに戻った長州力への意地もあり、プロレスファンに「新日本は戦いがある、全日本はぬるま湯」と言われることへの反発も誰よりも強くありました。
そこで天龍は敢えて厳しい攻めで輪島のほんとうの凄さを引き立してやる、という考えでした。
天龍は事あるごとに「俺は相撲をやってきて強さを知っていたからね。横綱はあれくらいじゃ壊れないと知っていたからガンガンやったよ」「俺にしたら相撲の横綱を舐めるなよ、って気持ちがあったよね。それなら同じ相撲上がりの俺が輪島さんの凄さを引き出してやるよ、と思っていた」と語っています。
新日マットに飛び火、大事件に
この試合は、思わぬ余波を生みます。
当時、UWFとして新日本プロレスに参戦していた前田日明は、この「天龍vs輪島戦」をテレビで観戦し衝撃を受けます。
同年12月、前田は長州力の顔面を思い切り蹴り上げて眼底骨折の重傷を負わせる”顔面襲撃事件”により新日本プロレスから追放。その後、「第2次UWF」で一時代を築きますが、その「きっかけ」と前田氏がこの試合を上げるのは、有名なお話です。
「シューズの紐の痕が付くくらい天龍さんは輪島さん蹴ってたでしょう。あれは俺でも躊躇しますよ。なんちゅうことやっとんねんと思いましたよ」「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」
負傷、低迷、引退
1987(昭和62)年末、「世界最強タッグ決定リーグ戦」に輪島は馬場と組んで出場。5勝5敗1分の11点、7位という成績に終わります。
そして翌1988(昭和63)年、2月に第5頸椎骨折で入院。シリーズを欠場すると、復帰後も精彩を欠き、中堅どころでのカードが定位置になっていきました。
1988(昭和63)年12月16日、日本武道館。輪島はザ グレート カブキと組みクラッシャー ブラックウェル&フィル ヒッカーマンと対戦。輪島はゴールデン アームボンバーでヒッカーマンから勝利を収めますが・・・
結果として、この試合がプロレスラー輪島の「引退試合」となりました。
本人曰く「気力、体力の限界」。派手なセレモニーも引退試合もなく、いつのまにか、気がついたらいなくなっていた、という印象です。
輪島大士氏にとっての「プロレス」
では、輪島本人は自身のプロレスラー生活をどのように捉えていたのでしょう。
輪島大士氏は晩年、さまざまなインタビューで次のように語っています。そしてその”感想”は、私からすると意外なものでした。
出典:Gスピリッツ Vol.10 辰巳出版(2008年刊行)ほか
「不安はありましたよ。だって、プロレスを全然知らないんだもん。それまで相撲しかやってないんだもん。相撲で横綱になって、親方になって、若い衆もたくさんいて、それらを全て断ち切って馬場さんのところに入門したわけだから。僕はもう2年ぐらいしか自分の身体はもたないと思っていましたよ。だって、小学校から相撲取っててさ、それでまたプロレスやったら……自分の身体だからわかるわけですよ。だから、最初から2〜3年だとは思っていたね。ただ、2年で辞めたのは結果としてそうなっただけで。別に2年契約とかじゃなく、契約は1年ごとでしたから。」
「入った時、記者会見で『103キロあります』って言ったけど、実際には90キロなかったですからね。相撲時代は127キロありましたから。プロレスでは最終的に122キロまでもっていきましたよ。もう無我夢中で身体を作って、一生懸命にプロレスを学びましたよ。僕は馬場さんにも奥さん(元子夫人)にも凄く感謝してるんです。元世界チャンピオンの一流の人たちをコーチとして付けてくれて。まあ当時は、そういうことも僕は全然わからなかったけどね。お金のことを言うのは失礼かもしれないけど、馬場さんが僕のために使ったお金は莫大だと思いますよ。」
「私も初めはプロレスをショー的なものだと思っていたけれども、いざ自分がやってみたら、プロレスはそんなもんじゃないと。相撲と違って試合時間が長いでしょ?それを自分で工夫をして、考えながら、自分の哲学でやるわけだから。相撲は相撲で辛いけど、プロレスはプロレスで辛いものがある。だから、”何だ、プロレスは”って言う奴は馬鹿なの。相撲には相撲の哲学があり、プロレスにはプロレスの哲学がある。プロレスはいわゆるショーじゃないんですよ。それを私はヒシヒシと感じましたね」
「みんな仲間でしたよ。全日本の選手はみんな”横綱!”って言って可愛がってくれる、教えてくれる。カブキさんとか、亡くなった鶴田さんとかね。カブキさんは教え方がうまいんですよ。”横綱、相撲じゃないんだよ。こうなんだよ”って。天龍選手、石川君にしても”横綱”って言ってくれた。プロレスに入っても、立ててくれたことに感謝してますよ。」
「彼らが何年も苦労して覚えたことを、たったの1~2年で教えてくれるわけです。みんなカッコつけないで、”横綱、プロレスはこうなんだよ”って。よく天龍選手も励ましてくれたし、馬場さんのところに入って本当によかったなと思いましたよ」
「結局、輪島=横綱なんですよ。相撲から始まって、そこからプロレス。馬場さんの哲学を学んで、そして第三の人生として一般社会でいろんな勉強をして、今現在がある」
「プロレスにしても期間は2年間かもしれないけど。相撲とはまた違った意味で思い出深いんですよ」
「やっぱりプロレスに入った以上、1回はチャンピオンになりたかった。それだけ。それが馬場さんへの恩返しだと思ってたけど、身体が付いていかなかったのが残念だったなぁ…っていうのが本心」
「相撲のグランドチャンピオンだからって、プロレスのグランドチャンピオンになれるほど甘くないって、人生は。後は何もない。悔いはないね」
「馬場さんとの思い出は、一冊の本になるくらいありますよ。懐かしいなあ。青春だったね。あれは旅行に行くっていう感じだったよ。それも厳しい旅行に。自分の人生っていう旅行なんだから。プロレスに入ったことは無駄じゃなかったと思いますよ」
いま、改めてプロレスラー輪島大士とは
私は、輪島氏にとってのプロレスは、借金返済のためほかに行くところがなく「堕ちた場所」で、人知れずひっそり廃業した理由も長く不明でしたので余計に、語りたくない過去、良い印象はないのでは?と勝手に思っていました。
なので、これらのインタビューを読んだ時、驚きがありました。
輪島大士氏は真摯にプロレスに打ち込み、限界まで頑張って力尽きた、という「よい思い出」になっていたのが、救われた感じです。
当時、「プロレスラー輪島」は不器用で不甲斐なくて、失笑の対象でした。横綱時代がカッコよかっただけに、余計に無様でした。しかし、思い起こせば輪島は、体力や技術はついてこない中でも「精一杯、みっともなくても必死に頑張っていた」記憶しかありません。
たった2年間の短いプロレスラー生活。
ご冥福をお祈りします。
コメント
はじめまして。昨晩放送されたアメトーーク「プロレス芸人」を観て、80年代~90年代のプロレスを久しぶりに見たくなりなんとなくネットサーフィンをしていてこちらのブログに行き当たりました。76年生まれの私は、当時テレビを観ていてとにかく輪島のカッコ悪さ、ダサさしか印象に残っていなかったのですが、この記事を読ませていただいて、輪島大士というひとりの人間の魅力を改めて教えていただいた思いがします。
はじめまして!アメトーク、見逃しました(笑) 安心してください、私も当時は輪島、カッコ悪いとバカにしてました(笑)。当時は練習しないとか悪い噂ばかりでしたしね。。。でも、改めて調べてみて横綱まで上り詰めた人が真剣にプロレスに取り組んでいたのだ、と知り、申し訳ない気持ちになりました。これからも昭和~平成初期のプロレスネタをUPしますので、たまに覗いてみてください。
忙しいのに相変わらずすごいね。
輪島の現役はたった2年か。
大相撲も横綱まで登りつめた人が、あんな姿を晒して死に物狂いで取り組むってすごいことやんね。
昨日のニュースでもプロレスラーとしての輪島は取り上げられず、黒歴史のようやったけど(笑)
ってメールアドレス必須なん、めんどいやん(笑)
レスありがとうございます。メアドは別に必要ないんだけど、仕様なのですw
いまにして思えば、輪島さんの場合、相撲廃業時のスキャンダラスな事件にずっと引っ張られて、我々プロレスファンもずっとそういう目で見過ぎていたのかもしれませんね。。。(まぁ実際、かなり破天荒な人でいろいろあったようですけど)。確かにプロレスは不細工で失笑されてたけど、一生懸命だったもんね。自分が歳をとると、なんか切ないですね。