前回ご紹介した、1982(昭和57)年2月7日の馬場-猪木の極秘対談に端を発した新日本プロレスvs全日本プロレスの全面対抗戦計画。
これは当時、マスコミでも一切公表されることがなく、馬場-猪木・新間ラインで水面下で進められていた計画です。
今のプロレス界であればすぐに両者が記者会見を開き、握手して「友好的な交流戦」的な発表するところでしょうが、昭和のプロレス界はそんな安直な進め方はしません。
表向きはあくまでもバチバチにケンカし合いながら、ファンもマスコミにも「到底、実現は不可能だろう」という空気を充満させておいて、いきなりドカーンとやるからこそ話題を呼び、チケットが売れ、視聴率が取れるのです。
先に仕掛けたのはまたもや新日プロ。
新間氏はホテル・オークラでの馬場との会談の翌日、記者会見で「アジア王座の復活、WWF Jr.王者・タイガーマスク vs NWAインターナショナルJr.王者・大仁田厚のジュニア王座統一戦」をブチ上げます。
これにはファンもマスコミも「また新間氏一流のアドバルーン、全日プロへの口撃か」と捉えられ、真に受ける者はごく僅かでした。
しかし新間氏はその夜、東京スポーツを訪問。編集総長の高橋典義氏に「東スポが全日プロとの和解を仲介してくれるなら、新日プロはオールスター戦実現に協力する用意がある」と持ち掛けたのです。
東京スポーツは1979(昭和54)年8月26日「プロレス夢のオールスター戦」を実現以来、ことあるごとに第2回の開催を熱望していました。
新間氏は既に馬場と話が付いていることを敢えて伏せて、対立する両陣営の”仲介役”として東スポを担ぐことで自然な流れを作り、さらに“プロレスマスコミの盟主“としての東スポの顔も立てる、という策を練ったのです。
そうした裏事情を知らない東スポですが、5月18日に銀座東急ホテルに馬場、新間氏を呼び出し、打ち合わせをセットします。
席上、東スポ・高橋総長が「第2回オールスター戦」を呼びかけると新間氏は「いいですね!やりましょう!」と賛同。一方の馬場は「引き抜き防止協定が成立するならば考える」と回答。
これを受けて6月16日付の東京スポーツには「夢の8・26オールスター戦、再び実現へ!」の見出しが躍りました。
この後も、両団体の仕掛けは続きます。
東スポの報道から2日後、6月18日には蔵前国技館の控室で新間氏はマスコミの取材に応じ「ウチが求めるのはあくまで対抗戦。オールスター戦的なお祭りムードは不本意。ガイジンの引き抜きをやめるつもりは毛頭ないし、競争のないプロレス界はナンセンスだ」と友好ムードをブチ壊す発言。
馬場もこれに呼応し「新日サイドが相変わらずそんな態度じゃ、とてもじゃないがオールスタ戦の開催は難しい」と新間氏を非難。
あくまでも険悪なムードを“演出“します。
しかしその水面下では、馬場-猪木(新間氏)のホットラインは続いていました。
1982(昭和57)年7月、ジャイアント馬場は長く事実婚状態だった元子夫人との結婚を公表。この際、猪木&新間コンビは結婚発表のプロデュースを申し出ていたとされます。
また、猪木はたびたび馬場にアントン・ハイセルへの出資を持ち掛け、それを固辞されると「2人で新しい会社を作り、プロレスとは違う事業をやっていきましょう」と持ち掛けていたとも言われます。
こうしたプライベートの話だけでなく、本題のプロレスに関しても1982年夏ごろには「引き抜き防止協定」を書面にして両者が署名・捺印。さらには、統一コミッション設立にも話が及んでいたのです。
幻の「日本プロレス統一コミッション」構想
この統一コミッション構想について、当時、新日本プロレスで副社長を務めていた坂口征二はこう述懐しています。
「俺が馬場さんと連絡を取って、全日空ホテルとか帝国ホテルとかで結構、頻繁に猪木さんと3人で会ってたよ。馬場さんが猪木だけじゃなくてお前も一緒に来い、って言うからさ(笑)その頃はまだレスラーが60~70人ぐらいしかいない時代だから、選手を登録制にしてライセンスを発行するとか、猪木さんと馬場さんの弁護士も入れて、ある程度話がまとまっていたんだよね。あの時はホントに馬場さんも猪木さんもコミッションを創る気があって、真剣にやってたんだよね」
ところが、この構想はやがて幻に終わります。
坂口によればその理由は「名前は出せないけど第三者が出て来た」から。「その人が搔き回したから、馬場さんも猪木さんも“や~めた”ってなったんだよ。あのコミッションが実現していたら、UWFも生まれていなかっただろうし、Jリーグじゃないけど、ああいう体制が出来上がっていたよね」
この坂口のコメントから、対抗戦は新間氏、コミッション構想は坂口が対応していたことが分かります。
これは馬場から新間氏に対し「今後、いろいろ話し合っていく中で猪木は人前でオレに頭を下げるのは抵抗があるだろ。それだったら窓口は今まで通り新間さんのままで、これからは後輩の坂口を寄越した方がいいんじゃないか」との発言がきっかけだった、とのことです。
新間氏は「これは馬場さんの猪木に対する気遣いと、坂口さんを自分たちと同等の立場に引き上げてあげたいという気持ちがあったんじゃないかな」と分析しています。
なぜ対抗戦とコミッション構想は幻に終わったのか
このままいけば、「第2回プロレス夢のオールスター戦」(新日本プロレスvs全日本プロレス 全面対抗戦)は、1982(昭和57)年8月26日に東京・蔵前国技館で実現するハズでした。
ところが、思わぬ事態が起こります。東スポから両団体に手渡されていた「支度準備金」の小切手を巡り、東スポから極秘情報が漏えいしたのです。
新間氏曰く「ウチはハイセルの問題があったからすぐに換金したんだけど、馬場さんは換金していなかった。それで東スポの高橋総長が全日プロのある社員に“いつまで経ってもメンバーもカードも決まらないけど、どうなってるの?金なら馬場さんに渡してあるよ”と言ってしまった。それを聞いた馬場さんが激怒して、『別にこっちが要求した金でもないのに冗談じゃない。新間さん、オールスター戦はやめるよ』って。こっちも『御大がそう言うなら仕方ないですね、じゃあやめましょう』って」
こうして交渉は決裂し、東スポは7月9日付の紙面でオールスター戦の開催断念を発表。表向きの理由は『新日サイドが和解案を拒否したため』とされました。
しかし、両者は「東スポ主催」ではなく、自前での対抗戦開催に切り替えただけでした。
7月3日にはホテル・グランドパレスで馬場、猪木、新間の3氏で会談。新日プロ、全日プロ共に東スポに支度金を返金した上で、対抗戦計画は続行される予定でした。
翌1983(昭和58)年1月2日には、後楽園ホールで行われた全日本プロレス新春興行に新日本プロレスの坂口征二、新間寿氏が表敬訪問。馬場とにこやかに歓談し、マスコミへの“絵作り“が行われました。
そしてその2日後の1月4日、東京プリンスホテルで行われた「82年度プロレス対象授与式」では、馬場・猪木のツーショットが実現。猪木は「馬場さんとは握手はしない。今年もガン仕掛ける」と“過激な”挨拶をするも、両者ともに表情は終始にこやか。
マスコミの要請に応じて、BI砲と初代タイガーマスクの“夢の3ショット”も撮影されました。
しかし、この流れは突如、終わりを迎えます。
同年8月18日、ロスアンゼルスで極秘に執り行われる予定だったタイガーマスク、佐山聡の結婚式に、馬場夫妻も招待されていました。
ところがその8日前の8月10日、タイガーマスクが失踪。結婚式がキャンセルになったばかりか、そのままマスクとベルトを返上して電撃引退、という大事件が起こります。
そしてその流れは新日本プロレスの屋台骨を揺るがす「クーデター事件」へとつながり、猪木・坂口はそれぞれ社長、副社長から降格。新間寿氏は辞職を余儀なくされます。
こうして新日本プロレスvs全日本プロレスの全面対抗戦計画も、統一コミッション構想も幻に終わってしまいました。
そしてこのクーデター事件で独り、プロレス界を追われた新間寿氏の“怨念が、「UWF構想」となって再び、アントニオ猪木・ジャイアント馬場の両巨頭を巻き込んで、展開していくのです。
つづく
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